2007年7月 4日 (水)

ネタに釣り。煽りに罵倒。よのなかってワンダー。

まあみんなおんなじこと考えてんのねって話。素敵シンクロニシティ。

下記あんとに庵さんのエントリで「女がこんなだから男が弱くなったんだYO!」と脳内中心から世界に向かって叫んでいる人がいるのを知った。

↓あんとに庵氏のエントリ
■[文化一般]男女の非対称性・DVの光景
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20070702/1183339288

そのネタ元はこちら↓
■住 太陽のブログ「女性の心ない言葉の暴力に殺された男たち[鬱文書注意] 」
http://www.motoharusumi.com/jobs/motivation/violence_in_word_by_woman.html

mixiやら2ちゃん界隈では「恋愛なんて肉欲を満たすための大義名分。風俗と一緒」とヘンチクリンな論理モドキを展開する人が定期的に現れて一席ぶつのが恒例行事なわけですが、みんな恋愛話好きだねえ。否定する割にはどうにも気になるのか、恋愛マンセー社会を糾弾するとかなんとかいってそのネタをいつまでも引っ張る。そうなってくると、かまってちゃん疑惑やら仲間欲しい!!って叫んでいるようにも見えるし、どうしたもんやら。そのあたりをもっと巧妙に、ある目的のため(自称)に文章化した結果が上記住太陽のブログ記事になる。ネタらしいけど、ネタであるならそんな言い分墓場まで持っていけよ。どうも自称釣り人は「釣りでした」とわざわざ宣言しなきゃ気がすまんらしいな。ネタですよと暴露して「なにマジになってんのバーカバーカ」なんてイマドキいくら昭和懐古ブームだからって80年代ひきずるんですかこの平成生まれが成人式迎えようってときにアータ。そもそもブームは昭和30年代らしいのでちと先取りし過ぎでございましたな残念でした。とまれ、なんとなく言いたい放題のルサンチマンを書き殴るエクスキューズとして「釣り記事」を大義名分にしているにすぎない気がするのは私だけでしょうか。

所詮俺ッちごときがぐだぐだいっても、アフィリな方やご商売に熱心な方はそんな謗りはなんてことはないだろうけどな。世の中儲けたもん勝ちらしいし。日本人の美徳といわれる「謙虚さ」「つつましさ」なんて過去のもの。いろんな意味でわくわくしてくる社会になってきたものだ。もっとも自分の内閣を「美しい国づくり内閣」なんてわけのわからんことをいう人が総理大臣やってんだもん。当たり前かもしれません。

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2007年5月17日 (木)

「嬉しくない味方」(伊勢崎のジャンヌダークは今日も無意味にお元気ですね)

助け舟がある、というのは有り難いものだ。

先日友人の誕生日にシーサーをあげようと思ったが。義務教育で美術の修練を終えた私にとって、それは思いついたはいいが実行となると果てなき難事業である。たまたま彼が美術系大学を卒業し、粘土造形好きだったおかげで、ほぼ思い通りの作品に仕上げることができた。

また左記のように直裁ではなくてもミッチェルのように、ある政治的な事柄に対して私が書く時に、専門職ならではの重要な示唆をくれる人もいる。そのため、賛否双方の論を考察することができ、私なりに深めた(または香ばしく醗酵させた、ともいう)論を展開することができたりする。

このように助け舟、または味方というのはたいていの場合有難く、嬉しいものである。私と同じような政治的立場の人から自分の論拠になるような資料を教えてもらったときもしみじみとした有難味を感じる。

だが、悲しいことに嬉しくない味方というのも存在してしまうのがまた人間社会というものだろう。そしてそういう「嬉しくない味方」に限って、悪目立ちするのだからたまらない。

さて若干話がそれるようだが、私は個人的には「南京“大虐殺”はなかった」という立場をとっている。なかった、というか、おそらくは市街戦より若干多い数字ではないか、と思っている。(秦郁彦氏と非常に近い立場といえる)犠牲者が出ているので、冷徹に話しすぎると人間性の問題とも思えてくるが、『「大虐殺」というには言葉が過ぎる、市街戦に市民が巻き込まれてしまった』といったおそらくはこのあたりが「妥当」ではないかと考えている。(大虐殺というのなら、まさに広島長崎がそれに該当する。当時の市民数から考えても現在中共が提示している数字はありえないだろう)上記のような立場をとり、また、従軍慰安婦についても「現在積極的な政府関与が認められる資料が見つからないのだから」政府による強制はなかった、という意見であると、右より称されることが往々にしてある。以前は、この手の意見は少数派であるが、小林よしのりの活躍やらネット普及もあって、特に珍しくもなくなってきたようだ。ネットを見ていても、ああなるほどとこちらの参考になるような意見を読むことも多い。ネットウヨクなんていう蔑称もあるようだが、十把ひとがらげに扱ってほしくないと常々思っている。「嬉しくない味方」が槍玉に挙げられ、「だから右は馬鹿ばっかりだ」と嘲笑されるのをみると、ひたすらむなしい。「嬉しくない味方」に向かって「お前は黙ってろ」と言いたくなることも多々ある。

でもって、「嬉しくない味方」は誰よ?って話なのですが、例えば八木ヒデジ(秀次ともいう)のような自称学者であったり、伊勢崎のドンキホーテ(あれ?)こと某女性市議会議員だったりする。それにしても意気軒昂だな伊勢崎の自称ドンキ、もといジャンヌダルクは。

「真っ赤な嘘」
http://blog.livedoor.jp/junks1/archives/50991771.html

こちらのエントリーで上記記事を知ったのだが、前回もさんざん叩かれたのに(詳細はリンク先参照のこと)、いやあ懲りてないというかなんというか。そんな事誰も言ってねえよという論拠をでっち上げて、それが否定されたからと怪気炎をあげている。このひとといい八木デムパといい、この手の論述が大好きだな。アレな人はアレな人なりにおとなしく黙っていればいいものを、デンパ受信八木といい、伊勢崎のドンキホーテといい、脳のオデキと反比例するかのように自己顕示欲だけは旺盛だから困ったものだ。ひっこんどけ、なんて言論の自由を阻害するようなことはいえないし。

とまれ左翼や一般大衆の皆さん、だから右翼はダメだなどとお願いですから言わないでください。特に伊勢崎のドンキホーテは、話のマクラに天気の話しかもちだせないようなレベルなんですから。そのあたりの事情をおして生暖かく見守ってください。ヲチるには最高の物件なのですから。

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2007年5月11日 (金)

「それって、アタマ悪過ぎ」

たまに私のことを「頭が良いね」などとという人がいるが、そういう言葉は、単にいやみかなにかだと思っているので、一切気にしないことにしている。どっちかというと私は頭が悪いと思っているからだ。どういう風に頭が悪いかというと、すぐにチンマンコとか言い出す時点で既にアレですな。それはさておき。

さて、「頭が悪い」状態にも種類がある。まあ私のようにあまりにも根本的な部分で問題がある場合や、徳川幕府は平安時代に誕生した、というような基礎学力に欠けている人なんかは分かりやすいとは思うけれども(特に基礎学力不足な人は、アイドルなんかだと「天然」と言い換えられて、それはそれで萌えポイントになったりしますな)、厄介なのは、前後矛盾したことを平気でいい、それでいて他者をダブスタと批判したりする客観性がかなり欠如しているような人である。往々にしてこの場合は、周囲とは言語認識能力および使用する力量の差が顕著となり、本人だけが自覚できないがまわりは認知しているという図式に陥りやすい。また、そういう人は、他者の言質をとる、つまり誰かが発言しないと自分ではなにかを言うことができないという、本人の「問題」が発揮されるのが「誰かがなにかを発言した際」なので、かなりたちが悪い。具体的に指摘しづらく、したとしても例えば「空気読め」に代表とされる曖昧な表現しか思い浮かばないので、言語認識能力および使用する力量に差がある人(+客観性の欠如)は指摘されてもなんのことやらさっぱりだろう。なぜ「差があるのか」が分からないから問題なのであって、その差を理解させようとしても、病巣が「イギリスでおきたフランス革命」ばりにわかりやすくはない分、徒労に終わる蓋然性が高い。基礎学力が足りなければこちらも諦めがつくけれども、こうなってくると、話していてもお互いいらいらするばかりで、まったく先には進まないし、建設的な方向には進みづらい。困ったものだ。

この前、久しぶりに昔荒らされた自分のブログ記事を見て、炎上とかなにやらを少し考え見た。そのときは炎上までは行かなかったけれども、とにかく炎上させる人も、されちゃう人も、上記のような傾向が見受けられるのが面白い。「その結果他者がどう考えるか」という観点がまるごと抜けているのだ。まあ書き手/受け取り手の能力が問われないのがネットの良いところで、またいかがわしいと世論から認識されてしまうところなのだが、淘汰されたらつまらないとも思う。結局のところ大事なのはチョムスキーのいうように、情報を精査する能力なのだろう。なのに、その最も重要なところがどこか放置されすぎているように思える今日この頃。

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2007年2月 8日 (木)

IDはEDにあらず。(ID論は進化論に勝つか)

ミッチェルのblog「わらばー自治区」記事より。

積ん読その12『反☆進化論講座 空飛ぶスパゲッティ・モンスターの福音書』
http://blog.so-net.ne.jp/warabaa/2007-02-08-1

ぽむちぼんの癖にたまにはいいこというなとチョト感動。特に「例えば某新聞社では、歴史教育と道徳教育の観点からIDを好意的に取り上げた記事を書いていた。」というあたりとか。

ID説っつーのは、「生物の複雑さは進化論では説明できず、なんらかの“知的存在”がデザインしたとする説である。それがキリスト教の神であるともないとも明確にはせず、あくまで科学的仮説なのだから、進化論と同様に公教育で教えるべきだ、と主張して教育委員会等に働きかけている。」(前傾記事より引用)というもので、まあキリスト教右派が何らかの形で影響を与えたいんだろうな。勝手な思い込みですが、イトシのヒデジこと八木秀次氏あたりが嬉しそうに「アメリカではこういう考え方がある」とまた我田引水しそうな気がします。そしてアベちゃん教育改革(ブレーンだそうだよ)の目玉に、と御用達の世界日報でぶちあげる、と。

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2007年2月 6日 (火)

コンプレックスを生み出したのもお前なら、あとはてめえでなんとかしやがれ

映画を毎日きっちり見てる割にはそのほかに書くことが多すぎてレビューまで手が回らんですよ。キムギドクの「弓」はよかったとか、いやレビュー以外にも先日もの凄くイイ男と飯を食ったとかいろいろ書きたいのにちくしょうめ。だからこんなことで煩わせんじゃねえよオマエのことだよわかってんだろ。

コンプレックスなんざてめえで生み出したもんじゃねえか。他人がどうこう言おうとも拘泥してしまう自分にとっての課題をコンプレックスというのなら、一人相撲もいいとこだ。コンプレックスへの呪詛はお前がお前に言っている寝言に過ぎないことに気づけ。誰かがお前の欠点を馬鹿にしたからコンプレックスになったなんて人のせいにするな。創造主なら生み出したものに対して責任をもて。不細工だから男にもてない、背が低いから女にもてない。だからどうした、と私は言いたい。もてないからなんだっての?もてたいならそれなりに努力しろよ。顔面に恵まれているやつだって頭脳経歴に恵まれているやつだってそれなりにみんな努力している。いわんや恵まれてないやつなぞ、努力しなきゃどうしようもねえじゃねえか。二言目には俺はこうだ私はこうだと繰言ばかりヌかしているから「理由」にされるんだよコンプレックスを。

例えば、男と別れる、またはフルときだ。

私なら、その後もそいつと友達付き合いしたいとも思わない場合、徹底的に酷いヤツになる。だいいち後腐れなく別れるには、憎まれるのがもっとも効率的かつ有効な方法である。そういうわけで別れる理由としてそいつがコンプレックスに感じている部分をつく。よってそいつが不細工なのを気にしているのなら「顔が悪いから」、背が低いのを気にしてるなら「ちび」だからといえば、二度と連絡をよこしてくることもないだろう。本当はそいつの性格上に問題があるときでも、そんなのを指摘してぐだぐだするのも面倒だし、どうでもいいやつがどうなろうと私の知ったことではない。

そう、だから断られる理由で自分のコンプレックスを相手が指摘したとき、怖いのはそういうことだ。「背が低い」のを理由に断られたとしても、実際は「背が低いことをぐだぐだいう性格」が嫌なのかもしれない。ていうか、そうなんだろうけどな。うざいんだよ。

なぜうざいか。

「俺は背が低いだろう?」っていうとき、否定してもらいたいという気持ちがその裏にあることが透けて見えるからだ。「そうじゃないよね?君はそんなこと気にしないよね?ありのままの僕を受け入れてくれるよね?」ということに対して、毎度毎度「ありのままのアナタがスキよ」みたいにいわなきゃいけないなんてウザい以外の、なにものでもない。確認作業が必要なら音声付ダッチワイフでも買えばいいのだ。

ありのままの自分に価値があるとか意味があるとかよく思えるなって私なんかは感心する。ニーチェ式に「価値のない意味のない人生だからこそ自らで価値を作り出すのだ」っていう風には考えないんだな。だってメンドクサイし。ありのままを認めろっていうのは相手に甘えている行為に過ぎないんだけど、ご本人はそのつもりなく、権利主張だと捉えていたりするからフシギフシギの不思議膏でございます。

さてオノレの身体的特徴にコンプレックスをもつのは、まだ消化しやすい。どうにもでなるのならどうにかすればよいし、どうにもならないのならあきらめて別な側面からアプローチすればよいからだ。それにいつだって歴史を動かすのはルサンチマンであるとカール・マルクスもいっておりますし(嘘)。では、オノレの過去にコンプレックスを抱えている場合はどうしたらよいのだろうか。忘れられるから生きていけるといったのは三島由紀夫だが、忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ、なんて哀願調でまとめられてもねえ。忘れようとしても忘れられない。オノレが異常者であるという烙印は自分では消せない。時が経っても、それはひどくなることはあるにしろ、決して勢いが衰えることはない。なぜならオノレがしたことだから。

私が男と寝る、性的な行為を行ったのは4歳から5歳にかけてのことだ。
お医者さんごっこなんていう生易しいレベルではない。相手の子も同じくらいだったから勃起できなくて挿入まではできなかったけれども。いまでもあのときのことは鮮明に思い出すことができる。

私は被害者ではなく、ある意味加害者だ。なぜなら私が誘ったから。時が経てば経つほど、私は自分のしでかしたことの意味とその重みを十二分に理解させられる羽目になった。私は、たとえ親であれ、男性に無邪気に抱きついたりといったスキンシップをとることができなくなった。自分が異常者であることが周囲にわからないように行動には細心の注意を払うようになった。自分が女性であることを嫌悪した。願えば男性器が生えてくるのではないかと毎日神に祈りながら眠った。自分のした行為がなんであったのか正確に知るため小学校低学年から瀬戸内晴美を読み愛欲を知り、岡本かの子を読みおんなのかなしさを垣間見た。エロ本を買って男女の営みの滑稽さを目の当たりにして絶望し、卑猥語をそれとわからず使っている同級生を羨んだ。そして生理が来て、自分が女である現実からは永遠に逃れられないことをのろった。

中学生になり愛人をもち、そいつが私を自分好みに仕立てたいから選んでいることを鼻で笑いながら貢がれることの楽しさを得たりして、ああもう私は普通のコイビトなんて、と熟知した。私は汚れているのだから、こんな私でも選んでくれたのなら、絶対に拒むのをやめようと。そして16歳で31歳の男によって処女を失い、それでもオノレの性を悩みに悩んでついには精神病院に放り込まれた。家には一年のうち三ヶ月ぐらいしかいないようになり、二極性精神障害という病名が光り輝くわけです。そんな日々が長いこと続いた。死んだやつもいた。死なせたやつもいた。生き残ったのは、この私だ。

どうだ。こんな風に不幸自慢なんて誰だっていくらでもできる。100人いれば100通りの不幸があるだろう。“幸せな家族は似通っているが不幸な家族は様々である”のだから。他人の不幸なんてつまらんだろう?一読してうんざりしただろ?だから無意味なんだ。そして「自分はコレだけ差別を受けてきた」と主張している人が、他人の痛みやらなにやらにまったく無神経だったりする。ちゃんちゃらおかしい。そういう輩に限ってダブルスタンダードだと他者を攻撃したりする。ダブスタ同士仲良くやれってんだよ。相手を差別するのなら、てめえだって差別されて当然じゃねえか。自分が特別視されたいのなら、オノレのキャラを生かせよ。認められたい、ほめられたい。だったらそれなりに努力しろ。自分を変えることで『世界』を変えよ。自分の位置を変えようとせず、その努力を怠っていながら結果だけ望むとはいいとこどりで都合よすぎなのです。これでもまだあれこれ文句たれるなら、こんな話はいかがかしら。

「需要と供給なんじゃないの?」と我らが総帥はコーヒーをちゅーっとすすって淡々と言う。私わからないんだけど、と人差し指をほおにあてて夢見る乙女ポーズ。
「例えば背が小さいオトコノコならチビっこ掲示板にいってみたらどうかしら?若いうちに売らないと高い価値つかないのよあっちも」フケ専門デブ専門は知ってたけど、チビっこ専門もあるのか…なるほどゲイの世界は奥深い。「需要があるところに供給すれば悩まなくてすむのに、不思議なハナシだわ」と総帥はにっこりと。なるほどね、ありのままの君が好きだといってくれるわけだから、悩めるアナタにとってこんなに有難い話はないでしょう?そんなわけで需要のあるところへ供給すれば万事快調。そうでないのを望むならそれなりのことをせよってことでちゃんちゃん。

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2007年2月 5日 (月)

おゲージツ地雷(ごリッパな芸術家気取りがイチバン嫌だ。)

最近、私が撮った画像をmixiアルバムやgooブログへあげるようにしている。

もちろん自分の撮った画像が巧いから載せているわけでもなく、なんとなく批評が欲しいという気持ちと、撮った画像を客体化して見たいという感覚でupしている。それでもほめられたりするとやっぱり嬉しい。うまいですね、といわれるよりも、雰囲気がある(まあ下手をほめるとしたらこれしかないわな)あるいはこのとき撮った感情が分かるというような指摘をされたほうが非常に面映い気持ちになる。なにかを伝えることに成功しているわけだから。

だが、まれに評論家気取りであれこれいってくる輩もいる。実に無粋だ。頼んでもいないのにいう人間に限ってどうでもいい批評をよこしてくる。なんの参考にもならない上に、感情が沈殿していきやがてやる気すら奪う。まさに地雷である。webで発表する以上宿命とはいえ、やりきれない気持ちになる。

今回そんな地雷を踏んでしまったのは、私が好きでよく見に行く人だった。彼の絵につけたそいつのコメントを読めば読むほどその小賢しさにまったく腹がたつ。根本敬先生ではないが「お前は黙ってろ」といいたい。上からものをいう、高い見から見下したコメントを書いたご本人がどれほど「オゲージツ」なのかその絵を見に行ったが、これがまた実にアレで、よく言えば「きれいですね」悪く言えば「ラブホの飾り絵みたいな」、つまり絵葉書にはぴったりというところかなと。

まあそれでもねえ、私のような美術好きとはとてもいえない人間(だって好きな画家はフラゴナールだし)だからそんな感想を抱くのかも、だってゲイダイ卒って書いてあるしぃ~とハニーコミヤマに意見を求めてみた。彼は美系大デザイン科卒なので不見識はお前だ、あの絵の素晴らしさがわからんのかぐらいのことは言われるかなと思ったが、その意見は私と同様というかもっとアレで、あーゲイダイって感じだねえと切り捨ててしまった。この人もさあ、結局その絵が売れてたらそんな批評なんかしないと思うよ、この人の絵みてると技術だよね、だからなに?って思う種類の絵、として更に続けた。

「つまりさこういうのは、“恋人達の甘い囁きを、国語教育の立場から添削する”ようなものだと思う。 なにも恋人達は教育者のために言葉を紡ぎ出すのではないわけで、そこに敢えてしゃしゃり出てくるのならば“無粋”の謗りを免れないよね。言葉も絵も、一度制作者の手を離れた作品は様々な評価に曝される。でもそれが“誰に対して”“どんな場で”発表されたものかを予め理解しないと、正しい評価にはならんと思う。 」ま、なんだね、とちょっと笑って彼はいう。

「『プロの立場から言わせてもらうと…』なんて意見は往々にしてお呼びじゃないもんです」

私も以前ある人に小説を見せて「お友達の瑠璃子ちゃんが一生懸命書いたと思うと頑張ったねえといいたい」とものすごい批評をされたことがあるが、それでもやっぱり書くことが好きでこうして続けている。こういうのはもう好きだったら続けるべきであるとしかいいようのない話なんだろうな。だから「おゲージツ地雷」にヤラレてもめげずに長い年月じっくりと続けて欲しいと、件の被害者には思う。すぐに復活しなくてもいいからさ。なにしろ、私はあなたの絵がとても好きなのだから。

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2007年2月 1日 (木)

「和食認証制度」をめぐるTB議論総括

ツボに入る言葉、というのがある。

この間別なところでコメントをやりとりしていた際、「僕が快く思っていないものは『答えが一つしかないもの』に対して『いや、色々な人の意見がありますが...』とお茶を濁す行為と、『答えが沢山あるもの』に『お前、それは間違っているだろう!』 と断罪してしまう行為です。 このどちらも凄く破壊的な事なんだけど、多くの人は、意識的・無意識的に関わらず、これをすりかえてしまう。 」というレスが相手から返ってきた。なるほど、と思う。

またある政治学者と話していて印象に残った言葉もある。「政治学的な問題というのは、知れば知るほど断言ができなくなる」つまり裏を返せば知らなければ知らないほど断定できてしまう、ということになる。

私なぞは自分の知識の無さに絶対の自信をもっているので、相手から知らないことをつきつけられたとき、まずは調べる。そして調べたとしてもその結果について断定など絶対にできない。知らないのに断定するなんてもってのほかだ。なぜなら、一例を出すと朝鮮人従軍慰安婦は政府による強制の元で行われたというテーゼに対して、あったともなかったとも断定はできない。(どちらの立場をとるか、ということは選択可能ではあるが)もしかしたら今後強制された証拠がでてくるかもしれないし、でてこなければ強制がなかった証左となるからだ。オノレの主観に基づく話はいくらでも断定できるが(面白いと思うだとかイヤだとか好きだとか)、そうではない政治的な問題ともなれば断定できなくなるのがセオリーというものだ。

怖いのは断定してしまうことによって積み重ねられるある種の「イメージ」である。ベルグソン的イマージュはどうでもいいので簡略にスパっと述べてしまうとつまりよく言えば「うっかりさん」悪く言えば「知ったかぶり」をする人という風に見られてしまうことである。そういうイマージュの総体として語られるのは避けたいものだ。

避けたい、というのなら「日本人ならこうあるべきだ」と定義してしまう事も避けたい。私は日本語がかなりあやふやな人間なのでそんなことを言おうものならweb上で発表した全ての文章をチェックしてしまいたくなる。例えば「すべからく」を「全て」という風に誤用していたりすると、「日本人ならどうのこうのというくせに、日本語すらまともに使えないのか」と冷笑されかねない。私は見栄っ張りなのでそんな馬鹿者と思われてしまうようなうっかりはなるべく避けたいと小心に考えてしまう。ダブルスタンダードを用いる人というレッテルも、避けるべき命題ではある。

見知らぬ誰かに自分の言説が説得力を持つものに思わせたいのなら、それなりの知識、具体例、数字を提示しなければ、相手の信頼を勝ち得ないのではないだろうか。であるがゆえに、和食認証制度についてもマツオカという大臣がBSE問題のとき、いわゆるドウワ利権の後押しの結果どのように暗躍したか、あるいは当時の武部農水大臣がそのためどれほど大変だったか(だからこそ彼はその突破力を見込まれて幹事長に抜擢されたといわれるわけだが)ということを知らないと「正しい和食文化を伝える」などというお題目に釣られてとびついているとみなされてしまう恐れがある。個人的見解を述べるならば、BSE問題のとき、ドウワ利権のために簡単に国民の食生活安全保障を放り投げたマツオカが「日本の食文化を守れ」などとよく言えたものだ、まさに「おまえがいうか」であると思うが、それもあくまでも私がドウワ利権の真相などという怪しげな本や資料その他により独自に調べた結果であるので、共感する人は少ないかも知れない。

和食認証制度委員会のお歴々や議事録を流し読みする限り、こんな仮説を妄想したがどうだろう。委員会の面子は外食産業の大立者であり、仮に彼らのうちの誰かが経営するドコカがアメリカに出店するとする。そこで政府は認証制度を適用し、そうなると認証制度を大々的に前面に出した広告展開をそのチェーンは行うだろう。チェーン店舗にむけて農産物などを輸出すればそれだけで飽和状態にある国内生産物で利益を出すことができるわけで一挙両得とまではいかないかもしれないが、少なくても赤字農家対策にはなる。農村の堅実な票がきたる参議院選挙で期待できるようになれば、内閣支持率が下がり県知事選挙でも無所属候補にやぶれ打開策が見出せない自民党には心強いだろう。さてこんな三秒ぐらいでデッチあげたようなネタでも、2億3000万の血税を費やすことを考えれば「海外じゃなんでも刺身で食うから和食認証制度を導入せよ」なんてハナシよりも説得力はあると思うがいかがだろう。上記のような推論(サシミじゃないよ)の場合、国益という観点から考えればそれでいいじゃないか、と肯定論として考えることも可能であるわけだし。なんにせよ刺身よりは話として通るだろうと、私は考えている。

先に結論ありきで考えるとどこかの学者モドキのように、相手が書いてもいない文章を書いたと主張したり、あるいはミトコンドリアなどとウサンクサイネタで勝負せざるを得なくなる。(そういや、改訂のたびにこっそりと問題記事を削除したり変更したりするので、初版本と重版本で内容が違うという椿事が起きたジャーナリストモドキもおりましたな)誰かに自分の言説を認めてもらいたいなら、それなりの下調べをした上で主張しないと、単にアレな人といわれて終わってしまうのではないだろうか。私はアレな人ではあるが(是は断言できる)、これ以上処置なしとは思われたくないので、せいぜい小心者は小心者らしくチマチマと調べた上で書いていきたいと考えている。

以上、今回の和食認証制度をめぐるTBの件において私の思う二、三の事柄。以下はこちらの記事に対する反論です。

・まず刺し身うんぬんというのは賛成の、なんら有効打にならない。なぜなら、海外の日本料理屋で寄生虫がいる魚を刺し身にしている店がどれほどの割合であるか具体的な数字がないから。具体的なパーセンテージを提示しない限り、すべては憶測に過ぎない。また実際に摘発された店があったとしてもそれは当事国の衛生法のもとで裁かれるべき事案であり、それと日本食文化が誤解に基づいて調理されているということはイコールにはならない。特殊事例を用いて全部がそうであると断定してしまうのはあまりにも危険である。例えば日本では川魚を刺身に出す店があるからといって、全ての店が川魚を刺身にするわけではないからだ。そして重要なのはこの案が発案されたのは日本料理が(調理法ではなく)味覚として独自解釈されている恐れが有るからであり、認証制度を導入しようという立脚点は、海外で寄生虫のいる魚を刺身にしたからではないのだ。この問題において刺身にようなトンデモを持ち出すのは、ナイフの危険性について語っているときに(アーミーナイフは学校に持ち込める、いや包丁だってみたいな)突然石器や黒曜石をもちだしてくるようなもので、なんら関係ない上に困惑するだけである。

・民間による和食認証制度はフランスで行われている。在留邦人団体が独自にガイドブックを発行している。これは最近報道されたものなので検索すればヒットするでしょう。ヒントは毎日。ゆえに海外で民間団体がそのような認証制度を行ったことはないというのは事実に反する。

・海外の日本料理店を利用してアヤシイ日本食を食べさせられた(とするなら)客が実際にいつどのように日本に対して抗議したのか。具体的に日本政府が対処すべき問題なのか。仮に認証レストランなるものができたとして、本当に(おそらく大半は「正しい」日本食かどうかなんて考えてなくて安くて日本風の食事がしたいだけの)客がそれを目安にして店を選ぶかどうか。本当にできるだけ「正しく安全な」日本食が食べたいというほどの客ならば自分で探すだろうし直接日本を訪れるだろう。(政策としての効果・有効性が低い)。それは単にガイドブック頼りの(海外で日本食を食べたい)日本人観光客のためにしかならないのではないか。日本の「ブランドイメージ」(などというものがあるとして)をそんなに危惧するのなら、「女性は子供を産む機械」と発言するような政府首脳の存在(しかも発言者は国民の健康福祉に携わる省庁のトップ)自体がよっぽど日本のブランドイメージを悪くしていると思われる。

・それから、日本の「ブランドイメージ」を気にするなら変な発言をする自国政府首脳のほうが問題であると述べたが、「国内の不祥事問題を理由にこの制度の是非を絡めるのは論点のスリカエ」という意見もある。しかしこの場合全く同意できない。なぜなら、政府首脳の発言は国内で報道されるのみならず即座に外電で海外に知られることになる。もし日本の「ブランドイメージを守る」、それが日本の国益だと声高に叫ぶのならば、どこぞの海外のアヤシイ日本料理店の刺身を気にするより、自国政府首脳の問題発言がどれだけ日本の「ブランドイメージ」をぶち壊し海外に在住する日本人が恥ずかしい思いをするか気にするほうが、よっぽど国益にかなっている。

【まとめとおことわり】だいたい記事にした後で、どういう概要か農水省の発表を読んでるあたりなんともかんともではある。元ネタにあたって真偽も確かめずに記事にするようじゃ、まるで朝日新聞並みの飛ばしっぷりですな。以後私の記事に反論する場合は、憶測、他者の記事、あるいは一見関係するようで無関係なニュースソースではなく、議事録や団体の背後関係、あるいは日本の農産物の消費量、輸出に伴うメリット等の観点、つまり具体的な数字を上げて反論してください。そうでない場合はどのようなTBであれ無視します。んじゃね。

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2007年1月30日 (火)

そこじゃないでしょ(和食認証制度をめぐるあれこれ)

以前、私は、あるテクストを元にAとA'という風に解釈が別れる場合、その両方に対して理解できるという立場をとることが重要であると記したことがある。

「和食認証制度」という今後どういう運営がされるのか、現在発表されている政府概要だけでは、ハコモノ行政レベルで終わるのか(利権系)、それとも輸出推進路線(行政主導民間委託)でいくのかまだ見えにくい問題に対して、であるがゆえに、利権系となる恐れを指摘することも、輸出拡大につながると肯定する意味もよくわかる。両方の立場を取ることは可能である。論拠として理解できるので、議論として成立するといえる。

だが、例のあのお方のいうような「美しい国」レベルの言説ではどうか。つまり具体性を欠いた形容詞や例えをだされて反対・賛成といわれてもそれでは何の意味もない。伝聞レベルの内容で論拠を立てるのはデマを誘発するだけであるということは、おととしあたりに書いた「民主党沖縄Flash」問題で私は懲りている。

私の「和食認証制度」に対し疑問を呈した記事へTBを頂いたが、その方の記事を読んでそういう意味では少々フシギな感覚を抱いた。上記のような観点から賛成論を唱えるのならわかるが、刺身食べるから、という話しをもちだされてもなあ。日本や中国、東南アジア南米アメリカフランス(このうち「和食認証制度導入問題」になっているのはアメリカではあるけれども)の、いずれの国もそれぞれ食品衛生法というのは存在するとは思うし、違反すれば処罰されるのはその担当者であり、批判されるべきは衛生法を違反した人間であり、その料理を伝えた国、ではない。恐ろしいのは(鳥インフルエンザのように)風評被害であって、正直、具体的論拠に依拠しない話はどんなに優れていたとしても、風評を広めている謗りからは逃れられないと思う。私がブラジルにいたときも、当時流行っていた赤痢の原因が刺身とされたが(その割りに生水がんがん飲んでるから馬鹿だなとは思ったが)、風評はいわゆる「人の噂も七十五日」であって、売り上げ減はむしろその後に乱立することとなった日本料理店によるもののほうが大きかった。いくら「民度」が低くても衛生法にまで首を突っ込むのは筋違いどころか内政干渉にあたる恐れもなきしもあらず。肯定反対ともにそんなところを論拠にはしてはいないと思う。

そういうわけで刺身を食べるから、なんていう論点を持ち出すとかなり変な方向にいってしまうのではないだろうか。そんな「例え」をだすとどこかのいぢわるな人から「日本は賞味期限切れの牛乳を用いる企業があるから、カフェオレはフランスの、カフェラテはイタリアの、ミルクコーヒーはアメリカの、それぞれの国から認証制度を要求される」なんてまぜっかえされて終わるだけと老婆心ながら申し上げる次第。

まあでもこういうことはねえ、皇統系譜問題でもどこぞのアレな学者さんが「ミトコンドリア」だのといった変な話を持ち出して失笑を買ったりしているからなんともかんともなんですけれども。

※元ネタになっている人から上記の「期限切れ牛乳云々」について指摘があったので記すが、これを書いたのはあるいぢわるな人である。元ネタ記事へのコメント欄では誰が言ったか明記しないで記したのだが(迷惑かかるというよりもだれだれがどういう風にいってましたがとコメント欄の中へ書くことにあまり意義をみいだせなかったからだ)どうも私本人の発案と思われているようなので注意書きを記す。このブログ記事はそのいぢわる(だけどステキ★)な人もみているので出展元を記しておいた。でないと著作権もしくは発案料を請求されるかもと被害妄想気味に思ったり思わなかったり。

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2007年1月23日 (火)

子供にDQN名付ける親は死んだ方がいいと思う

「DQN名ランキング」
http://dqname.selfip.net/

「亜菜瑠(アナル)」だの「煮物(ニモノ)」だの「しいたけ(シイタケ)」だの「幻の銀侍(マボロシノギンジ)」だの正気とは思えない名前が続く。出展が2ちゃんなんで嘘だとは思いたい。ネタであることを祈るが「ラッキー星」くんは実在するしなあ。こんな改名裁判しなきゃならんような名前つける親は自分がその名前になるかいっぺん死んでみたほうがいいように思える。もはや虐待ですよ。

とはいいつつも私の友達も上記サイトに掲載されている名前を子供に付けてしまった。事前に相談してくれれば全力で阻止したんだが(縁を切られるのは覚悟の上)事後連絡であえなく撃沈。付録の名前辞典にこんなのばっかり載せているたまひよ(たまごクラブひよこクラブ)の編集部は頭おかしいというか日本の伝統文化を破壊するためにどこぞから送り込まれた赤色革命勢力なのでは?まあ南アルプス市なぞとキッカイな市名にして喜んでるくらいだからもうDQN名ぐらいつけなきゃスタンダードじゃねえのかもかもしれんな。もはや伝統的な日本なんてハリウッドインチキ映画の中にしかないのかも。

ちなみに上記サイトにはエ~シィイ~こと公共広告機構はDQN名撲滅キャンペーンやれYO!という提案がされている。秀逸なレスがあったので引用する。

**

106 :名無しの心子知らず :sage :2006/12/12(火) 01:45:14
こんなのはどうだろう・・・ちょっと考えてみた。

幼稚園の入園式で名前を呼ばれて返事をすると、
保護者達からどよめきの声がする。
自分を訝しげに見る大人たちに「?」の顔の子供
小学校に上がり、机に座っていると数人の子供がからかいに来る。
中学生になってもそれは続いていた。
どんなところで名前を呼ばれても、周りの人が皆振り返って自分を見る。
怪訝な顔をしたり、笑っている人もいる。
からかいのつもりで名前を大声で呼ばれ、思わず耳を塞ぐ子供。
涙が頬を伝って流れている。
ナレーション「一生使うものです。名前、大事です。」
大人になった子供が、名刺を画面の前に差し出す。
名刺は真っ白で何も書かれていない。
台詞「名前で傷つく子供が一人でも減りますように。」
コーラス「エーシィィィィー♪」

**

これ、本気でやらないかな。私も名前で苛められた人間なので、変な名前をつけられた人の気持ちが多少分かる。フツーの平凡が一番いいんですよ。だいたい政治家でも有名人でも芸能人でもDQN名ついているヤツみたことねえだろ?自己実現自己表現は人生でやるもの。名前でする必要は無い。とにかく名前付けるときはその子が80ぐらいになって○○おばあちゃん○○おじいさんと呼ばれる姿を想像して付けろ。80まで生きるアナルちゃんなんて想像できないだろ?かわいい~★名前つけるのも結構だが、てめえの腹具合でもちょっとみりゃ、花の命の短さぐらい把握できるだろうにねえ。なんにせよ客観性というのは大事なんですよ。

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2007年1月11日 (木)

体験か想像か--「青学ひめゆり退屈問題」と「硫黄島からの手紙」

「硫黄島からの手紙」を見た後、思い出したのは2005年6月頃起きた青山学院の入試問題だった。かなり旧聞となるが「ひめゆり部隊」の語り部の話す内容が退屈だという読解問題を入試にだして騒がれた、あの一件である。もうそんなの覚えちゃいねえよって感じだろうなあ。以下の記事はそのときに記したものである。

ひめゆりの語り部は無力なのか(1)
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-06-14
青学ひめゆり「退屈」問題、総括すべきはどちらか(2)
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-06-15


特に(2)には問題となった読解の全訳を載せているので、参考いただければ幸い。(ようは「戦争体験なんて語られるだけじゃ実感できないからダーメ。擬似体験したらホーラこんなにわかっちゃった!」ということがいいたかったのではないかと)この問題が持ち上がったとき、あちこちのblogを流し読みした限りでは「沖縄左翼マスコミ陣が騒いでいるだけのことだ」みたいな意見が趨勢を占めていたような記憶があるが違うかもしれない。私なぞはこの入試問題を(言葉の本来の意味での)確信犯で教師が作っていたのなら、ある種の敗北宣言だなと思った。なぜなら教育というのは想像力を養う側面が非常に強いわけで、イチたすイチはニであることをりんごやナスを使って「体験」させることは可能だが、三次元方程式だのになるとそんなことを試みるほうがどうかしている。ましてや徳川家康やら足利尊氏やらを「体験」することなど(当たり前だが)不可能である。だが想像力を駆使すれば「体験」することは可能であり、そのように考えていけば、思考力とは想像力ではないかと私は思っている次第。つまり、“戦争体験は語りではなく疑似体験させなければ理解できない”との主張は、“うちらは想像力を養うような教育ができていないんですよ”という暴露じゃないのか。敗北宣言だなと思ったのはそのあたりを指している。

実際のところ戦争の恐怖を追体験させることに何の意味があるのだろうか。外人部隊かなにかに入らなきゃ分からんというのはある意味事実なんだろうけれども、それは悲劇の再生産であり、あの「痛み」を他の誰かに味わわせないためにひめゆりの語り部は自らの痛みをさらけ出し、つらい思いを吐露しているのではないだろうか。実際に体験しなければ分からないという言葉ほど事実であると共にむなしさを感じさせるものはない。私がスティーブン・スピルバーグ製作の映画「プライベートライアン」をまったく評価しないのもここに由来する。Dデイの激しい戦闘場面を見ているうちに最初は驚き慄くがそのうちに飽きてくる。強い刺激に慣れすぎて同じことの繰り返しに見えてきてしまうのだ。本質的にはこちらのほうが畏怖すべきことだ。このあたりの感覚の喚起は、スピルバーグが意図していたわけじゃないのでよけいにイヤだった。

イーストウッドの描いた「あの戦争」は派手なアクションがあるわけでもなく、無残に人のカラダがはじけるシーンが多発するわけでもなく、ただ地味に彼ら一兵卒の日常と非日常が交差し、その延長線上にある死が(あるいは生が)淡々と絵が描かれるだけだ。だからこそ私は恐ろしい。「あの戦争」は別世界でおきた歴史的事実、記憶の中のイチ風景ではなく、「いまここ」の延長線上にある。沖縄で友人のご両親から戦争体験をお聞きした際も同様の恐怖を感じた。この恐怖は想像力の上に成り立っていることを私は熟知している。

「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」のニ作を通して鑑賞し、感じたのは(何度も書くけれども)クリント・イーストウッドの「意思」--ありのままの戦争を見つめ、あのときなにがあったのかなにが起きたのかを忘れないこと、それ自体が反戦なのだという主張であった。青学入試問題の件と映画製作者、両者のスタンスの違いを思うと暗澹たる気持ちになる。例の(「せんそうはもうにどとおこしてはなりません」「あのひさんなできごとをゆるしてはなりません」式の)思考停止状態がはぐくまれるのもむべなるかな。教える側が既に徹底的に受動的なのだから。(注意したいのはイデオロギーに基づいたアグレッシブさも「ありのままの戦争を見つめよう」というイーストウッドの「意思」とは反する。イデオロギーに絡めとられてしまえば「ありのまま」ではなく「見たいもの」しか見えなくなってしまうからだ。以上は映画「蟻の兵隊」に関する当方のレビューを参照ください)

イーストウッドの訴える「自ら学び取る意思」。青学ひめゆり退屈問題を思い出すとき、私は日本における反戦教育がこの決定的な欠点を保持し続ける以上、演繹的に導き出される解として再びいつの日か(朝日的意味合いではなく)軍靴の音が鳴り響くのではないかと憂えている。邦画において「反軍」映画ではなく「反戦」映画が作られる日がくるのはいつだろうか。そして積極的に「ありのままの戦争」を見つめるような反戦教育が行われる日はくるのだろうか。状況は絶望的だ。なんといっても阪神大震災で「あーまるで温泉のようです」などと当事者意識の欠如もはなはだしい御仁が、いまも沈痛な表情を作って「あのせんそうをにどとくりかえしてはなりません」とのたまっているわけだしねえ。

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2006年12月13日 (水)

語りすぎること見せること「ローズ」と「獅子座」にみる大衆と純文学

確かにいい映画だった「ローズ」だがどうにも違和感を覚える部分がある。これはハリウッド映画をみているとたいてい思うことなんだが、どうにもせりふで語りすぎるきらいがあるのだ。

例えば主人公の歌手ローズがツアーツアーツアーの生活で疲れている、という描写でも恋人が「彼女は疲れている」という一言で表現したりするし、それにしてはベット・ミドラーがあまりにも(表裏のなさそうな)元気っぷりなので「いやお前あれはどうみてもフツーに元気だろ」と思えてしまい、酒と男に溺れる彼女がなんだか激しく身勝手な人間に思えて感情移入がかなりしづらかったりする。

(なんども言及するが)「獅子座」の主人公も負けず劣らず身勝手な人物で、ローズとは違い、彼は生産すらしていない。それでも彼が戸惑い迷い鬱屈し屈託する様子を「あの人はお金がなくて困っているんだよ」などと(ハリウッド映画によく登場する)“善意の第三者”に語らせることはせず、ただ彼の目に映る風景や主人公の剃刀をあてられない顔といった『直接話法』を避けた描写で表現しているため、感情移入がしやすいのだ。

ここ何作かヌーヴェル・ヴァーグ作品を見続けて思ったのは、小説、特に純文学を書きたいと思うひとなら、ルノワール的作品群をみるのは非常に勉強になるだろうということ。脚本家を目指すならばヒッチコック的ハリウッド映画が大いに参考になるだろう。以前私はある人に「宿命を宿命と書いてしまえば文学としては終わりだ」といわれたことがあるが、ある事実--世界の多様性をどう相手へ伝えるか、そこをポイントにするのか、それとも物語(整合性といった部分での)の文脈を相手に伝えようとするのかでヒッチコック的なものかルノワール的なものか、立ち位置が変わってくるように思える。語る映画と見る映画、そんなことを考えたりしている。

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2006年12月12日 (火)

私たちは戦争を知っているのか--渡辺謙「日本人は戦争を知らない」より

渡辺謙は「日本人は戦争を知らない」といった。では私たちは本当に戦争を知らないのだろうか。義務教育を含めると10年近く歴史を学んでいるというのに? どちらかというと知る努力を怠っている、という風にわたしには思える。

例えばわたしは以前靖国神社の遊就館に関する批判を書いたことがあった。反論として書き込まれたコメントは「自分はあそこで日本の“正しい”歴史を知った。なんということをいうのだ」というものだった。おいおい、それじゃそこに正反対のことが書いてあったらアンタはそれを信じるのか? 鵜呑みにするのなら紅衛兵だってできるんだ。知る努力というのは自分なりの歴史観を構築するために調べたり読んだり見たり聞いたりすることをいう。1つのテクストを元に、それをどう考えるのか。テクストは与えられるべきだが、解を与えられてしまえば、奪われるのは個々人の思考である。

幸いなことにわたしは沖縄で戦争について直接(いわゆる語り部的な位置づけの人ではなく、普通に暮らすヒトビトに)話を聞くことができた。そこにあったのは、天皇を敬い敬意を顕わにする世代とその子供たちとの断絶であり、戦時と日常の曖昧さ、といった「生活」あるいはある意味「変わることのない日常」であった。だからこそ、沖縄戦は悲惨だったわけだけれども。

先日、報道ステーションで渡辺謙が(宣伝のためか)登場し、高校生たちと歴史について語り合う姿が放映された。事後高校生たちにインタビューするとこれがまあ紋切り型というかなんというか口々に「戦争はもう起こしてはならないと思いました」などという。それは当たり前のことだけれども、暮れの元気なご挨拶じゃないんだから、みながみな同じことを言うのはある種思考停止状態ではないか? わたしはそういう「解」しか誘導できない「教育」にほとんど絶望を覚える。

「父親たちの星条旗」では“ありのままの戦争の姿を見つめよう”と提議されている。ありのままの戦争。それを知る努力を我々は個々人で行うべきではないのか。その上でようやく「戦争を知っている」といえるのではないだろうか。戦争から半世紀以上経過し、経験している世代は少なくなっていく今、戦争を知らないことが当たり前であるからこそ、私たちは、自分たちでテクストを構成するべく「自力で」学ぶ必要があるのだと、私は思う。

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2006年12月 5日 (火)

読書と筋肉

ウェイトトレーニングをはじめてもう8年になります、と自己紹介で話したところ相手から「読書と筋肉って相容れないと思うんですがどうでしょう?」とたずねられた。実は別に今回だけではなく、結構な割合で聞かれることが多い。しかし私の中では、相容れないどころか両方は問題なく同居するのだが、それは間違っているのだろうか。

ウェイトトレーニングは基本的にはスポーツに属するとは思うので、いわゆる「体育会系」とみなすことも出来る。脳みそよりも筋肉の比重が高そうなイメージ。だが、本質的にはスポーツの求道者的側面を特化させた運動であり、記録といった数字にはでにくくまた評価しづらいものである。体脂肪率が下がればいいってものじゃないし、奇形的な造形美を追求するようなものである。これはウェイトレーニングが本来的には「下ごしらえ」としての意味合い--筋トレをして鍛えてさてどのスポーツに生かすかというものであるからだと思う。野菜を切っただけでは料理として成立しない(煮るなり焼くなりあるいは刺身として使うなりしないと「料理」とは認められない)のと同様である。

そういうわけで私はこの運動をスポーツとは認識してない。単純に自分自身を練成するツールとして行っている。そういう意味では読書も映画も好きだから続けられるという部分もあるが、基本的にはオノレを鍛えるツールなのだ。そしてそれを行うからこそ自分自身を安定させることが出来るのであって、「やらなきゃいけない」というよりも「やらずにはいられない」のである。強迫神経症的?大いに結構。

だから私にはいずれも必要なのだ。私が私としてあるためには欠かすことが出来ない。そして今日も仕事で疲れた身体を引きずり、ウェイトを上げ下げし、本を読み、疲れきって妙に冴える頭を映画に集中させ、ゆえに安堵して眠りにつける。男を精神安定剤にするよりもよほど健康的ではないか。しかも「彼ら」はやればやっただけ、私にこたえてくれるわけだし。愛してやまない、永遠のわが「恋人」。

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2006年11月24日 (金)

「頭がいいね」

「頭がいいね」と社交辞令を言われて素直に喜んで得心するほど愚か者でない私は、いつもはあどうもと言葉を濁してあいまいな顔を作ることしかできない。

そもそも女にとっての頭のよさとはなんだろうか、と思ってしまう。当意即妙の受け答えか、はたまた新聞並にナニを聞いても有る程度答えられる知識なのか、それとも場の空気をそれとなく読み、相手へ気を配れる能力か。まあなんだ、もし仮に私がそういうものの総称としての「本質的に」頭の良い女だったら、こんなところで日々シコシコとなにかを書き連ねることなどしないで、23歳ぐらいでさっさと結婚して旦那様と幸せな家庭生活でも営んでいるわけで、そうできてないということは「生物学上」の観点からすれば「頭が悪い」としかいいようがないのではないか、と思っている。フェミニズムなんてファックです。

こういうふうに考えていると、形而上学的なことが必要な女の不幸についてつらつらと思いをはせてしまうのだが、女性週刊誌的な女の幸せに恵まれているのであればそんなものは不要で、そのあたりを考えれば考えるほどため息しか出ない女の秋のかなしさよ。つまりこんなことをぐだぐだ書いている時点で女としては「終わっている」ということ。

身体的顔面的コンプレックスを抱え、男のかわりに知識を喰らい、一人でも生きていけるわ健気な私と牙城を形成し、閉じこもってしまうことだけは避けようと思っているのだが、最近の己の情勢を見る限りでは、どうやらその「象牙の塔」へ引きこもらざるを得ないようである。

そういうわけで、私は頭の悪い女なんです。かわいげだけで生きていける女に来世では生まれ変わりたい、と淡い希望を胸に、手のダンベルダコを見つめウェイトをあげさげし、子宮にナニを詰め込む替わりに、今日も知識に食らいつくのです。「頭が良いね」と私にお世辞をいう君よ、それは皮肉か嫌みかあてこすりかと考えてしまう我を許したまえ。哀れなる哉、汝の名は女。なむさん。

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2006年8月24日 (木)

「蟻の兵隊」と高砂義勇兵問題

高砂義勇兵の碑問題がおきたとき、そのあまりにも無残な見捨てられように、なんとか彼らを支援できないか、といろいろと調べて動いたりしたこともあったが、靖国神社崇敬奉賛会など確認した結果、結局のところ自分自身でNGOを立ち上げて支援するしかないということがわかり、歯噛みをしながらあきらめたことがあった。「蟻の兵隊」こと山西省残留日本兵問題についてはミギヒダリ問わずコミットされているようなので、なんとなくほっとしている。こういう問題は本質的にはミギが積極的に支援していくべき問題であるのに、どういう建前によるものか、(高砂義勇兵問題は特にそうだが)あまり支援されていないようであるのには愕然とする。それでも元義勇兵たちが遠くかの地で日本を思ってくれているのを考えると居たたまれなさにいてもたってもいられなくなる。

高砂義勇兵問題も山西省残留日本兵問題も、本質的な意味合いにおいて同一であると私は思う。律儀に生きた人間が取りこぼされ省みられることもなくただ朽ち果てていく。そんな状況はもうたくさんだ。

霧社事件を起こしたタイヤル族は、その後冷遇され打開するためにかなりの人間が義勇兵に志願したと聞く。その結果が現在の、この現状である。このような問題がどうしてこうもこちらの身体へ切り込んでくるのかといえば――「いま」この「われわれ」が立っているその下には彼らをはじめとする戦争犠牲者が礎となって埋もれている、それにもかかわらずこのような問題を棚上げして忘れ去ることは、とてつもない宿題を遣り残してしまっていることになり、結局いつまでも「あの戦争」の総括から逃れ続けていることになる、ということに尽きる。

国家は情緒を忖度しないもの、とはわかっているがそれにしても非情すぎるではないか。こんな現状ばかり見ていると、なんとかこの世界の情緒がうまく噛み合ってなんとかその意を忖度されていけるような状況になればよいのに、などと理想主義的夢想へ逃避したくなる。願うぐらいが関の山の己の非力さにひたすら打ち拉がられるのみ。やりきれねぇなぁ。怨嗟の呟きが積み上げられて日本は沈むかつぶれるか。不沈空母いまだ意気軒昂なれば、よいけれど。

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2006年8月14日 (月)

まあそんなこんなで明日は朝から靖国神社より中継するのですが

私の日記を長く読んでくださっている方は私が靖国神社擁護派?とでもいうべき立場にたっているとご承知おきのムキも多いのではないでしょうか。実際そうなんですが、それでも問題視している部分はあります。個人的には現在の「靖国神社」の姿勢には納得できない思いでいます。

そのあたりは遊就館に対してより強く感じるのですが、例えば戦争肯定していると批判されるフリップや説明書きについて。自衛のための戦争、と記してしまえば、ある種の見方を強要することにつながるわけで(それはこの場合にとどまらずいわゆる自虐史観に基づいた記述も同様ですが)宗教施設が政治的立場を打ち出すことにもつながり、それは果たしてどうなのかな、と考えてしまいます。私自身は自衛のための戦争という部分もあったと思う立場なのですが、あくまでもそれは見に来た人間が個々に考察するべき問題であって、宗教施設が書くべきことではないのではないか。そういう意味で実は靖国神社自身が積極的に政治問題化に取り組んでいるという見方をされてしまうようなことを行っているのでは、と考えております。そのあたり、もうちょっとなんとかできないものだったか、どちらかというともっとミリオタを満足させるような作りにすればよかったんじゃないか、というのは冗談ですが、遺品や花嫁人形の展示などは非常によいのに、惜しむらくは起こった出来事を淡々と記すスタンスにはどうしてなれなかったのか、です。

このあたりに、確信犯であるとはいえ、靖国神社自身の目線の高さを感じずにはいられない。問題になれば物見遊山で来る人間が増え、デモ隊やらなんやら、静かにお参りしたくてもままならない状況となってしまう。鎮魂の場が報道陣やデモ隊に取り囲まれるような場にしてはいけない。そういう意味で、靖国神社側にも腰を低くする必要はあるように思える。大事にすべきなのは英霊か施設か。そして優先すべきなのは政治的立場か宗教的立場か。どうも昨今の靖国神社はそのあたりをいささか見失い気味ともいうべき状態にあるのではないだろうか。英霊の安寧を願うならば、それなりの立場をとるべきだ。

無宗教の施設を、とはよく聞く話ですが、どちらかというと政治臭のしない無臭の施設を作って欲しいと私は考えてます。

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2006年8月 5日 (土)

麻生外相私案はどっちつかずにならないか。

靖国問題:麻生外相が解決私案 まずは「宗教法人」解散を
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20060805k0000m010145000c.html

この私案は1969年より法案提出されている国家護持運動の際に、与党内で独立行政法人化?というか宗教法人格を外して、宗教色を薄めるという構想をたてていた筈だったんじゃなかったっけ?相変わらず曖昧な記憶で申し訳ないが。だが、結局内部の検討の結果でてきた案は、宗教色を薄めるということで、神社らしい形式をとっぱらう、極端に言えば鳥居を壊して無くしてしまったり、賽銭箱を撤去したりといったことが盛り込まれており(と記憶している)、千鳥ヶ淵以上になんだか意味の分からない得体の知れない「慰霊施設」になってしまう恐れがあるモノだった。

ミギからみればそんなものは神社として参拝に値するような「施設」たり得ず、ヒダリからみれば畢竟靖国を結果的には「国家護持」に祭り上げることに他ならなくなる。そういう意味で両派から問題点が指摘されて、結果1974年に衆議院で可決後、参議院で廃案となっている。それ以降は主立った動きはなかったと思う。不確かな覚え書きのため不備があれば容赦願いたい。

今回の私案も上記の流れをふまえているというか、焼き直しというか似たような形式というか。懲りないなあとは思う。ただ麻生大臣の案は国家護持運動とは別に、単純にA級戦犯を分祀したいがための案であるからそのあたりは区別したい。だが区別したとしても、帰結点は一緒のような気がするが。

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2006年7月12日 (水)

インモーなヒトビト

或る方にもちょっくらお話ししたのだが、陰謀論を展開する人ってある種の特徴があるように思います。

一、非論理的記述
決めつけ、脳内ソースがほとんど。稀にソース提示してきても我田引水な場合が多々あるので注意。「俺がそう思った」ことが科学的根拠につながっているので恐れ入る。しかもなぜか「コチラもそう思っている」と妙な盲信をしている(集合無意識?)ので、どうしてそうなるのかが凡人にはかなりわかりにくいことがある。説明を求めても「だから~」と同じ話しを繰り返すか、「いろんな読み取り方がある」などと意味のわからん投げ方をして逃げることが多い。

一、図説好き
図解するのが好き。自分で作成した図説を用いる場合があるがそれもまた凡人には「なぜそうなるのか」が解らないようになっている場合がほとんど。作った本人だけが納得している。

ぱっと思いついたのはこれくらい。おいおいまだあるよ~てな方はコメント欄にて補説よろすこ。

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2006年6月23日 (金)

相対化(NIKITA女)VS絶対主義(ヨシオ好き女) たけくまメモへのイチ考察続き

昔から男に対する母性本能というのは単なる共依存状態じゃないか、と思っている。つまり母性本能をくすぐられて、というのは幻想であり、あのひとは私がいなきゃだめなの、という女のその「あのひと」はたいていの場合「アナタ」がいなくても駄目な人であるという「定説」でして、基本的には二人の立ち位置は変わらず、ひと~りよ~りふたりがいいさ~というサンバルカンのテーマみたいな状況になるだけ、という気がする。駄目同士が支えあっているよ小さくまとまってバカじゃね?プゲラという言い方をする人もいるだろう。

だが果たしてそれが悪いのか、といわれれば、私はまったく悪いとは思わない。

これは私がなぜNIKITAという雑誌が駄目なのか、という話にもつながっているのだけれども、幸せの追求という命題がある種の絶対性への希求という部分にもリンクしてくるのであれば、他者が幸せであると思っている状況についてこちら側がなにかいうべき言葉があるのか、といえばないのだ。いいじゃないの幸せならば、というヤツである。

だがNIKITAはそれじゃイカンというわけです。地味になるなコムスメに負けるな凄い女になるなと煽りまくる。そうですよ現在30代の団塊のジュニア世代としてはこのテの煽りを小さいころから受け続けているんですよ。隣のやつに負けるな、アレに負けるなコレに負けるな、ときて、ようやく世間に出てみればバブルは終焉不況真っ只中の就職戦線異状ありでまた他者との競合競争闘争の日々。やっと世間的にも不況を脱し景気もよくなってきたと思いきや、今度は自らに忍び寄る老いと戦わなければならない。文字として羅列しただけで嫌になるのがNIKITA世代なんじゃないでしょうか。

しかしねえ、アナタ。そんななかで頑張って消費しましょーと叱咤激励するのはいい。時代が元気を取り戻しているのだから中核になってきた30代女が奮い立たなくてどうする、とは私も思っている。だがNIKITAのコンセプトでまったく納得できないのが「他者を相対化することによって自らの立ち位置を決めている」煽り方、なのだ。なんで買えとだけ煽らないのよ、ってことです。(まあそれだけの煽りだったら他の雑誌で十分ってことなんですが)

私があちこちからパクってテキトウにでっち上げて鑑みるに、70年代は過剰なる自意識が自らの立ち位置を定め、しかるのちに相手との距離感を決めたのではないだろうか。80年代はその「過剰さ」の揺り戻しがきたかのように、自らを枠外においた相対化が図られるようになった。(視点は自称俯瞰だがそれが既に主観であることは棚上げにしていた)相対化し続けることに疲れたのだろうかそれとも不況で比べること自体にむなしさを感じたのか、90年代は絶対性の追及、言い換えれば「私らしい私探し」「代替のない私を求めて」とホロホロ流離うようになった。だが絶対性の追求なんて(相当の指針を自ら勉強する覚悟を決めない限り)途中でナニがなんだかわからなくなり、より過激な経験を求めるという(アフリカに行くとか自傷行為をするとか)ある意味経験インフレに陥る可能性が高くなってしまうだけだったのか。混沌を打開すべく現れたNIKITAは「これとこれは敵だから駆逐せよ」と他者の立ち位置を決めてから自分の位置を決めるという方法論を提示しているように、私には思える。これは非常に楽だが、私のような天邪鬼でマスコミに対して不信感の塊のような悪意の持ち主だと「おめーなんかに決められてたまるかよバーカ」と悪態をつきたくなってしまう、というわけ。だがこういう雑誌が受け入れられているという現状は興味深い。まるでツァラトゥストラのいう「獅子」が「ラクダ」に成り下がったようだ。「自分探し」という名の絶対性の追求は既に支持されず、他者による相対化(価値裁定)を求めはじめているということなのだろうか。価値観が多様化したって割には単純に相対化へレイドバックしただけじゃねぇか。70年代に否定されたことが亡霊のように蘇っているかのようだ。高度経済成長期でも再び迎えりゃいいけど。

それはさておき、やっぱりみんな不安なんだな、と私は思う。獅子の如く荒野で咆哮を続けるのは疲れ、後ろを振り返れば消費を甘受している20代前半世代がラクダでいいよぅと宣言しているように思える、もうこれ以上赤子になる努力を続ける気力もないし、とそんな隙間を突くようにNIKITAはお前の目指すところはコレだ負けるな負けるなと煽る。ああそうねいうとおりね、とふらふらなびいてしまうのは当たり前の話で、誰しも超人目指して孤軍奮闘猪突猛進できるわけじゃないのです。ヨガやったりしてもさあ、俺ジナルな自分獲得とかそういう心境にはなれんのよ、という「おんなの嘆き」が紙面からしとしとと梅雨のように止まず降り続いてきそうな。そういう彼女らにしてみれば、ヨシオ好き女の「いいの駄目同士こうしていれば楽だし」というような「自虐安定」は見ていて自らの生き方を否定されているように思えるのではないだろうか。NIKITAにおける地味女への毛嫌いの仕方を見るにつけ、私はそんな風に思えてならない。

まあとにかくアレですよ。傍からどう思われようと自らが幸せならそれでいいんですよ。あのように駄目人生直球まっしぐらな相田みつを先生も「駄目だっていいじゃないか人間だもの」とおっしゃられている(一部嘘あり)ことですし。そんなわけで私はひそかにこれからは闘争に疲れたNIKITA女による「あらこんなところに幸せが」とヨシオクン再発見の「青い鳥願望」が展開されるのではないか、と妄想しておるのです。よろしく哀愁。

前回
たけくまメモ:『「喪男」は女にモテル!?』についてのイチ考察
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2006-06-22-2


参考(NIKITAという雑誌についてアレコレ)
アッコ エロ怖?迫力の大変身
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2006-06-21
艶女だのちょい悪オヤジだの
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2006-06-21-1

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2006年6月22日 (木)

たけくまメモ:『「喪男」は女にモテル!?』についてのイチ考察

たけくまメモ:「喪男」は女にモテル!?
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post_1294.html

「どくだみ荘」という漫画を知っている人はどれだけいるんだろうか。うっかりリンク先にコメントしてしまったが、私は中高生の頃なぜかハマってずっと読んでいた。ヨシオくん大好きですよホントに。(しかしなぜあの漫画を読み始めたのかさっぱりわからんちんのとっちめちんです)

レジェンドどくだみ荘伝説

レジェンドどくだみ荘伝説

  • 作者: 福谷 たかし
  • 出版社/メーカー: 青林工芸舎
  • 発売日: 2006/06
  • メディア: コミック

「そんな女がいるのか」といわれたら、いまっせオマンコついてる私がここに、と手を上げるしかないのだが、しかし私の場合(ご承知の方も多いだろうが)サブカル好きという風にいわれることも多く、決して自己の感覚が一般化できるとは思ってはおらず(そんな惑星直列な真似はせんですよ)私が特殊なんだろうかと悩む…というか、そもそも「どくだみ荘」について話せる人は身近にはいなかった。もしかしたらスカしていたあのコもこっそりどくだみ荘でオナっていたかもしれぬ。まあそういう奇跡が起きてくれたら日本も再び大日本帝国として世界を支配下に君臨することができるってなもんです。閑話休題。

それはさておき、該当エントリーのコメント欄に要注目。非常に興味深い話が展開されている(私のバカコメントを除き)。

特にapgさんの「一般的に女ってのは自分より複雑な自我を持つ男を嫌う傾向があると思うんですよ。」という言葉が印象的。そりゃそうです。だってねえアナタ、毎月一回生理があるだけでうんざりなのに、その上毎日違った洋服着なきゃいけない化粧はしなきゃいけない飯は作って香水は気に入ったのよりも体臭とあうものを髪型にも気を配って姿勢はよく云々とまあパタパタママ並の忙しさですよ。

ただでさえそんな状況なのに(んで上記の作業をめんどくさいからと放棄すると「女捨ててる」などといわれる)その上付き合っている男が眉根に皺寄せて「生きててすみません」などというような「複雑自我保持者」だったりしたらもう嫌になってそれこそ玉川上水から飛び降りたくなるわけで、だから基本的には「亭主元気で留守がいい」のです。(まあでも自分が単純であるということにある種の物足りなさやコンプレックスを抱いているような女性は、そのテの複雑時が保持者ダザイ症候群な男性に尽くしてしまうという傾向があるのではないかと思ったりするのですが。もしくは自分が複雑だからこそより複雑な相手を見て安心したりとか。どっちにしろ基本は「ないものねだり」と「隣の芝生は青い」です)

しかし(私も含め)なぜ世の中には「だめんず」に惚れる女がいるんだろうか。例えば世の中の女がみんながみんなNIKITAみたいな上昇志向権力志向にあふれて「戦いこそ我が人生」的な、闘争心で生き抜く都会は戦場よハニーな人ばっかりだったらいいのかもしれないが、そうはいかないのであって、その闘争から「脱落した」女性が彼ら「ヨシオ的男性」のところへ転がり落ちるのだろうか。

いやそうではない、と私は思う。

ヨシオ的男性へ向かうベクトルも、NIKITA的な権力志向も結局のところ方向性こそ違えども、立ち位置としては同じなのではないだろうか。それが(あえていうならば)「上」に向かうか「下」に向かうか、その差という気がする。このあたりは自罰的になるか他罰的になるかということも関係してくると思うけれども。

駄目な男と一緒になるのは、どこか自傷行為と似ている。この場合の「駄目な男」というのは「ヨシオ的マイナス思考男」ではなく「DV等のアグレッシブ男」である。他者(DV男など)に罰してもらうことにより自分の中の被虐願望を満たしているということもあると思う。(自己陶酔的に「あのひとは私がいないと駄目なの」って共依存しちゃったりとか)そこまで積極的ではないにしろ、駄目な男とこじんまりまとまってしまうことを自ら進んで願うことは(どこからかはよくわからんけど)「降りてる」という感じはする。

誰だってNIKITA的なアグレッシブさを始終キープしているのは難しい。つねに自己と他者を相対化して根競べし続ける作業は疲れる。(個人的にはNIKITAという雑誌の存在意義は、常に自己と他者との相対化を義務付け、仮想敵国の存在と出現を煽り続けるところにあると思っている)そんなときヨシオ的な男性がいたらついふらふらと「神田川」(かぐや姫のアレね)したくなる。まるで「ココロの隙間お埋めします」と大橋巨泉に似たおっさん(黒スーツ着用)がそこの路地から現れてくるようだが、まさにそういう間隙をつくのがヨシオ的男性なのだろうか。それは遊びまくりな男性が「家庭的な女の子がイイ」というのにちょっと似ている。

続きはコチラ
相対化(NIKITA女)VS絶対主義(ヨシオ好き女) たけくまメモへのイチ考察続き
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2006-06-23-1

参考(NIKITAについてアレコレ)
アッコ エロ怖?迫力の大変身 http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2006-06-21
艶女だのちょい悪オヤジだの http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2006-06-21-1

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2006年6月 2日 (金)

「爆笑問題」太田光はなぜつまらないのか

太田光の政治的発言はつまらない。

 異論はあるだろうが、私は彼の“芸人”としての話芸は非常に面白いと思うし、好き嫌いでいえば、好きだ。だが、政治的発言はコチラでも述べたとおり激しくつまらないと思うし評価もできない。あまりに直球勝負の理想主義だし、新味もないからだ。 例えば立川談志あるいはビートたけし(北野武)の政治的発言は面白い。味があるし斬り方も新鮮だ。それは2人の諧謔精神が“どんな場合にも”発露するからであり、通底する自意識「ショセン河原乞食」「芸人風情が」といった自嘲があるからで、なればこそ洒脱な風刺につながり聞いている側もそのエクスキューズによりどんな無茶を言われても「たかが芸人」という彼らの自意識に導かれ、安心して腹を抱えることができる。だが太田光はどうだろうか。

彼にはそういう自嘲する自意識が欠如している、と思う。どこかで「発言しないで後悔するなら発言して後悔したほうがマシだ」といっているのを聞いた気がするが、彼はおそらく本気で“この国を憂いて”政治的な発言をしているんだと私は考えている。そこには「たかが芸人」というエクスキューズがなく、あるのは「俺が言わなきゃ誰が言う」といった気負いと青臭さである。聞いている側はエクスキューズがない分、気負われただけ疲れるばかりだ。 個人的には40過ぎてなお青臭いことをいっている太田光はその稚気ゆえに縦横無尽に振舞えなおかつ「太田だから」と有る程度なにをやっても許され面白がられる存在であるといえる。思春期サヨク青年じみた発言も、ある種の戦略に基づいた、あるいは前述した「たかが」部分を踏まえて主張するならまだわかる。だが稚気が通じないのが政治である。あるいは過酷な現実を踏まえてなおも稚気をだす以外は認められないと言い換えてもいいだろう。そうでなければもっとブッシュ大統領に人気が出てもいいはずだ。彼など「本当に」稚気あふれる人物ではないか。猿に似ているし。

批判するその矛先が常に自分へと向いている、ダモクレスの剣は常に輝いていることを考慮して発言しなければ、政治的なことをいって“無知な大衆”を啓蒙することなど不可能だ。大衆は王様が裸であることを知っている。

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2006年6月 1日 (木)

『爆笑問題』太田光の勘違い文化人

「爆笑問題」太田光の文化人路線の勘違い (ゲンダイネット)
http://news.www.infoseek.co.jp/gendainet/story.html?q=01gendainet07020032&cat=30

以前にも書いたことだが、太田光は理想主義者である。

ある番組での石破元防衛庁長官との討論で「全ての国が武器を捨てれば日本も武器持たなくていいんですよ」などと熱弁を振るっていた。私はこれはどう考えてもネタだろうと思ったが、彼の目はどう見てもモノホンだった。それ以来、彼は単なる理想主義者と思っている。リベラルや共産主義者でもない。つまりそこまでもいってない夢想主義者といいかえてもいいかもしれない。青臭いだけだ。

ニュースの中で話題となっている朝日新聞連載「私と愛国」だが、太田光はその中で、自虐史観は自国の歴史を冷静に見ているということだからよいことだ、個人は国家よりも優先されるというようなことを言っているが、どうして日本のリベラルを気取る夢想家はかならず個人主義を持ち出すのだろうか。あのマッカーシズムと戦ったジャーナリストをモチーフにした映画「グッドナイト&グッドラック」では個人を貫き通すことの難しさ、リベラルというものの本質を垣間見せてくれたが、個人主義というのはこのように、対国家という対立軸の中で持ち出す相対的なものではない、と私は思っている。対抗手段になりえないのが個人主義なのに、なぜかこの国のリベラルを自称する人々は必ず「個人がどう思うと」的なことを持ち出してくる。まるで自らの言説が借り物であることの言い訳のように。閑話休題。

とまれ彼が主張する理想主義は、本来、過酷な現実を見据えた上で導き出される修羅の中の花とでもいうべきものである。例えば究極の理想主義とも言われる共産主義だが、あのエンゲルスはイギリスの炭鉱で奴隷の如く使い捨てされる10歳ほどの炭鉱夫をみて共産主義へと考をすすめていったといわれている。それほどの地獄を見たうえで導き出すことに意味があるのであって、現実を見据えずにどんな能書きをたれようと、それは道化の呟きに過ぎない。

太田光はこの現代社会の、どの修羅を見つめたのだろうか。

 関連記事:「爆笑問題」太田光はなぜつまらないのか
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2006-06-02

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2006年2月 9日 (木)

著作権侵害問題について最後に

※以前の記事にいただいたコメントへはこの記事をもってレスポンスとします。この問題についてのみ、個々の記事についてレスはいたしません。ご了承ください。

今回、著作権侵害の恐れがあった件のブログは閉鎖し、一件落着しているかに見える。だがこれで本当に良かったのかは疑問として依然私の体内に残る。

私が2ちゃんねるで煽ったなどと個人中傷に走っている方もいる。他者が自分の行動をどう認識しようと、当然のことながらそれは当方の範疇外になってしまうので、内心の忸怩たる思いとは別に、それはそれで致し方ないと納得は出来る。だがよくわからなかったのは、特に個人的に親しいと称する方からいただいたコメントだった。これには正直驚いた。端的に思うのは、個人的にメールをやり取りするような間柄なら、なぜ事態が大事になる前に、メールかなにかでそっと「著作権侵害の恐れがあると思うんですが」と忠告してあげなかったのだろうか。件の男性も、見知らぬ私のような人間に言われるよりも、よく自分のblog゙にきてくれて、メールもやりとりするような方からいわれたほうが、どんなによかっただろうか。そうしていれば、彼はまだまだブログを続けられていたかもしれない。忠告、進言を攻撃あるいは中傷と受け取ることしかできないのはかなしい。このように「好き」「嫌い」といった感情的な対応ではなく、物事に対しては是々非々といった論理的な対応を私は望む。

私がなぜ彼に続けてほしかったのかというと、私も以前、割と著作権についてはテキトウに考えていた前科があるからだ。私に対して「それは著作権侵害の恐れがあるからやめろ」と諭してくれた人がいて、結果著作権についてきちんと考えられるようになった。そういう個人的な経緯があるだけに、このような終わり方がひたすら残念である。彼がこれをきっかけにして、自分の言葉を自分のペースでつづっていくスタイルになれば、もっともっとファンができていたと(偉そうなことをいうようだが)私は思っている。だが今回、非常に残念だったのは、彼がブログを閉じることもそうだが、安易な荒らしが横行したことである。個人的には彼と著作権問題についてTBして論議しあうことも視野に入れていたし、周囲の人にも「著作権」について考えてもらえるよいきっかけにもなるはずだったのに、このような中傷のコメントがつけられblogが荒れることは、問題の本質が単なる感情論に陥りがちになり著作権についての論議ではなく目先の中傷へ論点がずれてしまうだけである。もっと冷静な行動がとれなかったのだろうか。荒らしについては私は以前の小紋君のときから一貫して否定している。意見があるなら、記事にしてTBするか、少なくとも中傷レベルの文言を書き込むべきではない。

著作権については、わたしの記事にコメントを寄せてくれたあんとに庵氏、春巻氏の記事のような著作権保持者側の意見が非常に参考になると思う。特にお忙しい中、私のコメント欄へ貴重なご意見をくださったあんとに庵氏には心から感謝の意を表します。そして同様にお忙しい中実際にかかわっている側としての著作権についてどう考えるかを記事にしてくださった春巻氏にも謝意を述べます。本当にありがとうございました。WinMXやWinny、あるいは海賊版などが使われていく中で、感動を与えた、面白かった、勉強になった作品にはきちんとした対価を払うことの意義を、もう少し考えたいと今回改めて考えた。クリエイターが良いものをつくり、消費者である我々が、それをいつまでも楽しむためにはどうしたらよいのか。blogはこのまま無法地帯となっていてよいのか。まずは著作権について考えなければ、解はでないと私は思う。

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2006年2月 3日 (金)

「けじめのつけかた」

どんな場合においても客体化しておくというのは重要である。客観視して物事をみないといけないということです。では客観的ってどうよ?と問われるならば、端的に言えば「人の立場に立とう」となる。小学生の道徳の時間みたいですが。

人の立場というのは様々でそれでもシミュレートして考えていくしかない。こうしたらどうなるかな、と。私もなるべくそう考えてやっている。つもり、と表記するしかないのはカナシイが、どんなに考えても自分以外なりようがない、という限界もあるからだ。

最低限できることといえば、自分がされて厭なことはしない、ということ。例えば間違いを指摘されてやめてしまうのは簡単だ。続けることは難しい。それでも続けることが「誠意」なることのほうが多い。ただ最近は続けることそれ自体が目的と化して「謝罪」が形式的な物になっている傾向(代議士さんなんかに多いですな)があるけれども、もって他山の石としましょう。そういうことで「著作権違反」に抵触するおそれがあったblogのあの幕引きは非常に残念だった。いくらでもそこからやり直すことができるのに。負けを認めてやり直すこと。それは考えるよりも容易で、しかもスタート地点が最初から違うのだ。一歩も二歩も「上」なのだ。

春巻氏のコメントではないが、自分を冷静に見つめ感情を切り離し、第三者的な視線で自体を見つめれば、どうしたらいいのかが解るはず。厭なこといわれたから投げ出すというのは簡単です。踏ん張って耐えるのが難しい。相撲だって俵に脚をかけてからが踏ん張りどころ、じゃなかったかな黄泉若宮氏よ。

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著作権侵害の恐れある方に

送ったTBを削除されたので、その方へ「掲載画像は許可を得て利用されているんですか?」といった質問メールをしたんですがいまだに返事なし。

えーと現在どうやらプロフィールに掲載されていたメールアドレス、削除しているようですね。

その上、ご自身のblogコメント欄において、NGワードとして「著作権」とか「知的財産」とかその類の単語を登録しているご様子。ご自分のやっていること、わかっているんでしょうかね。

ただどんなことがあっても荒らすのはよくない。blogを荒らすなら、そして自分の主張が正しいと思うならSo-net事務局へメールをするべき。あと少しメールの様子をみて、もし、正式な回答がなければ、顔出しした上でその方へコメントします。それでもご回答ないようなら、内容を公開した上で、事務局へメールします。私は彼の良心を信じているし、なにより、あまつさえベストnice!ユーザーとしてトップページに掲載されているような人が、まさか人が撮った画像と無許可の歌詞掲載で記事を構成しているとは思えないし思いたくないのです。誠意ある回答を期待します。

(この記事も該当の方へTB送ってます)

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人間はみんな弱いんです。

エロースだ饗宴だとプラトンをぐだぐだ持ち出すまでもなく、人間はおそらく自己の不全感をかかえつつ彷徨するイキモノであるんだな、と私は思っている。だからチンコ入れたりマンコはめたりという行動につながるのかどうかはわからねども、とりあえずは、不安だ怖いといった強迫観念が体の中に刷り込まれているのだろう。考えてみれば当たり前の話で、なぜなら体を守るものを他の動物とは違い与えられなかった、外界の刺激に対して人間は明らかに無力だ。そこから知恵創意工夫をしながら現在こうして地球を汚染し他の動植物を絶滅させ、ついにはてめえでてめえの首を絞めるような状況にまで至ったというわけです。いやあ人間も立派になったもんだ。

であるから、人間なんて本来弱くてどうしようもない存在なんじゃないスかね?昔、「人生には意味も価値も意義もないからこそ、自分で作り上げる必要性があるのだ、死にたいやつはシネ」などと放言したことがありますが、その考えは今も変わっておりません。強者の論理?強者ってなによ?

私はブログ上でへたくそな画像やらつまらねえエロ駄文を公開している。しかしそれなりに愛着がある。自分が考えてきた軌跡であり、そのことに対して読んでくださった方から(どのような形でアレ)反応があることが素直にうれしい。だがこれが人のところからもってきたものならどうだろう?自分のものではないのだから、その記事に対する評価はあくまでも元の画像であり、元の文章なのだ。だがその記事そのものに評価がある限り、評価が自分のものだと勘違いしてしまう可能性は十分にある。人は弱いものだから。

ココロが弱っているときは、誰かの評価がほしくなってしまったりする。それが是とするものならばよけいだ。しかしそれは麻薬のようなもので、本来の自分に対する評価でなければなんの意味もない。着ぐるみがミッキーだからといって、中の人がミッキーと同じように人気者、ではないのだ。

このSo-net blogはnice!という評価機能がついている。これは目で見てすぐわかるし、たくさんあれば評価されているんだ、という考えにつながることは否めない。こうした機能があるブログで公になにかを発表している以上、誰かがその機能を使うのは当たり前の話だ。自分が公開した記事に対して誰が何を思おうが自由だ。評価もまたしかり。その評価した人が悪い、とするのは単なるすり替えであって、責任転嫁のナニモノでもない。それは評価した人に対して、どれほど失礼なことか計り知れない。

藤原正彦は近著「国家の品格」の中で「論理と情緒」について語っている。論理のみで世界を動かしてきた西欧の限界と、武士道精神などに代表される日本的な情緒こそこれからの世界に必要なものではないかと主張する内容には、本の結論、あるいは記述細部についてはさておき、否を唱える人は少ないだろう。情緒とはつまり、人の心を思いやることだ。人が丹念に考え抜いて撮った画像、ひねり出した文章、あるいは自分を評価してくれた人に対してその心を思いやれないというのはメンタル系の病気云々の前に人間としての何かが問われているような気がするのは、私だけだろうか。

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2006年2月 2日 (木)

blog無法地帯

たとえば、ライブドア元社長堀江容疑者を現在批判している論陣のひとつに「訴えられなきゃなしてもいいのか」あるいは「脱法行為で金を稼ぐのはどういうことだ」というのがあると思う。つまりとがめられなきゃなにしてもいいっていうことで、そのあたりを保守論陣から「戦後民主主義の一つの到達点」などと揶揄されてしまったりする。実際は明治なんかでも同様の事件があったりしたし、戦後民主主義教育のせいだけじゃねーだろ、と意地悪く考えてみたりもします。こういうことを書くと今度は左翼って呼ばれるのかしら。レッテル万歳。閑話休題。

たとえば著作権というのがある。私の場合も逸脱している記事が正直ふたつほどある。まあこれは覚悟の上でして、なぜなら引用している歌詞はもう廃盤の曲だからこうやって転載するしかその内容を知りようがないわけです。あんな傑作が埋もれてしまうくらいならと犯罪を犯してみました。そういった事情があるとはいえ、批判は甘んじて受けます。あとの画像はフリー素材か確認済み、あるいはその他ニュース系の引用については以前、新聞各社にメールで問い合わせており、その基準どおりにしている。ちなみに朝日は返事がなかったから、なにをしてもいいというお墨付きを得ているので朝日についてはすき放題書いている。どうでもいい話ですけど。
著作権肖像権については基本的には親告罪となっており、事実上野放しになっているのがブログmixi界隈の動向のようだ。このSo-net blog内においても、無法地帯というべき状況なのが正直なところではないだろうか。たとえばベストnice!ユーザーの中にも、アレ!?と思うことがある。でもきっとベストnice!ユーザーなのだから、私が思っているが間違いで、きっとUPされている画像とか歌詞なんかはご本人が一生懸命書いたか撮ったしたものだろう。私のような人間性の腐って汚れて淀んだ畜生の単なる邪推なんだろうな、と思うようにしている。

つまり無断使用というのは単純に言って「他人のふんどしで相撲を取る」という行為に当たるとするならば、人のふんどしで相撲が取れるなんてなんてマニアな方なんだろうということになる。私は割りと清潔好きなので、ふんどしは新しいものがいい。ちんぽは臭いのがすきなんですが。関係ないですかそうですか。

その一瞬、あるいはその言葉を思いつくためにどれほどの努力が要るのか、挑戦した人ならわかるだろう。今回、私も拙い駄文をぐだぐだと書き連ねて、そのあたりがほんの少し、ごくわずかでも理解できたような気がする。お前のようなエロ駄文になにがわかるのかといわれればそれまでですが。

個人的な戒めですが、なるべく画像は自分で撮ったもの、文章も自分で考えたものをUPしていこうと思います。遅くなりましたがコレが今年の抱負で御座います。

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この期に及んでソネットさまったら

激重戦線になんら異状がない今日この頃。このような状態において、更なる有名人ブログの拡充を図るなんて。なんか狙ってます?
しかも秋山真人(※)とは…もしかして蝋燭の最後はひときわ明るく(ryなんてことないっすよね?ないっすよね??

 

※スピリチュアルな話というブログ説明にちょっと笑った。そりゃ現役度でいえば江原センセイよりもずーっとスピリチュアルについてかたってきたもんなあ。

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2006年1月31日 (火)

もうさ

新機能イラネから、ちゃんと朝でも夜でもきっちり見られるようにしてくれ。

新機能云々はその後の話だと思うぞ。

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2006年1月26日 (木)

小学校から英語教育してどうすんの?

公立小、英語を正式科目に…自治体判断で08年度から  

政府の構造改革特区推進本部(本部長・小泉首相)の評価委員会は26日午前の会合で、公立の小学校で英語を正式な科目として教えられるようにするなど、自治体の判断でカリキュラムを柔軟に変更できる仕組みを設けることを決めた。2008年度から実施する。  学習指導要領は小中学校で教える科目を定めており、小学校では教科書を使わず、成績もつけない「総合学習」の一環として英語を教えることはできても、正式な科目としては認めていない。  しかし、政府は03年から、地域を限って規制緩和する特区で「研究開発学校設置事業」を始め、金沢市など67の自治体に、小学校で英語を正式な科目として教えることを認めている。認定された自治体では、「小学校段階から英語の能力・関心が向上した」「教員の教える意欲も高まった」などの声が出ているため、全国展開を認めることにした。  英語以外にも、中学で教える内容の一部を小学校で教えることも可能になる。数学などが中学進学時に急に難しくなり、ついていけなくなる子供が出るのを防ぐためだ。このほか、ある科目の授業時間を削り、力を入れたいほかの科目に振り向けることもできるようになる。  実施されれば、自治体は内閣府への特区申請が不要になり、文部科学省の審査だけで認定が受けられるようになる。
(読売新聞) - 1月26日15時56分更新

早期英語教育には反対の立場をとっている。なぜなら、利点が見いだせないから。一番の疑問なのは、小学生が英語はなせるから、どうだというのか。それは自らが「話せない」コンプレックスを抱えた親のエゴではないのか。

小学校のウチから英語を学び話せるようになったとしても、全員が全員海外へ行かないだろうから、結局は生かす場がなく、そのうち忘れてしまって単に受験文法英語に染まるか、もしくは訛りのある英語をかろうじて話せるだけではないのか。私の友達で海外留学した子は10人中9人までが忘れてしまっている。マメに使い続ける機会がなければ、そんなものなのだ。私の知人でBBCで通訳やっていた人(現在は翻訳家で大学の先生をしてらっしゃる)がいるが、その方曰く「きちんとした通訳をするには日本語を知らなければダメ」。さて幼児より英語教育してきちんとした日本語が身に付くのだろうか。それならきちんとした日本語教育、もしくは本を読ませた方がどれだけよいかしれない。

言語が思考を形作るとするならば、語るべき言葉を持たないで語るのは、意味が無いどころか単なる哀れみの対象にすぎない。考えてみてほしい、日本語はぺらぺらだが、自国の歴史や文化についてあまり知らないアメリカ人やイギリス人がいたらどう思うだろうか。私なぞ、電車内で幼児に英語の絵本やら英語についていろいろと話している親を見ると、「ああこの方はきっと相当に国語の造詣が深いんだろうな。私なんてお呼びじゃないだろう」などと考えることにしている。

真の国際人(この意味は今持ってよくわからない)とやらを作りたいなら、まず自国の言葉について学ばせ、日本とはなにかを考えさせることが大事なのではないだろうか。英語を教科とするなら、減らされるのはどの時間なんだろう。国際人よりも日本人を作るべきだと私は思う。論理と情緒の問題は根深い。

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2006年1月23日 (月)

伊勢崎のジャンヌ・ダルクは反ジェンダーフリーの旗手足りえるか

南郷さんのところで、なんだかモノクルオシイblogが紹介されていたので気になって見に行くと、久しぶりにリアルタイム炎上に遭遇炎上先は反ジェンダーフリーを掲げ活動している伊勢崎市議会議員伊藤純子氏で、blog読む限り、ずいぶん勇ましいことをおっしゃっているようだコメント欄も紛糾し、ウヨだのサヨだのフェミナチだのとずいぶん物々しい。

そういえば最近、私のブログのコメント欄にネット右翼だのニワカ右翼だのとぐだぐだと意味のわからんコメントがついていることがあるが、いやどうも、私のような無学無知蒙昧かつ碌な教育も受けていない人間に、そんなご大層な形容詞をいただくとは、非常に恐縮かつ汗顔の極みでございます。長生きはしてみるもんだ。なあジイさんや。それはともかく、この方は「伊勢崎のジャンヌ・ダルク」と名乗るなど激しく威勢が良い。威勢が良い人は基本的に好きだが、どれどれとそのロジックを読んでみれば急上昇した期待と結果はものの見事に反比例した。くわしくはこの該当記事コチラのコメント欄を読んでいただきたいが、要はモデル募集の広告をうった女子中学生が結局それだけではすまなかったという事件について伊藤議員が「男をだまそうとした女が被害に遭っているだけだ。本人に落ち度があるのでは?」と二次レイプまがいの発言をし、結論としてそういう行動を中学生がとったのは「男女混合名簿」によるものだという独特な理論を展開されていらっしゃるご様子。そういうことをいえば当然のごとく、それは問題がある、と紛糾し炎上に至るという方程式である。

おそらく伊藤議員が言いたかったのは(かなり積極的に好意的解釈をすればだが)世の中どんなことがあるかわからないから自分の身を守るために善後策を講じるべきである、ということなのであろう。そういう風に捉えて、常に最悪の事態を考慮して行動せよという主張と考えれば、それ自体は問題はなかろう。ただそのことと、ジェンダーフリー教育、わけても男女混合名簿へつながるくだりがまったく論理展開として成立しておらず、結局、我田引水したいだけちゃうん?という惨状を呈している。該当案件を(メディア報道等によって個人的に勝手に)考察すると、非というものがどこかに存在するとするならば、それは中学生にして一時間5000円もの大金をモデルという手段によって手に入れようとする安直さではあると思うが(新聞配達はどうした?)、だがそこに至る前に忘れてはならないのは、中学生が身分不相応な大金を手に入れようと思うことへの不自然さと、高額なお金を得る手段が安易であるからこそのハイリスクをなぜ親が教えていないのか、どのような家庭環境でそういう考えになってしまったのか、そのあたりについて言及するべきではないだろうか。糾弾するべきは親、あるいは周囲の人間の教育方法であるように思える。そうなれば畢竟「ホリエモンこと堀江社長ライブドア騒動」に集約される、戦後日本が道徳心あるいは「恥」の概念を失い、秩序なき拝金主義へと突入していったことにそもそも問題がある云々と、戦後民主主義教育(あるいはスクラッチしてビルドしなかった団塊世代)への批判としてもっていったほうが、問題提議としてはすわりがいいように思う。だが導かれたのは「男女混合名簿悪説」。そのあたりがどうもよくわからない。

まあ、そういう文章を読めば一言なにか異議申し立てしたくなるのが人情というもの。そういうわけでコメント欄がこんな風になってしまった。ただそのコメント欄での論議で気になったのが「犯罪被害に遭わないために善後策を講じるべき」ということと、「性犯罪被害者は不可抗力によって引き起こされたものであるのだから、被害者には万全のケアを行わなければならない」というのがいささか混同されているように思えた。やはり、子供には知らない人についていってはいけないと教えるべきであるし、ドアに鍵はかけるべきで、暗い夜道を一人で歩かないほうがいいだろう。だが、それと、不幸にして被害に遭った人間を責めることは全く別問題である。そのあたりがどうもごっちゃになっている気がしないでもない。

私は過剰なジェンダフリー教育には反対だし、過激な性教育にも反対だ。だが少なくとも伊藤議員のような論理展開はしないように心がけているつもりだがいかがでしょうか。まあとにかく私なんかには思想も哲学も教養もいっさい期待するなってことです。

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2006年1月12日 (木)

Direction blogの奇妙な点

しかし「曽根風呂重すぎ」などという愚痴をまさか2006年になっても書こうとは…。
想像の斜め上行く、さすが曽根風呂。

しかもDirectionのレビューブログ、 なぜか新着記事一覧にもジャンル別新着記事一覧にも表示されない。なぜでしょう。そういう仕様なのか? 同じ状態の方いますかね。現在当ブログは重すぎで更新する気になれず手抜きして(実は例の小説でいっぱいいっぱい)UPできるのがレビューブログだけなんだからさ。ネタはいろいろ仕入れているのに。

次回は「封印作品の謎」いくかな。 ルワンダシンポジウム、ならびに浅川マキはもうちょっと後になりそう。今週中だけどね。黄色いキリストも。

 

※So-net運営事務局より回答がきました。結局、「公式ブログなので一覧には載せません」というご返答でした。いわれてみればそのとおりだけど、それなら最初にいってくれよ、というところ。

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2005年12月21日 (水)

私とわたしとワタシのあいだに。(ブログ開設一周年を省みて)

※はじめに
この記事は特定の誰かに対して述べているのではなく、
ある出来事をきっかけに、少し考えていることをまとめた。
つまり備忘録以上のナニモノでもない。

私がかなり「赤裸々」に「直裁」にこのブログを書き綴っていることは、たとえばこんな記事を読んだ方ならご承知のとおり。読者の方で直接お会いした際に「アレでよく怒ったりされませんね?」といわれることがあります。一年以上に及ぶブログ生活の中で、リアルの知人から直接クレームを入れられたのはわずか一件のみ。しかもその後、それが誤解であったことはご理解いただきました。ので実質はゼロということになる。まあ影でいろいろといわれてんのかもしれないがそれはさくっと三途の川に流して(実存主義なもので)、ではなぜこの傍若無人な内容にクレームがこないのかといわれればごく単純な話。誰かをネタにする際は事前に了承を得ているからである。実にシンプルでなんだ、といわれりゃそれまでですな。

たとえばミッチェルなどもよく俎上に上がるわけですが、以前にも書いたとおり、彼いわく「電脳上でなにを書かれようとも、それは実際の自分とは何の接点もないから一切気にならない」そうです。だから彼に関することは事後承諾も何も、最初から無条件の許可(ただし彼の現在の経歴には触れない)を与えられているわけで。ただそこまで割り切れる人はそうはいない。たいていは事前に許可を仰ぐか、もしくはUP前に見せる、ということもしていたりする。ちなみに修正を食らったことは一度もないっす。

現実を伝えるには二つの方法がある。フィクションとノンフィクション。当然のことですが。私のブログに書かれていることはフィクションであるがノンフィクションといえる。なぜならば、私の内的真実が現実に起きた出来事とは限らないから。ブログに書かれていることは私の内部解釈では事実だけれども、客観的事実とは相違がある場合がある。リアリティを失わずにどこまで内的事実として提供できるか。私はそこが私小説的ブログのキモであると思っている。

本音を直裁に書くようなことは私のスタンスと異なるからできない。さればどうするか。そのことを考えてしばらくブログがかけなくなったりするけれども。私とわたしとワタシの間にはナニが存在し、どう動き、私とわたしとワタシの間にはナニが存在し、どう動き、また感じているのか。その薄い膜を丁寧に拾い上げていければ、幸い。

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股開く夜のあだ花、その前に

よく見に行くブログでちょっとしたトラブルが起きていた。ある出会いがあり、そのなりゆきを書き、結末としてその人からのメールを晒したところ、当人から「メール晒さないで」とクレームが来たらしい。どうやら当人は以前よりそのブログの存在を知っていたらしく、時折、二人の間には当人が知らない(でもブログには書いていた)話題が出たりして、管理人氏も不思議に思っていたそうで、ある。

で、私も不思議に思ったのだが、それはなにかといいますと、そのブログがそういうブログであることを知っていながらわざわざ管理人氏を非難するようなメールを送りつけたこと。メール内容といえば、サガンか森瑤子かってな具合の大人の粋を凝縮したようなモンではなく、情事もどきの結末からひねくりだされた当人だけは納得、もらったほうも晒したのを読んだほうもひどく不可解な、ありていに言えば「それなんてエロゲ?」マヌケのきわみみたいな内容だった。まあつまり自己弁護の為に他者を批判するようなプライド保全の法則から発動された類ってことです。立つ鳥あとを濁さずって日本人的美意識じゃなかったのかしらん。粋じゃないねえ。

そんなもん送った日にゃ、晒されるなんぞ火を見るより明らかじゃないスかね?その送りつけた人の(管理人氏のブログ上における)行動を見ている限り、そういうメールをおくるのもむべなるかなとは思いますが。いい年してなにやってんのかね。よしんば自分が晒されていると思っても、お前が送ったメールがそもそもの発端であってね。原因があって結果がある。それだけのことなんで、てめえで責任取るべきじゃないの?見た自分、メール送信した自分を恥じろ。しかもわざわざ「いまさらいうけど、実はブログ読んでる」と暴露した挙句晒されたメール文の削除要求みたいな恥の上塗り厚塗りべった塗り。恥を知れっての。そういう風に何事も自己の都合のよいほうばかりを考え、リスクを計算せず、常に最悪の事態を迎えることを想定して動けないって、「私はおばかちゃんでーす」と顔に大書して歩いているようなものだと思うんですけれども。

股開くのはいいし、不倫しようがなにしようが当人の勝手といわれればそれまで。私自身は不倫するぐらいなら離婚してやりまくれば?と思ってしまうがそれはさておき。いいとこどりし続ける人生っていうのもありでしょうが、てめえの能天気さを押し付けられるほうはたまらない。リスクを負いたくないけどイイ思いは味わいたいなんて、ねえ。やるならケツまくれよ。おめーのつまらんプライドなんて捨てろよ。不倫の恋なんて夢想するなら、せめて「マリアの恋」ぐらいは読んだほうがいいと思うな。私は中学生でこの「マリアの恋」を読んだんですけれども、一晩がかりで読み終えたその結末に暗然とした記憶があります。(本の感想はまた後日、レビューブログへUP予定)瀬戸内寂聴の「夏の終わり」「嵯峨野より」は小学生で読んだしなあ…。早熟だとこんな風になってしまうというよい見本。オナニーを知ったのは初体験後だけどね★まあなにはともあれやるなら腹すえて気合いれようぜ、兄弟。

マリアの恋

マリアの恋

  • 作者: 佐藤 愛子
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1991/11
  • メディア: 単行本

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2005年12月 4日 (日)

覚悟といふもの(閉鎖問題に絡んで)

以下の記事を読む前に、当ブログの閉鎖問題について未見の方はそちらをどうぞ。

■運営側がウチのブログ閉鎖させるそうだ
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-11-29

■So-net運営側より閉鎖問題について回答がきた
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-11-30


上記記事に絡み↓の方からTB頂いたので追記します。

五月原清隆のブログハラスメント

■[雑感]猥褻問題に関するSo-net blog事務局のオッペケペー


知る人ぞ知るこの方は、現在「はてな」にて絶賛活躍中ではあるけれども、元々はSo-net blogにて悪口罵詈罵詈芸をモットーとしていた。だが、ある記事をきっかけに某巨大掲示板から攻撃を受け、いわゆる祭り→炎上、そしてSo-net事務局から丸デリ(アカウントから記事まで丸ごと削除)を食らい、はてなへ逃れたという経緯を持つ。そういう意味でSo-netの負の歴史の生き証人ともいえるのではないだろうか。(もちろん褒め言葉)

私のブログが閉鎖するしないという問題が持ち上がったとき、まず最初に何人かにメールしたのだが、もちろんかの人にもした。そのときの話しを考えれば、引用記事の内容も当然といえる。おっと氏もおっしゃっておられたが、逆に削除されれば名誉だったかもしれぬ。だが削除されなくてよかったという実感には変わりがないが。

私も会員登録したときに「猥褻」という利用規約はもちろん確認しているし、閲覧者の感想はどうかは知らないけれども、個人的には遵守しているつもりである。猥褻かどうかという判断は記事をUPする時点で、まず個人的に検閲しており、その中で問題ないと判別している以上、あとは読み手の判断に任せている状態である。だから読んでいる人間が「猥褻だ」と思い、So-net blog運営側へ通報し、結果閉鎖・削除となっていても、それは致し方ないことであることは熟知している。別に反体制を気取るほどスレちゃいないのですよ私は。であるから、読んだ人間が問題だと認識し、運営側がその判断を是とし、削除しようが閉鎖しようがそれはかまわない。利用規約に則った上で運営「させてもらっている」というのが現状なのだから。ただどういう記事がどう問題かというのは提示してもらわなければ、So-net運営側の「空気」を読みたくても読めない。社会常識といったって、こちらは平気で「ちんこまんこ」を公で口にする人間ですから、So-net側の「社会常識」と私の「社会常識」、閲覧者個々人の「社会常識」の間に隔たりがあるということは当然である。または「削除」についてもSo-net運営側の優先事項はあるだろうし。個人的には今回「類焼」を防ぐためにも是非猥褻についてのSo-net運営側の見解を提示して欲しかった。例えば、同じように「ちんこまんこ」言っているブログがあり、それがSo-net運営側から削除通告うけた場合に「アイツのブログと俺のブログはどう違うんだ?」と言われたらSo-net運営側はどうするつもりなんだろう。

五月原清隆氏のおっしゃるように、So-net運営側が場当たり対処、根本的な問題放置の上に過剰装飾ばかり進むという姿勢で一年以上運営していると言うことはおそらくSo-net blogを開設した人間ならある程度の共通事項ではないだろうか。その部分がまったく改善されず今に至る。そしてユーザーはこうして問題が提示されたときに初めて「ああまだ変わってないのか」ということに直面させられる。全てが後手後手にまわり、そして遅いのだ。

ただのイチ担当者が犯したミスとして処理するのではなく、今からでもいいのできちんと規約についてのSo-net運営側の基準を開示するか、もしくは抜本的にメールなどの処理対応の見直しをするかしてもらわないと、また「うっかり」削除通告閉鎖通告が行われかねない。私などはありがたいことに、応援してくれたりアドバイスしてくれたりする人、また自身のブログで反論を展開してくれたり、運営側へメールしてくれるなどのバックアップがあればこそ、運営側も易々と削除しにくかったということはいえる。だがいつでもこうだとは限らないし、コトは猥褻だけではない。企業の批判記事を書いただけで、誹謗中傷という利用規約を盾にして削除通告がなされることも考えられる。次は誰の番だろう。

もういい加減場当たり対処はやめるべきではないか。少なくても外部で観ている人間にここまで言われても反論できない現状を抱えるのは、悲しいモノだ。

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2005年11月30日 (水)

So-net運営側より閉鎖問題について回答がきた

件名: So-netインフォメーションデスクです[案件番号7536297]

So-netインフォメーションデスクです。
平素はSo-netをご利用いただき、誠にありがとうございます。

わたくし当インフォメーションデスクの○○と申します。
利用規約違反判断の件につきまして、お客さまからのご指摘を受け、経緯を確認をさせていただきましたところ、So-net blog事務局での判断ではなく、メール対応担当者による判断により、利用規約に違反している旨をお知らせする返信が行われていたことが判明いたしました。

このたびは、誤った判断に基づく返信により、お客さまにご迷惑をおかけいたしましたこと、不快な思いを抱かせてしまいましたことを、深くお詫び申し上げます。誠に申し訳ございませんでした。 今後は確認フローを徹底し、二度とこのようなことのなきよう注意を払ってまいります。

なお、ご報告いただいておりますスキンの不具合につきましては、お客さまのご連絡を受け、現在修正作業をおこなっております。 修正が完了いたしましたら、再度ご連絡させていただきますので、今しばらくお時間をいただけますようお願い申し上げます。スキンの不具合のご報告をいただきましたこと、感謝申し上げます。 最後にお客さまには大変なご迷惑をおかけいたしましたこと、重ねて深くお詫び申し上げます。 引き続き、ご利用の皆さまがより快適にご利用いただけるよう努めさせていただきます。 今後ともSo-netをよろしくお願い申し上げます。
*************************************
So-netインフォメーションデスク 担当

TBくださった皆様、こんなツマラヌブログにたいし、ここまでしてくださったとは。本当に感謝。痛み入ります。よい文章を書くように、これからもチンコマンコに励みます。スナフ氏ゆっこ氏kyao氏南郷力丸氏おっと氏まいけるさん氏うずまき氏phantom氏まいけるさん氏街人氏黄泉若宮氏へー八郎氏伊織氏小紋氏ひかりこ氏アキオ氏ひな氏春巻氏arukakat氏yuki氏NO NAME氏しゃくれアゴ氏うかつ者氏参名学士氏tooshiba氏0時氏Dan氏くまぞお氏マーキー氏(順不同)そのほか皆様、本当にありがとう。ありがとう。

まあしかし正直、たかがブログ。所詮ブログ。やめろといわれたら元より、さっくり削除して立つ鳥跡は濁さない覚悟ぐらいはできている。さて昨日の記事のコメントにこんなことが書いてあった。違う会社に書け、だいたい社会常識から考えて、自分の記事内容が猥褻規約に当たらないと思っていたのか?おかしいんでは?ごもっとも。おっしゃるとおり。その通り。だがね、それならこっちもいうけど、つーか私のブログに社会常識を求めているの?一般常識に即した内容を書けだって?いやあそんな小学校のPTA掲示板みたいな内容、まさにチラシの裏、誰が読むんですかね?一年前、このブログをはじめるにあたり、私はこんなことを書いた。チンコとマンコに徹底的にこだわっていく、と。そういう下劣さは社会にとって必要悪なのだ、と。ここにそれがなければ、私がやろう、と。存在自体が猥褻というならば、それは私にとって褒め言葉に過ぎない。社会常識がない?キチガイと罵られればそれも褒め言葉。通り一遍のことやる気はさらさら無いんでね。ああそれと私は公共の場であろうがなんだろうか平気でチンコマンコ言う人間なんで。そんなキチガイに社会常識求められても、ねえ。ご期待に添えなくてなんとまあ申し訳ないことか。ごめんなさいね。

ちょっとしゃべりすぎた?私からこれ以上いうことはありません。でもねわかってほしいの。これからもどうかヨロシクお願い致します。

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2005年11月29日 (火)

運営側がウチのブログ閉鎖させるそうだ

※So-net側より回答がきましたhttp://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-11-30
  なにはともあれ、一件落着です。ありがとう!

一年以上このスタンスで続けてきたのに、いまさらナニいってんの?って感じ。
みなさんどう思いますかね??とりあえずどの部分が猥褻なのか、猥褻に対する御社の定義をまず教えてほしいと返しました。削除しようにもどういう部分がどう該当するのか示してくれないとまったくわかりません。やあ全部の記事が猥褻だなんてことはナシですよハハハ。これじゃ検閲に等しい。自主検閲なんてマスコミらしくて素敵ですが。(以下担当者名以外原文ママ)

件名:So-netインフォメーションデスクです[案件番号7529302]

So-netインフォメーションデスクです。平素はSo-net blogをご利用いただきまして、ありがとうございます。 本件につきましては、お知らせいただきました情報をもとに担当部署にて内容を確認させていただきます。 確認が完了次第、ご返事をさしあげますので、お時間をいただき誠に恐縮ですが、なにとぞよろしくお願いいたします。

なお、So-net blogでは下記の行為を禁止いたしております。
 
・猥褻、児童ポルノまたは児童虐待にあたる画像、文書等を
  送信・掲載する行為。

お客さまのニックネームよりブログを拝見いたしましたところ、上記利用規約に違反いたしておりますため、早急に掲載内容の見直しをお願いいたします。 禁止事項に該当、もしくは該当するおそれがある場合、またはその他の理由で不適当であると判断した場合は、弊社の判断により、事前に通知することなく、以下の措置を行う場合がございます。予めご了承ください。  

・管理者に対する利用者が発信した情報の削除の要求。 
・利用者が発信した情報の削除の実施。 
・管理者による本サービスの利用の停止。

その他ご不明な点がございましたら、ご遠慮なくお問い合わせください。
----- Original Message -----
> ブログ紹介文のところが背景と同色となってしまい、読めなくなってます。ブログ読者の方からも指摘いただいてます。なんとな直せないのでしょうか。改善くださいますようお願い申し上げます。
*****************************************
So-netインフォメーションデスク 担当

まさか児童ポルノって「小学生が授業でセックスと言わされている」ってやつですかね…。まあそんなアホ話はおいておいて。

納得できないのは「ついでに」削除依頼を出すというこの神経。(大げさに言えば)人一人の表現活動の場を奪うわけです。それに対して「指摘箇所のついでに読んだから」とはどういうことなんだろうか。無神経にも程があるが、So-netの姿勢がよくわかる。以前の広告騒動といい、本当にユーザーを軽視しているんだなと。運営側にしてみれば有象無象の(ツマラン金にならない被搾取サイドの)ブロガーなんだろうけれども。曲がりなりにもこのブログが好きで読んでくださる読者という存在がある以上、この扱いは、私だけでなくその読者に対してもふざけた非礼としか受け取れない。

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2005年11月12日 (土)

「16歳タリウム少女」について私的な感想

文春に掲載されたジャーナリストへの突っ込みはおいておいて、純粋に気になったのは徹底ルポと書かれた記事の冒頭部分。

少女の部屋はまるで実験室のようでした。鳩の内臓やネコの首をホルマリン漬けにしたもの、ウサギの手足を切り離して剥製のように乾燥させた動物の標本があったのです。その他にも、後ろ手に小さな手錠がかけられたトカゲの死体、グレアム・ヤングやナチス党大会の写真もありました(捜査関係者談話を引用)


この記述が事実なら、一見して異様な部屋だとわかる。100人中99人はおそらく同様な感想を持つのではないだろうか。素朴な疑問としては、親はなにをしていたのだろうか、ということである。このような状態になるまで放置していたのだろうか。
最も残酷なのは子供である、としたのはコクトーだったか。倫理というモノがなければ、いくらでも人間は残酷になれる。ソーニー・ビーンの例を挙げるべくもなく。猫を殺したりしていれば異臭もするだろうし、ほかの場所で殺してからもってきたとしても挙動がおかしかったりするのだろうから、そういうサインを見逃していたのだろうか。心配しなかったのか。そういう意味で最も不思議だったのが被害者でもある彼女の親、または家族だった。なぜ猫やウサギといった小動物を殺すことを止めなかったのか。そういうそぶりが見えたときに注意しなかったのか。

子供時代、なんらかの生き物を殺してしまうことがよくあることだと私は思う。蟻だのといった昆虫から、爬虫類、それこそ小動物に至るまで様々経験することだろう。猫などの小動物を殺した経験から殺人に発展するという経緯はよく知られている。いわゆる快楽殺人犯、淫楽殺人犯といった犯罪者はそういう行為を下敷きにしたと論述しているケースが多い。ただそこで見つかって怒られた人はかなり多いと私は思う。もしくはなんらかの宗教上の倫理観で反省したりするといった行為から、罪悪感を覚え、二度としなくなるというケースがほとんどだと思う。(祟られるよというのもそのひとつ)この少女にはそういう行為が倫理上悪とされるということを誰も教えなかったのだろうか。学習する機会があったのだろうか。家庭で学習できなければ学校や地域社会でなんらかの啓蒙活動は行われなかったのだろうか。今の社会というのはそういう状態になってしまっているのだとしたらかなり絶望的ではあるが、それはないと信じたい。

記事文中では奇矯な行動のひとつとしてあげられていた「ウサギにリードをつけて近所を散歩している姿がよく目撃された」という証言だが、愛玩動物をきちんとかわいがっている様子がうかがえる。それがなぜ変わっていったのか。そのあたりがこの事件を考察するのに重要なキーポイントであると私は思う。もしかしたら非常にバランスの悪い家庭だったのかもしれない。勉強さえしていればなにをしててもいいというのは単に子供を放置するための言い訳に過ぎない。もし今回の少女の家庭がそうなら、彼女もまたなんらかのカタチで被害者であったのかもしれない。

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2005年10月22日 (土)

ようやくアクセス解析がきっちり導入できるようになりましたな

アクセス解析に関する以前の記事はこちら
サイドバーがいろいろといじれるようになり、私もアクセス解析を2社、導入しました。
やり方としては、お好きなアクセス解析会社に登録して解析タグを発行、コピーしてサイドバーの本文にはりつけるだけ(コピー&ペースト、いわゆるコピペ)と至って簡単。(あ、表示するにすることを忘れないで!)忍者ツールとAccessAnalyzer。AccessAnalyzerはいまのところ、管理人のIPもカウントされちゃうのが難点だけど、でもそれぞれ解析特徴があっておもしろいっすね。わかったのは、ページビューもコミコミで曽根風呂閲覧者数はカウントされてるってこと。それから検索ワードで圧倒的に多いのは「おまんこ」「ちんぽ」といったありがたいお言葉ばかりっすね…。日頃の精進が実って本当にうれしゅうございます。

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2005年9月23日 (金)

So-net blogにアクセス解析を導入する方法

有効かどうかはわからないけれど。

↑これがアクセス解析っす。
無料でいろんなところがあるのですが、AccessAnalyzer.comという会社を使用。(他には忍者ツールなんてのもアリマスな)遣り方は至って簡単。ユーザー登録をすませ、ログインし、自分のブログURLを登録。タグ発行というところがあるのでそこをクリック。しかるのち携帯端末向けタグ(javascriptが使えないため携帯・モバイル専用を選択する)をすべて選択でコピーし、自分の記事に貼り付ければ終了。ただこの会社の場合自分のアクセスが除外できないようで、その文も含めてアクセスカウントされてしまうようだ。そのあたりが難点といえば難点。
↓下がアクセス解析結果。時間別統計の様子。いま4:25まででSo-netの一日アクセス数は3545(4時間でこの数字はちょっとおかしいと思う)AccessAnalyzerは3時頃からアクセスカウントを始めたのでどうなるかはちょっとわからないけれども。さてどっちが正しいのでしょうか。

 アクセス数統計 (2005年09月23日) 時間別アクセス数の統計を表示します。ヒット回数 22ユニーク人数 16

17
Hour
  0-->ヒット数:0-->ユニーク数: 1-->ヒット数:1-->ユニーク数: 2-->ヒット数:2-->ユニーク数: 3-->ヒット数:173-->ユニーク数:13 4-->ヒット数:54-->ユニーク数:3 5-->ヒット数:5-->ユニーク数: 6-->ヒット数:6-->ユニーク数: 7-->ヒット数:7-->ユニーク数: 8-->ヒット数:8-->ユニーク数: 9-->ヒット数:9-->ユニーク数: 10-->ヒット数:10-->ユニーク数: 11-->ヒット数:11-->ユニーク数: 12-->ヒット数:12-->ユニーク数: 13-->ヒット数:13-->ユニーク数: 14-->ヒット数:14-->ユニーク数: 15-->ヒット数:15-->ユニーク数: 16-->ヒット数:16-->ユニーク数: 17-->ヒット数:17-->ユニーク数: 18-->ヒット数:18-->ユニーク数: 19-->ヒット数:19-->ユニーク数: 20-->ヒット数:20-->ユニーク数: 21-->ヒット数:21-->ユニーク数: 22-->ヒット数:22-->ユニーク数: 23-->ヒット数:23-->ユニーク数:  
  0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23  

時間 ヒット数 ユニーク数 時間 ヒット数 ユニーク数
# 0 AM # 0 PM
# 1 AM # 1 PM
# 2 AM # 2 PM
# 3 AM 17 13 # 3 PM
# 4 AM 5 3 # 4 PM
# 5 AM # 5 PM
# 6 AM # 6 PM
# 7 AM # 7 PM
# 8 AM # 8 PM
# 9 AM # 9 PM
# 10 AM # 10 PM
# 11 AM # 11 PM

なお忍者ツールでも同様で、ID登録し、アクセス解析ツールを作成し、管理部屋へログインしたら解析用ソースをクリック。そこのモバイル専用ソースを記事に貼り付ける。
※忍者ツールについてはココの記事にははれたけれど、他の記事に貼り付けようとするとエラーが生じてしまう。(サーバーが混み合っているという表示)

記事ごとに貼り付けしなきゃいけないのか、一つに貼ればすべてOKなのかはよくわかりませぬ。お試しされる際は自己責任でお願いします。

この件についてなにかありましたらコメント下さい。情報交換できれば幸いデス。

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2005年9月10日 (土)

【広告問題】So-net回答記事のTB下さい!

【緊急告知】
So-net側から今回の対策案がでました。
What's new?【広告表示につきまして】
http://blog.so-net.ne.jp/blog_wn/2005-09-09
皆様、お疲れさまでした。意志が集い意見がつながり、結果に結びついたことに対して素直に感謝したいです。本当にありがとう御座いました。
ただもし週明けの改善でも納得難しい、なにか問題があり記事を書かれた場合には、この記事宛にTBください。よろしくお願い致します。
関連記事:「広告表示問題アリ」記事を書いたらTBしてください!
      広告表示問題についてSo-net事務局さまへメール送りました。
      So-netより対策案がでました【広告問題】

So-net事務局より回答がキマシタ。以下転載します。赤字がSo-netからの回答で御座います。(So-net事務局とのメールやりとりは今後コチラの記事で公開します。同じようにメールを送られた方、So-netからの回答記事を書かれましたら、コチラにTB下されば幸いです。)

件名: So-netインフォメーションデスクです[案件番号6679412]

So-netインフォメーションデスクです。平素はSo-net blogをご利用いただきまして、ありがとうございます。 お問い合わせの件につきまして、ご不快の念を抱かせてしまい、誠に申し訳ございません。
So-net blogでは、9月8日の機能追加に伴い、お客さまのブログページに AdSenseの広告枠を表示させていただくこととなりました。
<What's new?>
http://blog.so-net.ne.jp/blog_wn/2005-09-08
今後よりよいサービスを提供させていただくための広告挿入となっておりますので、何とぞご理解・ご協力賜りますよう、お願い申し上げます。
なお、今回お客さまよりいただきましたご意見は多数のお客さまより同様のお問い合わせをいただいておりますので、担当部署にて今後の So-net blogサービス提供の参考とさせていただきたく存じます。
貴重なご意見をありがとうございました。 以上、よろしくお願いいたします。その他ご不明な点がございましたら、ご遠慮なくお問い合わせください。 今後ともSo-net blogをよろしくお願いいたします。

なにこれ?人に喧嘩売ってますか?とてもマトモにブログ記事を読んだとは思えない回答ですな。いや大笑いっすよ。あまりのマニュアル対応ぶりに、久しぶりに感動しました。感動をありがとう。いまどきマックでもこんなことしないよなあ。 私の書いたこと、質問にはまるっきり無視ですか。そういうわけで再メールをしました。

So-netインフォメーションデスク 御中

お忙しい中、ご回答頂きましてありがとうございます。
さて頂いたメールですが、私の質問にまったく回答されておりません。
以下の質問について明確にご回答下さい。

・なぜ今回広告表示に踏み切ったのか
・広告表示位置は記事本文でなければならない理由
・なぜユーザーに対する事前説明がなかったのか
・無作為に広告が抽出されているため卑猥な広告が記事本文中に表示されている。ユーザーに対して全く配慮がないとは考えないのか。
・古田選手といったいわゆる「有名人」の方のブログにはなぜ広告が非表示なのか
・現在スタイルシート投入による広告非表示が一部で行われているが、それについて事務局としてはどのように考えているのか。
・拙ブログ記事http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-09-08-3に対する回答が頂いたメールでは、該当記事へTB、コメントされた方が納得すると考えているのか

拙ブログ記事http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-09-08-3には現在86という、同じように今回の措置に納得できない方のTBが送られております。
送られてない方でも、同様に納得されていらっしゃらない方もおられるでしょう。ブログサービスとして運営されている以上、ユーザーに対して説明責任があるとはお考えになられないのでしょうか。もしご自身がこのようなメールを送りそして頂いた回答のようなメールが返ってきた場合承伏できますか?
今回の広告表示の件でSo-net blogを解約される方は多数おられるようです。止めたくて止める方と私は認識しておりません。このような広告表示で止めざるをえない方がほとんどではないでしょうか。そのような方々のお気持ちに、御社はどのように回答されるおつもりでしょうか。
お手数をかけて申し訳御座いません。
誠意有る回答を期待します。

あんまり腹が立ったから物凄い文になってしまいました。
とにかくまだまだ続きます。

件名:So-netインフォメーションデスクです[案件番号6685455]
So-netインフォメーションデスクです。ご不快な念を抱かせてしまい、誠に申し訳ございません。 お問い合わせのメールを3通拝見いたしました。併せてご案内をさせていただきますのを何卒ご容赦ください。
現時点での対策案は「What's new?」にてご案内を差し上げておりますが、お客さまよりいただきましたご意見・ご要望につきましてのご返答は、担当部署へ確認の上、ご案内を差し上げたく存じます。
また、「はてなダイアリー」の件につきましても、担当部署にて現象を確認の上、ご案内をさせていただきます。 確認が完了次第、お返事を差し上げますので、たびたびご連絡をいただきながら誠に恐縮でございますが、何卒よろしくお願いいたします。
その他ご不明な点がございましたら、ご遠慮なくお問い合わせください。
はてなダイアリーへなぜかトラックバックが送れなかった、という問い合わせは確か先週終わり頃問い合わせた気がします。まあめんどくさいのでまとめて返信っていうのはわかりますけど。さてどんな返事がきていることやら。旅行から帰ってきても返信されてないかもしれませんが。

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雨を見たかい 晴れた日に降る雨を

いまや某日産の「モノより思い出」のCM曲として有名な曲。クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル。略してC.C.R。ジョン・フォガティの泥炭をたたきつけるようなダミ声にはいつもひきこまれてしまう。訛り、クセ、アク、いずれも強烈であり、その田舎臭い発音に漂う郷愁。カントリーロックの代表的バンドの代表曲だ。一度はおそらく耳にしたことはあるだろう。この強力な懐かしさにはいつも魂が揺さぶられてしまう。洗練されてないからこそ表現できることもある。
サビの「I want to know.Have you ever seen the rain? Comig down on a sunny day」をごくシンプルに訳せば「僕は知りたい  キミは雨を見たかい?晴れた日に降るヤツを」となるんだろうけど、要注意なのはこの「晴れた日に降る雨」はCMにあるような穏やかな風景ではない。一般的な解釈では「ナパーム弾」晴れた日にきらきらと降り注ぐ雨はこの意味だと言われている。つまりベトナム戦争への反戦歌だという。そしてその解釈を裏付けるように、アメリカでは放送禁止リストに入っているそうだ。誰も見たことが無いだろう。静けさに一瞬満ちあふれた、眼にした瞬間にはそれはもう死者への切符を手にしたようなものだ。しかしその雨がいま、我々の上に降ってないと、誰が言い切れるだろう。ナパーム弾というような明確な形ではないゆえに。いや明確なかたちではなくても降り注いでいる人々はこの世界中にあふれているのだ。不寛容と無理解という豪雨はどこであっても激しく降り続けているようだ。
晴れた日に雨は降り続いている。わたしたちはTVをつければ、ネットで検索すれば易々とその映像を目の当たりにできる。newsはいつだってそんな話題だし。そして私たちは、自分のうえに雨は降ってないと、楽しい誤解をしながら、それらを娯楽のように消費するだけで。

さて、明日9/11は衆議院選挙投票日。
私は明日早く東京を出発するので、本日不在者投票をすませてきた。C.C.Rの「雨を見たかい?」を聞きながら。その意味を考えながら。そう。わたしはもう、晴れた日に降る雨をみたかい?と聞かなければならない時代にはしたくない。わたしたちに降り注ぐ雨をどうしたら止められるのか。雨を降らせないためにはどうしたらよいのか。
手には投票用紙。いつの間にかじっとりと汗がにじんでいた。
この一票を大事にしたい。投票にはいこう。晴れた日に降る雨をみてみたいかい?


C.C.R. クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル

C.C.R. クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル

  • アーティスト: クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル
  • 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
  • 発売日: 1999/08/04
  • メディア: CD

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2005年9月 9日 (金)

So-netより対策案がでました【広告問題】

抗議行動が実を結んだ…のかな?そう思いたいです。
【広告表示につきまして】http://blog.so-net.ne.jp/blog_wn/2005-09-09

よかった…。ご協力下さった方に感謝、嫌な思いされた方にねぎらいを、そしてみなさまにお疲れさまでした!週明けの対策に期待!

 

ワタシ、その頃沖縄旅行中ですが…。
(turboさんわかりづらい表現でごめんなさい!)

しかし週明けの対応如何によってはまだまだ追撃せねばならんかも。広告の位置を変えるとは明言してないわけですし…。いない間になにかあったら後はどうか頼みます、みなさま。帰ったらワタシもやりますたい。なにかあったら以下の記事にTBお願いします。

関連記事:「広告表示問題アリ」記事を書いたらTBしてください!
      広告表示問題についてSo-net事務局さまへメール送りました。
      【広告問題】So-net回答記事のTB下さい!
      

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2005年9月 8日 (木)

広告表示問題についてSo-net事務局さまへメール送りました。

【緊急告知】
So-net側から今回の対策案がでました。
What's new?【広告表示につきまして】
http://blog.so-net.ne.jp/blog_wn/2005-09-09
皆様、お疲れさまでした。意志が集い意見がつながり、結果に結びついたことに対して素直に感謝したいです。本当にありがとう御座いました。
ただもし週明けの改善でも納得難しい、なにか問題があり記事を書かれた場合には、以下の記事宛にTBください。よろしくお願い致します。

関連記事:
「広告表示問題アリ」記事を書いたらTBしてください!
【広告問題】So-net回答記事のTB下さい!
(今回の広告表示問題についてSo-net運営へメールされた方の中で、先方からの回答について記事を書かれたら、↑コチラの記事までTBお願いします。)

So-net事務局御中

いつもブログスペースをお貸し下さり、誠にありがとう御座います。
今回、いちユーザーとして、新機能広告表示について問い合わせがあります。
まずは大変お手数ですが、拙ブログ記事http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-09-08-3をご確認下さいますようお願い申し上げます。上記記事内容をご確認頂くと、有る一定数の方が、今回の広告表示に対してなんらかの不満を抱かれているということがご理解頂けるかと存じます。まずお聞きしたいのはなぜ“今回広告表示に踏み切ったのか”ということです。そしてなぜ“ユーザーに対する事前説明がなかったのか”ということです。
記事本文中にあれだけ目立つ形で広告表示されてしまうと、ブログ記事そのものが読みづらくなる、という点は検討されなかったのでしょうか。
そして古田選手といったいわゆる「有名人」の方のブログにはなぜ広告が非表示なのでしょうか。この点をもってしても、一般ユーザー軽視とみなされても致し方ないのでは、と存じます。
拙ブログ記事に頂いた意見の中でも「有料時非表示なら納得できる」という声を多く頂きました。
現在ブログは新たなwebツールとして、非常に注目されており、各社サービスに力をいれている状況は、御社におかれましても、充分おわかりかと存じます。
その中でこのようなある種のユーザー軽視とも受け取れるサービスの提供は、
果たして御社におかれましても、他に全く選択の余地がない状況で施行されなければならなかったのでしょうか。
他社様の例で大変申し訳ないのですが、例えばnifty 、ocn といったプロバイダー系列のブログサービスにおいては、広告表示の有無についてユーザー選択が可能であったり、あるいは、gooのようにサイドバーにて広告表示を行う、というような、ユーザーに配慮した広告表示が多くあります。
今後、上記状況をふまえ、現行の広告表示について変更される予定があるのかどうか、So-netブログ運営者さまとして、この一人一人の声にどのようにお答えになるおつもりなのでしょうか。
どうかご回答の程、お願い申し上げます。
なお、このメール文については拙ブログにて公開する予定です。
頂いたメールにつきましても、今回の拙ブログ記事の反響の大きさを鑑み、原則公開とさせて頂きますので、その点をふまえ、何卒よろしくお願い致します。


「『広告表示問題アリ』記事を書いたらTBしてください!」にコメントを下さった皆様へ】

皆様、拙ブログエントリー「『広告表示問題アリ』記事を書いたらTBしてください!」へコメント、ならびにTBを送って下さり、誠にありがとう御座います。先ほど、取り急ぎ上記のようなメールをSo-net事務局さまへお送りしました。
今回、上記記事にはあえてレスをつけず、この場をもって皆様からいただいたコメントに対するレスと致したく存じます。
たくさんのnice!、コメントTBを頂き、本当にありがとう御座います。皆様にご協力頂いたことが結果に繋がると、信じております。
頂いたコメント、TBを拝見しつつ、強く感じたのは、このような記事を書く必要がないことが望ましいなというアタリマエのことでした。しかしそれは私なんかよりも、コメントやTB、nice!を下さった皆様がいちばんご存知ですよね。今回いささか出過ぎた真似かとは思いながらも、こうせずにはいられませんでした。一日も早く、ユーザーのためのサービスが行われることを祈っております。
正直、ここまでの対応をされると移行しか考えつかないのですが、ただ、昨年11月からこの場でブログを書き続けてきたこともあり、そこはかとない愛着もSo-net blogにはあります。ここで知り合えた方もいる。
そんな風につらつら思えば、このままSo-net blogに見切りをつけ他社サービスへ移行するよりも、出来るならばなるべくこのままここで文章を綴っていきたいという気持ちが沸々とわいてくるのです。しかしこのようなユーザー軽視ともいえる状況は続くようならば、結論を出すしかない。それが非常に残念です。So-net事務局からの誠意ある回答を期待しつつも思うのは、今回の件は、運営側とユーザーとの間だが根本的にずれている証左ではないでしょうか。ユーザーではないどこか遠くをみつめていませんかね、So-net blogは。

※広告を消す方法が有るようですが、私は行いません。So-net側が表示しないでくれといっている以上、「非合法」な方法でそれを回避するのは、いわゆる虫歯の根が腐っているのに痛み止めだけ与えているようなもののような気がするのです。抜本的に広告消去されない限り、問題の本質は変わらないと思うのです。なおかつ上記のようなメールを出し、So-net運営側へ問題提議する記事を書いている以上、ある種の責任が既に生じていると、私は考えております。(消す方法を選択された方を貶めたり、非難する気は毛頭ありませんが)

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「広告表示問題アリ」記事を書いたらTBしてください!

【緊急告知】
So-net側から今回の対策案がでました。
What's new?【広告表示につきまして】
http://blog.so-net.ne.jp/blog_wn/2005-09-09
皆様、お疲れさまでした。意志が集い意見がつながり、結果に結びついたことに対して素直に感謝したいです。本当にありがとう御座いました。
ただもし週明けの改善でも納得し難しいなど、今後なにか問題があり記事を書かれた場合には、この記事宛にTBください。よろしくお願い致します。

関連記事:
広告表示問題についてSo-net事務局さまへメール送りました
【広告問題】So-net回答記事のTB下さい!
(今回の広告表示問題についてSo-net運営へメールされた方の中で、先方からの回答について記事を書かれたら、↑コチラの記事までTBお願いします。)

メンテナンスが終わって、記事でも書こうかとふとみたらなんだよこの広告枠。激しくイラネ。その上、記事本文中にやるなんざ、少しでもセンスがある人間なら考えもつかない「英断」ですな。サイドバー表示にするとか、上部固定にするとか、もうすこしレイアウトの工夫のしようがあると思うんですが、記事の雰囲気をぶちこわす悪趣味さを存分に発揮中。しかも有名人の方のブログには非表示ですかそうですか。(平社員やノストラダムスといったSo-net企画系のぞく)
曽根風呂でエキサイトブログなどの宣伝する意味がよくわかりません。センス悪すぎ。ココログは無料だけど広告なんて記事本文に載せてないぜ。(ちなみにざっと確認した限りでは、OCN、↓広告でてるexcite、nifty、jugem、goo、amebloなんかが記事本文中広告非表示っすね。これらのブログの多くは基本無料です。)広告表示は最新記事だけ、と思ったら大間違い。記事をクリックするときっちり広告が表示されます。どうして枠外に表示しないのか…。あまり意味があると思えない関連記事の代わりに広告表示させればさほど問題ないと思うけど。

とにかく有料なら広告非表示などの、ユーザーがある程度選択できるようにすることは無理だったのでしょうか。
その点をきちんと確認したいので…
【急募】です。
広告表示を不快と思う方はTBを下さい。
So-net運営側へメールする際はこのブログのURLを貼付し、
いただいたコメントを読んだ上で回答くださるように要望します。
何卒よろしくお願い申し上げます。
(送信メール文、ならびに運営側からの回答メールについては公開する予定です。)

 ↓ロリポブログの宣伝があったから腹立ち紛れにつくってみた。
でも18禁ネタがだめなら、どうしようもないな…。


追記:関連記事が草津なのも激しく謎です。

追記2:Dan氏のブログはこんなことにhttp://blog.so-net.ne.jp/inoueyo/2005-09-08-1
ノーマル記事に突然「ペニス 病気の情報満載」ですか。TBスパム以外のナニモノでもないですね。それになにより、猥褻なものは利用規約に抵触するんじゃないの…???(私も人のことは言えないんですが)

追記3:phantom氏の記事によると、なんとこの話題、ライブドアニュースでもとりあげられていたようですね。http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1385050/detail

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2005年9月 6日 (火)

謎の腹痛、いまだ意気軒昂

腹痛+腹下しは依然として猛威をふるっております。

 

 

……病院へいってきます…。

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2005年9月 1日 (木)

「沖縄・日本を守れ」Flashは愚の骨頂

まずは以下のフラッシュをご覧下さい。(ちょっと長め)
http://www.geocities.jp/japanguardian/


とあるところでこの「沖縄・日本を守れ」Flashを拝見したのですが、いや凄いですね。
恣意的に文章を取り上げ、曲解してそれを真実であるかのように伝えている。個人的にはこのフラッシュをあらわすのに最もふさわしい言葉は「風が吹けばおけやが儲かる」だと思いました。それほど見ているウチにあれ?あれ?とひっかかる部分が増えてくる。私も民主党の対中国政策やらなんやらについてはいろいろと思うところは沢山あったりもするんですが、それにしてもこれはあまりにも酷すぎる。そして今この時期、なぜあちこちに貼られているのか。誰がこれを作成したのか、その背後が非常に気になりますね。

ちなみにやり玉にあげられている民主党の沖縄ビジョンはコチラ
http://www.dpj.or.jp/seisaku/kan0312/kouan/image/BOX_KOA0022.pdf
(PDFファイルなのでご注意を)


ではこの「沖縄・日本を守れ」Flashの問題点を上げていきたいと思います。
(以下引用部分については、上記「民主党沖縄ビジョン(改訂)」より書き写す。強調部分については筆者。)

■基地削減問題について
正直、沖縄の基地って減らしていいんじゃないかと思うんですが。だいたい日本海沿岸に米軍をもっと配置していれば、あのような拉致という悲劇は起きなかった気がするのです。沖縄に駐留する米軍を減らして、日本海側に展開すべきでは。その上、中国がまず侵攻するのは台湾であるように思うので、必要なのは狭い島にこれ以上米軍基地を増設するよりも、台湾との軍事協力であるように思うのですが。危険度でいうならば日本海側や九州の方が緊張度合いが強いと思われます。(実際に拉致事件や日本漁船拿捕事件が起きている事実をふまえればということで、尖閣諸島や中国籍の原潜による領海侵犯などを見逃してよいということでは決してありません。)
まあそんな個人的な感想はさておき、実質問題、自民党も民主党も、つまり右も左も、沖縄の米軍基地は整理・縮小されることでは一致していると思われます。なぜなら2004年参議院選挙において自民党は公約として

二 沖縄における米軍施設・区域の整理・統合・縮小への取組み
SACO(沖縄における施設及び区域に関する特別委員会)最終報告を着実に実施し、沖縄県民の負担軽減に努めます。とくに普天間飛行場の移設・返還については、沖縄県及び地元自治体の理解と協力を得ながら代替施設協議会等において、早期に成果が得られるよう努力するとともに、北部振興策や基地跡地対策等にも積極的に取り組みます。

としており、今回の公約でも『米軍再編を通じた日米防衛協力を強化。沖縄など基地の地元負担軽減 』としています。今回の公約では特に「削減」と明示しておらず、「再編」としているだけなので、此をどう捉えるかという問題にはなりますが、 ただ先に述べたとおり、元々小泉首相は米軍施設の移転による沖縄の負担軽減に意欲を示し、なおかつ普天間基地移設はもう米軍との合意ができているので、この場合の「再編」は沖縄の基地削減を含めた包括的な見直しという意味合いが強いのではないでしょうか。参議院は去年の話だろとはいわずにこの連続性に着目して頂きたい。好むと好まざる望む望まないとに関わらず、どちらにしろ基地は縮小される傾向があると思われます。なお民主党「沖縄ビジョン」では米軍を撤退させるとは書いてはいません。

■「3000万人移住、中国に乗っ取られる」という主張
問題の3000万人ステイ構想ですが、原文を引用すると

従来の大量輸送・大量消費型マスツーリズムといった環境面に負荷がかかる観光形態ではなく、自立的な持続可能な観光へと変換すると共に、アジアからの外国人を含む国際型観光地および長期滞在中心の観光地への転換を図り、各種コンベンションなどを通して観光客のみならずビジネスマンや学生等も含め幅広い年齢層が訪れる「3千万人ステイ構想」の実現に取り組む。

「ステイ」といっても移住し、永住権を与えるなどとは一言も書いていません。単に観光地として3000万人ぐらい誘致しましょうよ、という話としか読み取れないですな。しかも何年までに、といった努力目標が掲げられているわけでもないし、一人が何回も訪れた場合もおそらくカウントされるでしょう。だからどっちかというと白髪三千丈というか、それぐらい賑わう観光地にしますよ、という話でしかないんじゃないでしょうか。(ちなみに現在の沖縄は2004年で年間500万人ぐらいが訪れてます。)沖縄の観光が現在抱える問題として、確かに観光客は少しずつ増えてはいるけれども、ほとんどが格安ツアーだったり、あるいは2泊3日という短期滞在型で、特に最近はレンタカーで基本的な観光地を廻って終わりといった、あまり地域にお金が落ちてきにくい状況があります。(グラフによると観光客自体は右肩上がりで増えているものの、観光収入は平成10年をピークに減少傾向にある。)おそらくはこの部分を指摘しているのではないでしょうかね。しかしあのFlashを見てるといつの間にか「3000万人の中国人が押し寄せる!」みたいな話になっていて、なんていうかある種の思想が丸見えでどうしたものやら。(ちなみにビザ免除を謳ってはいますが「台湾に対しては」という注意書き付きです。東アジア人なら誰でも無問題とは、少なくともこの沖縄ビジョンには書いてないです。)

■無国籍児=中国の黒子(ヘイズ)という主張
ちなみに無国籍児云々という主張に該当する箇所をあげると

※アメラジアンだけでなく、無国籍児など多様化している国際児の教育を受ける権利の確立のため、公的助成を含めた教育環境の整備、および養育費を確保するための米国との協定締結等の措置の実現を図る。
(※アメラジアンとはアメリカとアジアの造語。アメリカ人とアジア人を両親にもつ子ども。特に日本ではアメリカ軍人および軍属と日本人女性との間に生まれた二重国籍児を指す。)

Flashでは、「無国籍児とは密入国で親元がはっきりしない子どものことだ。国際児はなにを指しているのかよくわからない」と凄いことをいってますけれど、別に密入国じゃなくたって無国籍児は存在します。例えばこういうことではどうなんでしょうか。米軍の移動によって比などの外国から沖縄へ来た女性がいたとします。赤子が生まれたが、しかし彼とはうまくいかず、子どもを置いて、女性だけ故郷に帰ってしまった。さてこの子は密入国なのでしょうか。このように、沖縄を考えるときに欠かせない米軍とその駐留家族。この部分の視点が欠落すると、フラッシュような不可思議な結論へと辿り着いてしまうのです。ミスリードを誘っているような気がします。
そして国際児というのは、米軍駐留家族の子ども達であるのは文脈上間違いないといっていいでしょう。なぜなら、米国との協定締結と謳っているのですから。(この「協定締結等を含めた」という「等」が米国にかかっているのか、協定締結という手段について含みをもたせているのかが、不明といえば不明ですが。このあたりは官僚用語として致し方ないでしょう。)
なおアメラジアンの問題は沖縄で根深く残り、差別も消えないといわれています。とにかく中国で問題となっている黒子(ヘイズ。一人っ子政策のため表向きは生まれていないことになっている子どもたちのこと。多くは貧しい農村部で生じている。)ではないと思います。なんで中国の黒子について米国と協定締結しなければならんのか。根本的な疑問がわきます。
このほか教育面の話では、「中国語を教えて中国人民化する」などとFlashでは煽ってますが、原文には『徹底した英語教育を行うと共に、中国語などの学習も含め、沖縄の「マルチリンガル化」を促進する。』とあります。徹底した英語教育を行うのだから中国人民化よりも、イギリス・アメリカ人民化するような気がするのは私だけでしょうか。(既に新潟などでは環日本海構想により、中国語ロシア語など多各国語を選択肢として掲げ、学んでいたりします。石川県立金沢辰巳丘高校では県が提唱する「環日本海文化圏構想」の一環で既に95年の段階で中国語専攻を設置していたりするなど、今はどこの自治体でも同じようなことをやっているようですな。ちなみに2003年5月の時点で中国語教育に取り組む学校は全国で475校。長崎県の離島壱岐にある県立壱岐高校では教育特区の認可を受け、2005年度から中国語専攻を設けている。ちなみに文科省の調べでは同じく2003年5月の時点で約42000人の生徒が英語以外の外国語を学んでおり、最も多いのは中国語19045人、フランス語8081人、朝鮮韓国語6476人と続く。平成17年9月18日付朝日新聞教育面より。)

■「一国二制度」という言葉と沖縄独立問題
あまり知られてない事実ですが、本土復帰前に沖縄独立が唱えられその運動が一部であったことがあります。ただ挫折した。それはやはり沖縄独立は現実的ではない、ということが島民の間では周知であったからです。島民は独立を支持しなかったという歴史がまずあります。
さてこの事実をふまえ、Flashのいう「一国二制度」を考えてみますか。少し長いが該当箇所を引用します。

民主党は「自立・独立」「一国二制度」「東アジア」「歴史」「自然」の5つのキーワードが、沖縄の真の独立と発展を実現するための道しるべになると考えている。つまり、沖縄において「自立・独立」型経済となるためには、「一国二制度」を取り入れ、「東アジア」の拠点の一つとなるように、沖縄の優位性や独自性のある「歴史」や「自然」を活用することである。そして、これらのキーワードを活用する沖縄を通じて、日本は次なる姿を描けると考える。
本土復帰後の沖縄においては三次に亘る「沖縄振興開発計画」に基づいて振興が図られ、社会資本整備など一定の成果をあげてきたが、一方で日本の他地域同様に中央主権的で画一的な制度が適用され、中央の発想による公共事業が行われてきたといえる。このため、補助金依存体質が助長され、また、経済活動が、本土、特に東京圏主導の構造になっている。この構造から抜け出るためには、まず、沖縄が独立の気概を持ち、その気概を中央政府がくじくことなく応援をし、自立型経済構造を築き上げることが重要である。ここで敢えて誤解を恐れず「独立」という言葉を使ったのは、「日本からの独立」という意味ではないことは言うまでもない。

だいたい「いうまでもない」っていっていることを、「沖縄を独立させる気だ!」と称するとは笑止。この引用箇所を読むと、結構いいこといってんな、と思いますね。意味するところとしては、小泉総理大臣の掲げる「小さな政府の実現」「地方でできることは地方で」ということとほぼ同じと思うのですが。
しかしフラッシュの「地域通貨発行は日銀が沖縄に一切関与しないことになる」との主張は一体どういう意味なんでしょうか。地域通貨は現在日本のあちこちでやってますが(例:東京早稲田の「アトム通貨」多摩ニュータウン「コモ」などおそらくは数百カ所で実施中)、それらの地域に日銀は介入してないのですか。そうですか。
民主党の主張するところは、特区のような中途半端な形での振興策ではなく、沖縄が助成金に頼らずとも運営できるような「自立」を目指している、という事以外にはこの文章中からは読み取れない。それこそ今の沖縄が抱えている根本的な問題――高度経済成長期に本土へと組み込まれてしまい、助走から既にトップスピードで走り始めた本土と歩みを共にすることができず、取り残され、結局は恩恵を受けることが出来ずに放置されていた――を指摘し、自立へと促している。至極まっとうなアタリマエの主張といえよう。
このFlashでは民主党の「憲法提言中間報告」にある『主権の委譲』文言に着目し、「だから民主党の最終目的は沖縄を乗っ取らせ、日本を解体することにある」などとしてますが、実際この「憲法提言中間報告(要約版)」を見て頂くとわかると思うのですが、この「国家主権の委譲」というのは、もし東アジア共同体というような仕組み、枠組みが「将来的にできるとするならば」という、かなり曖昧で、かつ実現するかどうかもよくわからないような言ってみれば希望論とでもいったらいいのでしょうか、そういう意味合いでの話で、「だから民主党は中国様に沖縄を献上するのだ」という事ではないわけです。「東アジア共同体構想」自体、今回の自民党マニフェストにも載ってますね。(pdfファイル29Pのテーマ5:【世界に胸をはれる日本へ】を参照)だからどちらにしろ民主党が唱え始めた、ということではないわけです。もちろん双方の思惑は別であるとは思いますが。
また参考意見として「一国二制度は今さっき民主党が出してきたのではなく、90年代後半から一国二制度は案としてでている。(参考資料http://www.okinawatimes.co.j p/spe/ten970116.html)一国二制度は今まで与野党の間で審議されていたけれども、結局関税率だのなんだのと沖縄のみを優遇できないということで却下されてきた」ということもあるようだ。(うちなんちゅーさんありがとう。多謝感謝。)そのあたりは、元々、アイデア自体は青島都知事時代からあったが、銀行側が提訴した場合に勝てないかもしれないという理由で却下され、石原都知事がその案を流用し、導入したら懸念通りに提訴されてしまった「外形標準課税」と経緯が非常に似ていると思う。そしてそもそも「一国二制度」という案も沖縄財界からの政府への提言であったりして、そのあたりの経緯や背景を調べないと、この「一国二制度」について理解することは難しいのではないだろうか。
このflashの流出経緯、流布図式なんかとちょっと似ているなと思った事例が、昭和57年の「侵略→進出誤報」事件です。あの「教科書検定において『侵略』を『進出』と書き換えたという誤報を喧伝し、中国政府を動かし外交問題に発展させた」という出来事です。自分の誤謬を元に仮定の話、架空の話を作り上げ、それをもって相手を攻撃するのは、どこかのクオリティペーパーと称する捏造で有名な新聞社と同じことだと思うのですが如何でしょう。

(ただこの「民主党沖縄ビジョン(改訂)」に、変なところがないかというとそうではない。問題点は多い。だからこんな変なFlashで中国と絡めて叩くよりも、単純に政策的な面で瑕疵を挙げていった方が早いし確実なダメージを与えられると思う。一例を挙げれば、『「沖縄を活かす」産業による雇用創出機会の拡大と自立型経済の構築』という欄で独自の沖縄振興策を述べているが、かなり希望的観測にたちすぎているのではと思われる。3000万人もどうやって呼ぶつもりなのかと読み進めれば、「民謡酒場を核とした街作りを進める。」などと喜納昌吉先生直伝と思われる変な主張をしていたりして。「沖縄の自立」という理念は素晴らしいがその手段があまりにも稚拙すぎる。まあだが小渕元総理も基本的には「沖縄の自立」を目指していたとは思うし、平成12年の内閣府で既に「長期滞在型、ビザフリー」などをこの民主党案で骨子となっている政策は既に案件としてあがっているので、肝心のその理念自体が既出、政府案の焼き直しじゃねえか、というのはおいておいて。)
dennpa

(←電波を感じたので貼ってみました。)

以上のように考えていけば、このFlashが故意かどうかはわからないけれども、民主党の「沖縄ビジョン」から語彙を抽出し、前後文を無視して抜き書きしていることがよくわかる。そのような視点に立てば「中国人が外国人参政権によって沖縄の公職をすべて独占し→大量に流入してきた中国人が大規模テロを沖縄で起こし→日本人を粛正し→中国人の手によって沖縄独立宣言がなされる」そしてその先にあるのは「日本本土の解体である」などとするこのFlashの主張は、あまりにも荒唐無稽すぎて、だからこそ冒頭で私が述べた「風が吹けば桶屋が儲かる」式の戯れ言にしか思えないということがおわかりいただけたのではないだろうか。こんな話をマトモに受け取るかべきかどうか。「書を読みてことごとくそれを信ずれば、書はなきにしかず」という古人の言葉を噛みしめたい。

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2005年8月24日 (水)

共生社会を目指す、ねぇ…

病院へ向かう車中では様々な光景が見られ勉強になることが多い。今日みたのはこんな出来事だ。

18時頃の電車内は非常に混んでいる。しかも私が乗っているのは混むことで都内では有名な電車の一つだった。ようやく隙間ができるぐらいの混雑具合。しかも急行だ。女性専用列車に乗れば良かった。私が乗ってから二つ目の駅でそれはおきた。人が降りて少し呼吸が楽になったとはいえ、まだまだウンザリする状況。そこに電動車椅子にのった脳性麻痺の方だろうか。男性が乗り込もうとした。茶髪にJリーグのチームTシャツを着ている。なにかを叫んでいるがよくわからない。乗ろうとしてもそれは無理だ。彼が乗る余裕はなくそのためには誰かが降りなくてはならない。それでも彼は強引に乗ろうとする。駅員が駆け寄ってきて「次のにしたらどうですか?」などと言うが彼は叫んでいるだけで会話が成り立たなかった。ドア付近にいた人びとは降りた。彼のスペースを設けるために。駅員さんが「すみませんねえ」という。続けて「どこへ行きたいの?」と問いかけるが彼の言葉は聞き取れない。何度か繰り返すウチに彼の近くにいた人が「××…じゃないかしら」と通訳をした。駅員は退き、電車は発車しようとするが、今度は電動車いすの荷物を載せる部分がドアにひっかかり閉じることができなくなってしまった。近くにいた人びとが協力しなんとか発車することができた。遅れてしまったけれど。

私が降りる駅に着き、車いすを避けるのに手こずりながらふと彼の方をみると、うつむいて車内に漂うある種の雰囲気を感じているようだった。その様子を気の毒に思いながら、駅で降りざるをえなかった人が急な用事じゃなきゃいいけど、とも考えた。そして共生社会というものについても。

私がここで言いたいのは、このテの話が某巨大掲示板に書き込まれると同時にレスされるいわゆる「身障は家からでるな」式のことではない。健常者と身体障碍者、双方が共生できる社会を目指す、と政府は言う。しかしこの状況は共生といえるのだろうか。私には正直彼がある種の自己主張を通した結果が見えただけだった。そしてそのため退いた人、車内にはある種の空気が漂ってしまった。権利を主張することとそれを強引に満たすことは違うような気がする。なぜ彼はあの時間帯に外へ出たのだろうか。重要な用事があるとするならばなぜ介添えの人がついてなかったのだろうか。失礼ながら彼の状態では、電車が空いている時間帯か混んでいるなら介添えの人が必要というように思えた。障碍者の自立は非常に重要で、ボランティア漬けがよくないということは頭の悪い私でもよくわかる。だが、あのような状況で自立というのも少々違うように思えてしまうのもまた事実だ。

私など小学校で人に迷惑をかけないように、といわれて育った。時と場所を考えろ、と。そういう風に育てられた人は割合多いと思う。譲り合いの精神とかマナーというのも人に迷惑をかけないように相手を気遣っておこなう行為といえる。彼は自分の欲求を満たし誰かはそれに譲る。そこに双方向の、いわゆる会話は成り立っているのだろうか。そういう方法でしか要求できない彼も不幸だ。このような状態は共生社会とはいえないと私は思う。ガザ地区におけるパレスチナとイスラエルの関係のように。主張を突き立てあい、ハリネズミのジレンマの如くお互い傷つけあうのでなく、あるいは片方が譲るのみでなく、本当の意味での共生社会というのはどういうものなのか、と病院に向かうバス車内でずっと考えていた。

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2005年8月16日 (火)

「正しい歴史認識が必要だ」

マスメディアの中で全身の力をふりしぼって断言している人がいた。
でも正しい歴史なんて存在するのだろうか。

あるとするならばそれは誰が定めたのだろうか。親か?教師か?宗教家か?政府か?何故自分は正しいと思ったのか。どうやってその正しさを確かめたのか。本に書いてあったなら、その本の記述は本当に正しいか自分なりに調べたのか。誰かの言葉ならそれが正しいか考えたことはないのか。またその正しさを立証するものはなんなのか。

そう考えていくと、結局は自分が正しいと「思う」歴史しか存在しないことになるのではないだろうか。それは「正しい歴史認識」とは似て非なるものだ。なぜなら自分と他者とは(当然のことながら)違う人間なので同じ考えを共有することはほとんど不可能だ。そもそも同じような生育風土にいないと(水に対する認識がアラブと日本で全く違うように)難しいだろう。反証することができない(許されない)調査することもできない『正しい歴史』を喧伝されたとて、それは単なるプロパガンダに過ぎない。民主国家になればなるほど違う意見が存在し、互いの自由を認め合う。結局は自分なりの歴史観というものをきちんと調べて考えて構築するしかないと私は思う。人から聞いたのではなく自分で調べたから正しいと思わなければ、それは正しいと“自分なりに構築した”歴史ではなく単にお仕着せに過ぎないのではないだろうか。

本に書いてあることはすべて正しいからそれでいいって?でもねえ常々いうようにマトリックスはいつも我々を見ているのだから。そんなこといってると、ふと気づいたら自分の横に、ビックブラザーのポスターが貼ってあったりするかもしれないよ。

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2005年8月 8日 (月)

携帯から記事をUPできないのは何故?

14時頃から何度か携帯より記事を送信しているのですがまったくUPされてません。戻ってきてないし、メールアドレスにも間違いがない…。なんですかねこれ。

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2005年8月 7日 (日)

ブログ内ルールって俺様ルール?

自分のblogにある記事を書いたとして、そこに批判的コメントや批判的なTBがくる。それはweb上に公開している常として致し方ないと思う。で、そこでブログ主がどういう対応をとるかで、そいつが書いているブロクそのものを評価されてしまう、ある種値踏みされてしまうから恐ろしいことだ。

ある方のブログ記事において、その記事内容に批判的なコメントがついた。冷静な議論を求めているなら応じるべきだし、荒らしなら無視するってところでしょうが、そこで感情的にレスを返し、そのことでコメント主からより批判的なコメント、TBがくると一方的に荒らし認定し、コメントTBは全削除した挙げ句、運営側へ通報する。そして自分のブログ記事に批判的なTBする場合は事前に自分の許可をもらってからにしろ、とのこと。それってどうなのかね。しかもその一連の行為をブログ内ルールだから当然でしょと主張されると、どことなく居直りのような気がしてしまうのは私だけかしらん。なんにしろ、これからその人のブログを積極的にみたりコメントしたりしようとする意欲はかなり削がれる。それはなぜかと問われれば、ブログ内ルールといえば聞こえがいいがとどのつまりそれは俺様ルールであり、俺様ルールをてめえのブログ内において適用するのはアタリマエっちゃあアタリマエなのだが、それをあえて高尚な言葉で表現されてしまうと、俺様ルール適用時に漂う“ナニサマだてめえは”感をヘンに正当化する免罪符のような気がしてしまうからだ。ルール云々とご大層にいうのなら、この方ぐらい開き直ればいいのに。居直りより開き直りのほうが素敵。

画面上に表出される言葉だけのやりとりなんだから、コメントへのレスなどはやはり気を配るべきだし、批判的なコメントならなおさらだ。感情的にならないよう細心の注意は払うべきだろう。そういう努力を放棄し、無神経な言葉を返した上、相手が気分を害してコメントやTBを送ってきたら荒らしだなんだと騒ぎ立てるとするのはどうなんだろうと思った次第。まあ、2ちゃんねるに晒されて冷静な議論とはほど遠いコメントTBを鬼のようにされてから荒らしというものがなんたるかを知っても、そのときは遅いとは思うのだが。

ソンナコンナでこの記事も所詮、何野太郎兵衛さま宛というわけでもなく、いつものように一般論に見せかけた俺様意見でして、地球はいつでも青いわけです。よく知らんけど。

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2005年7月26日 (火)

3000円はどうでもいいが

アクセス解析を早く導入してほしいがためアンケート記入。
http://blog.so-net.ne.jp/blog_wn/2005-07-26

それにしてもご意見ご要望が半角400文字以内なのが辛すぎ。全角300字以内だったらもう少し書き込めたのにな。残念。

 

 

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2005年7月24日 (日)

赤黒く沸騰する憎悪(または汝の敵を知れということ)

ここのところずっと鬱々としている。こういうとき私にとっての唯一の対処療法といえば、ビーズやったりなんなりととにかくひたすら手先を動かすこと。外へ出たり、あるいは誰かとコミュニケートすることが非常な苦痛となってきてしまっている今。ほとんど誰とも連絡を取らなかったりして不義理をしている。状況は割と逼迫しているのかもしれない。記事を書くので精一杯だ。そんなわけでコメントレスが遅れてしまったりします。大変申し訳ないです。ではなぜそんな状態なのに記事を書くか。まあ一種、書くことによって他者とコミュニケートできている『気が』するし、冷静に自分を見つめる結果にもつながるからであって、つまりこの地雷のようなエントリーにぶちあたったアナタが不幸であるというわけ。誠にご愁傷様で御座います。閑話休題。

離人感がより非道くなるのも今のような状態の時だ。鈴木いづみは小説「ハートに火をつけて」の中で“おそらくいまは無感情に人が殺せる”と離人感について端的に的確に述べているが、いままさにそんな感覚のただ中にいる。感覚だけでいえば、おそらく、いま自分の胎児を引きずり出して焼いて食うことも可能だろう。それほど無感覚なのだ。なににたいしても。おそらくこれは普段暴力的にわき起こる衝動と、どこか対になっている気がする。

例えば

朝、自転車を走らせ、仕事先へむかう。流れる曲はマディじゃなくてカップスのモジョ・ワーキンだったりする。あのへたくそなボーカル(明るいけれど深みがない)が耳の中へシンニュウしてくるたび、意識のそこのほうから沸々とたぎってくるのがわかる。唐突で圧倒的な衝動。手のひらに置いた石を粉々に砕きたいという暴力への希求。ぎりぎりと歯噛みし、喰らいついた喉笛からの鮮血をすすりたいという欲望。激しく強い渇望。
一呼吸おく。自転車を止めて、周囲を見回す。生ぬるいアクビをもらす、よれたスーツ姿の親父。湧き上がる殺意はなぜだろうか。自転車を走らせながら、すれ違う人びとを無差別にひいていきたい欲求に駆られる。おさえるのは、一苦労だ。

この手の圧倒的で滑稽な感情は、自分がどん詰まり感のただ中にいるときより強く感じる。自身の敵というのを正確に絞れない苛立ちが無差別に発露しているに過ぎない。このような感覚は10代であれば容易に感ずることだろう。日常的に。そういう意味で体力暇精力の三大必要十分条件がありあまっている世代でもあるし。表面的にはあっさりしているかのように見えるヤツほど、欲求は地下に潜りゲリラ活動をしている。そこで倫理規範をもちだして云々することは無意味だ。なぜなら彼らはそれがわからないのだし理解できないからこそ衝動にのたうちまわっているのだ。外へ向かうか内へ向かうか。赤軍的地下ゲリラ暴力のあけくれであればあるほど、いったん衝動があふれたときの反動が大きい。普段から小出しにしているヤツの方が『ほど』や程度をわきまえており、つまりは衝動を飼い慣らせている状態になっているからあまり切羽詰まった状況にはならないと思う。わたしはどうだったか。当然、飼い慣らせてなどいなかったから、随分痛い目にあったし、厳しい局面を迎えてばかりいた。齢20かなり後半台に突入せんとするあたりからようやく折り合いがつけられるようになってきた。だからアナタも生き抜いて、なんてお為ごかしはいっさいいうつもりはない。昔からの持論だが死にたきゃ死ねばいいし、おまえさんの勝手だよ、ということです。ただそういう衝動なりなんなりに身体を乗っ取られ自意識を失うというのは非常にみっともない。自意識を失った状態というのはハタから見て醜く、冷静に考えればその状態になりたいヤツなんぞいないと思う。狂人しかり、メロドラマ的主人公しかり、マルチ/ネズミ講の販売員しかり、カルト的宗教しかり。やってる当人はチンポ汁ダダ漏れイキまくりヌキまくり状態で非常な悦楽の極北でしょうけど。

で、その状態を迎えないためにはどうすりゃいいかってことですが、つまりは汝の敵を知れ、ということです。阿部薫じゃないが「なにが自分の敵かわからないから」やみくもに時計じかけのオレンジ暴力へと突入していったりする。敵が誰だかわからないから体制側の誘導にあっさりとのった挙げ句、てめえでてめえの体を切り刻んだり練炭抱えて山奥までドライブするハメになるんじゃないすかね。自意識の喪失とヒロイズムとその陶酔はだいたい近親相姦関係にあるので、どれかに絡まれるとボッタクリバーに迷い込んだ電車男みたいなもんで、あっさりとなにもかも全て捧げることになる。

目の前でナイフを研いだりあるいは「雨に唄えば」をハミングしながら浮浪者をぶん殴ったりするのは、すでに搾取されているのと同様であるといえる。誰に?君を長いこと飼い慣らして生かさず殺さず搾取し続けようとする敵に。敵の命ずるままに誰かを殴りつける前に、まずはその声の主を確かめるべきではないか。マトリックスは常にお前を監視しているんだし。ね。

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2005年7月16日 (土)

嗚呼長溜息

ここのところずっと調子がよいもので、gooへ移行しようという気が全くなくなりました。がびょーん。不実な男に尽くすのがどうにも習性なのかしらん。目指せ負け犬脱却。

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2005年7月14日 (木)

つくる会書籍廃棄訴訟、逆転勝訴か!?

つくる会書籍:廃棄訴訟、東京高裁に差し戻す 最高裁

千葉県の船橋市立西図書館の蔵書だった著書を捨てられ精神的苦痛を受けたとして、作家の井沢元彦氏らと「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーら7個人1団体が、同市に1人当たり300万円の慰謝料の支払いを求めた訴訟で、最高裁第1小法廷(横尾和子裁判長)は14日、原告の請求を棄却した1、2審判決を破棄し、審理を東京高裁に差し戻した。

判決は「著作者には公立図書館で自分の思想や意見を市民に伝える法的利益がある」との初判断を示し、市による利益侵害を認めた。差し戻し後の審理で、慰謝料額が算定されることになる。

1、2審判決によると、同図書館では01年8月、つくる会や会員らが編著した107冊が、市の廃棄基準に該当しないにもかかわらず処分された。原告らは「つくる会に対する思想差別を背景に、会と関係があるとの不当な理由で廃棄された」と主張。「憲法が保障した表現の自由に基づき著書が公正に閲覧される権利や、図書館利用者への思想表現の伝達を不当に妨害されない著者の権利を侵害された」と訴えた。
市側は「市民の閲覧権侵害には当たるが、著者の権利侵害にはならず、原告への賠償義務はない」と反論した。
第1小法廷は、公立図書館を「住民に資料を提供してその教養を高めることを目的とした公共の場」と位置づけ、職員が独断で資料を廃棄することは職務上の義務に違反すると判断。そのうえで「表現の自由は憲法で保障された基本的人権であることも考えると、著作者が公立図書館で思想や意見を伝える利益は法的保護に値する」と述べた。
1、2審は書籍を廃棄した図書館職員の行為を「許されないもの」としつつ「著者には図書館で著書を市民に閲覧させる権利はなく、廃棄されても市の法的責任は追及できない」と判断し請求を棄却。職員個人に対する上告は既に最高裁で退けられている。【木戸哲】

▽船橋市の話 判決内容を十分検討したうえでコメントさせていただきたい。

 ◇解説=公立図書館の役割重く見るこの日の最高裁判決は、公立図書館の役割を重視し、作家らに公立図書館で思想や意見を伝える「法的利益」があるとの結論を導き出した。公立図書館の職員が不当に蔵書を廃棄した場合、閲覧権という市民の権利侵害が認められる可能性は高い。だが、今回の訴訟は著作者が起こしたもので、所蔵された書籍に対し、作家らにどのような権利や利益があるかが争点となっていた。著作権法上は、出版・流通した後の書籍そのものに対して、作家らの権利は原則的に保障されていない。今回のケースでも、図書館に購入された書籍の取り扱いについて、法律が認めた権利はないといえる。この日の判決も1、2審同様、著作者らの「権利」の侵害を認めたものではないが、利用者の知る権利を重視。著作者から見た場合には、公立図書館で思想や意見を伝達する「利益」を認め、著書の大量廃棄は不当な利益侵害と結論付けた。こうした利益の侵害は、図書館側の不当な廃棄があって初めて認められるものだ。公立図書館に、著書の厳密な取り扱いが求められるのは言うまでもない。【木戸哲】

毎日新聞 2005年7月14日 11時32分 (最終更新時間 7月14日 13時27分)より


差し戻しと言うことは、逆転勝訴の可能性が非常に高いということですな。市も賠償金を払うハメになったのは、このバカな司書のせいということで諦めるがよろし。
しかしこの司書、焚書坑儒って言葉の意味、知っているんですかね?もしホンカツの著書かなんかが「誤謬を訂正しない」とかいう理由で廃棄されたら、きっとものすごい抗議が起きるんだろうなあ、とぼんやり思ったり思わなかったり。
つくる会の著作が正しいかどうかなどという点についてはここでは触れない。ただこれだけは強調したいのは、どんなに正しいと思われることであれ、そのことだけを教えることを強要するならそれは思想統制であり、洗脳である、ということ。常々子供に選択させることが大事、などど述べているどこかの新聞は、こういう焚書坑儒のあからさまな例については全く触れていないようですが何故でしょうか。教科書採択の件でもそうだけれど、自分たちが教える内容が正しいと信じるなら、異なった考えを教えても問題ないでしょうに。なぜなら正しいならその考えに行き着くはずなんだから。どんなに弾圧しても民主主義の目をつむことはできない、とか。まあそれはおいておいて。
左だろうが右だろうか、公共の場所において、その著作を閲覧する権利を勝手に剥奪することは、許されることではない。言論の自由、思想の自由、それらを閲覧し考える自由を剥奪する権利がどこにあるのか。私は、もしこれがホンカツの著作でも同じことをいう。なぜならば、そんな風に言論統制する権利は誰にもないはずだし、それは某大新聞が(自分たちが戦時中率先して行っていた事実は目隠しして)常々言う「大本営発表しか許されなかった時代へ戻ってはいけない」その、まさに逆をいく行為に他ならないからだ。自分の思想と同じだろうが違かろうがここは公共の場所であり、その本の購入資金は税金なのだ、という自覚があからさまにかけている。その分別のなさにひたすら鼻白む思いだ。公共の図書館と自分の本棚の区別すらついてない。こういう人はきっと職場からボールペンとかもってくるタイプだ、なんていうと乱暴に決めつけ過ぎなどと批判されると思うが私は乱暴勝手な低知能者なので言い切ってしまうわけです。まいったか。
とにかく今後こういうことが起きないことを、この最高裁の判断がでたことで確信できればいいが。さて。これは「産経新聞と自由主義史観市議の陰謀だ」と主張する市議もいることだしなあ。
で、この船橋市図書館で宇野正美の図書について検索したところかなりの数がヒットしました。不思議だなあ。あからさまなトンデモユダヤ差別本は平気で閲覧可にしておいて、つくる会関係の本だけ廃棄ですか。基準が全然わかりませんね。

※あとででてきた情報によると、この司書さん、自分の書いた絵本を船橋市にある図書館に買わせている?ようですね。
http://www2.lib.city.funabashi.chiba.jp/cgi-bin/detail?biblioid=250183217&type=0&count=10&before=select
寄贈かもしれないのでアレですけど(寄贈だとしても、宣伝行為ともいえるしなあ。それはそれですごいかも)、船橋市全体で35冊、その中で、北図書館に10冊など、ちょっと不透明ですな。そんなに読まれる絵本なのだろうか。そもそも少子化の時代に、こういっちゃなんですけどあんまり有名でもない方が10冊っていうのは解せない。「エルマーと竜」やかこさとし(て古いな)ならまだしも。まあひょっとしたら絵本業界では超有名人で谷川俊太郎先生以上なのかもしれないですね。勇気りんりん瑠璃の色。

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2005年7月11日 (月)

自虐の昏い歓び

よくいるんだよね。まあダメ男なんだけどさ。どこがいいってわけじゃないんだけど、とにかく長年の付き合い、というか。ウリがないのがウリ、みたいな感じで。でもさ、コイツ、何度も何度も突如連絡とれなくなったり、金ふんだくったり、まあ非道いわけ。そのわりには、次に会うときシレっとした顔で、なんでもなかったかのように接してきたり。どうしてよ?なんでこうなるの?とか聞いてもなしのつぶて。(最近はどうしてそうなったか一応教えてくれるようになったけど)あーもうコイツとはだめだな、と見限ろうとした時に限って「なんでこうなるのかよく考えたから」なんていいだしてさ。そうされるとホロっとして、もう少し続けてみようかななんて情がわいてしまったり。ああつれない男ね。イヤになるんだけど離れがたい。なんでこんなのに惚れたんだか…。

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2005年7月 8日 (金)

ホテル・ルワンダ公開運動、ついに署名運動開始!

経緯はコチラでご確認下さい。
6/28付け記事:『ホテル・ルワンダ』を日本で公開させよう
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-06-28-1

※ホテル・ルワンダ
1994年ルワンダで起きた対立部族間同士―多数派のフツ族が少数派のツチ族を大虐殺した事件を背景に、外資系ホテルの支配人であるフツ族出身のポールがツチ族出身の妻、妻の親類知人、あるいは彼を頼ってきたツチ族の難民(総勢1200人)を助けるために知力賄賂などあらゆる手段を尽くして「戦う」姿を描いた作品。日本ではルワンダという国の話など公開しても採算がとれないなどというような理由から配給されない状態にある。映画とあらすじについてはここでどうぞ。

以前紹介いたしました『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会が遂に動き出しました。署名活動開始です。専用用紙は↓こちらからダウンロードしてください。プリントアウトした上で求める会まで送付下さい。
http://rwanda.hp.infoseek.co.jp/signature.html

この作品には、ハリウッドがお得意の派手なシーンも大活躍する白人も登場しません。アクションスターもでてきません。世界に見捨てられたルワンダ、その混乱にあっても全ての人間が良心を捨て去ることはなかった、人間の尊厳が魂が、確かに息づいている作品であると、私はおもいます。こうして概要でしかその作品に触れることが出来ないのは非常に残念です。

『ホテル・ルワンダ』が上映できるかどうかは皆様のお力にかかってます。ご協力下さい。大変お手数かとは存じますが、どうか、署名くださいますよう伏してお願いいたします。

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メンテ記録更新中

http://blog.so-net.ne.jp/blog_wn/2005-07-08

統計とってないんでわからんちんですけど、おそらくこんなに延々と2週間近くメンテ連続で行っているブログもない気がします。閲覧数激減。そりゃそうっすよねえ。おかげさまでたっぷり休暇頂いておりますけども。ありがたくて涙でてPCがよくみええねえや。ちきしょうめ。

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2005年7月 5日 (火)

まあもういいですよ

とにかく表示されないときは寝て明日の復旧に備えます。

 

おきても復旧してなければまた寝ればよし。

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2005年7月 3日 (日)

今回のメンテ騒動に対するSo-net様からのお返事

今回のメンテ騒動の件、正式サービス導入が6月下旬とのことでしたので、それと絡めて問い合わせてみました。以下がお返事です。

So-netインフォメーションデスクです[案件番号5847759]

So-netインフォメーションデスクです。再度ご連絡いただきまして、誠にありがとうございます。

先月6月30日のメンテナンスに関しまして、予定しておりました不具合の修正に予定しておりましたメンテナンス期間を大幅に延長させていただくこととなり、ご迷惑をおかけいたしまして誠に申し訳ございません。 今回のメンテナンスに関しましては、システムの安定稼動を目指し、サーバの増強とデータベースの入れ替えを行わせていただいたものとなります。 本格的なサービス開始にあたる段階のひとつとして、今回のメンテナンスを行わせていただきましたが、サービス開始時期に関しましては、現時点では明確な時期をご案内いたしかねる次第でございます。 誠に恐縮ではございますが、ご確認のほどよろしくお願いいたします。

 ※以下、長文となりますため、一部省略いたします。
----- Original Message -----
> 下記内容のメールありがとうございます。
> その上で質問なのですが、6月下旬頃恒久的な本格サービスを開始するということだったそうですが、
> それはいつ頃になるのでしょうか。
> 今回のメンテナンスはそれに関係しているのでしょうか。 ************************************************
So-netインフォメーションデスク 担当

なるへそ。データベースの入れ替えでコメントだのなんだのが吹っ飛んだということですね。しかしサービス開始時期が未定か…。今後もまだまだ苦闘は続くようですな。お互いに。

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2005年6月30日 (木)

メンテ終了後にコメント削除

サーバーメンテナンス終了後確認しましたところ、せっかく頂いていたコメントが、削除されてます。

おそらく6/29 3時以降に頂いたものが削除されていると思われます。
レスを返さないうちにこの様な事態となったことを深くお詫びします。

 

私事ですが、どうやら子宮系の病気に罹患した様子。今年前半からなんか調子悪いなと思っていたらこの始末。
手術等あるやもしれませぬ。レスは遅れがちになる恐れがあります。
本当に申し訳ありません。

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2005年6月28日 (火)

残された時間は

野良にしては驚くほど愛想がよいこのコ。人通りが激しかろうが頓着せず好きなように眠る。
なにかの病気だろうか。寝ていてもおなかがべっこりと凹み、腰骨が飛び出るほど痩せている。こうして無防備に寝ている姿をみるとなにかしてやりたくなる。しかしウチのマンションはペット規制があり、一匹しか飼えない。すでにもう飼っているので、このコをつれていくわけにはいかない。
東京は36.2度。6月の最高気温、42年ぶりに記録更新された暑さ。わたしは汗を雫のようにたらしながら、そばにいた。せめて誰かがいたずらしないように見守りたかった。なにも出来ないなら、その痛みを自分のものとしたい。
穏やかな寝顔だが、時折体が痙攣している。わたしは耐えられず牛乳を買い、あたえた。歯が悪いのだろうか。少し舐めた後にしきりに歯噛みをし、嫌そうな顔をした。それきり後ろを向いてしまった。舐めとる体力も、もうないのかもしれない。

この猫に残された時間は後どれくらいだろうか。

その最期の時もきっとこんな風に安らかな顔をして逝ってほしい。
今度は生まれてくるときは幸せにね。

わたしは傍らに立ち、体に打ち込まれる痛みを意識しながら、じっと見つめているしかなかった。 

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2005年6月22日 (水)

一日の閲覧数4000を超えました(また閲覧数がおかしいわけですが)

瑠璃子
プロフィール
nice! 記事 総閲覧数
587 386 今日: 3001 / 累計: 395615

14:10現在でこの数字は新記録です。どこに晒されたんでしょうかガクブル(テキトウ)

※15:40現在3300。本日中には4000逝きますかねえ。

瑠璃子
プロフィール
nice! 記事 総閲覧数
587 389 今日: 4012 / 累計: 396626

※20:31現在、4000を超えております。新記録ですワーイ(ナゲヤリ)

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2005年6月21日 (火)

What's new?から項目が消えましたな

5/20のスパムブロック機能のお知らせだけですね。(私ゃ使ったことないんですけどこの機能)て、ことは…そろそろ…正式版がリリースされる準備なんすかねえ。期待しないで適当に待ってますけど。

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2005年6月16日 (木)

私の批判記事に対する回答―冷静な議論とは何か

まずは以下の記事をお読み下さい。
ジェンダーはフリーになるのか―ジェンダーフリー理論の曖昧さ(1)
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-05-31-3
男でも女でもなく私は遠くへいきたい―ジェンダーフリー理論の曖昧さ(2)
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-06-02

上記記事に寄せられた反論記事はこちら(macska氏)
ジョン・マネーの正体、実は「アンチ・ジェンダーフリー」派
http://macska.org/index.php?p=90

未読の方は大変お手数ですが、以上3点をまずお読みになってから、以下の記述にすすんでください。

まず、反論記事ですが、私の名前が間違っているのは置いておきましょう。ちなみに留守番の「留」じゃなくて瑠璃色の「瑠」です。通常るりこを変換すると“瑠璃子”になるんですが、まあ変換ソフトもさまざまなので(IMEとATOKで動作確認済み)。

記事を参照しつつ、問題点を列挙していきます。(引用部分は赤字で記します。)では冒頭部分から。

まず上から順に取り上げていくけれど、「マネーの理論をフェミニズムが同意したことはない」とまではわたしもさすがに書いていない。

私が「ジェンダーはフリーになるのか―ジェンダーフリー理論の曖昧さ(1)」という記事の中でとりあげた、この批判に該当する部分は「ブレンダと呼ばれ少年の政治利用は間違い」http://macska.org/index.php?p=84の記事とコメントです。以下はその引用。

しかし、言葉の意味すら確定されていない「ジェンダーフリー」はともかく、ジョン・マネーの理論がフェミニズムの「理論的支え」であるというのはもちろん間違い。性別という現象が単に生物学的に説明できるものだけではないことはマネー以前からもフェミニストだけでなく文化人類学者や社会学者らに認識されており、マネーが行った最大の貢献というか影響は「生物学的性差=セックス」から区別されたモノとして「ジェンダー」という言語学の用語を援用したことだけれど、仮にマネーがいなくても別の言葉が考案されていたはず。

で、これをうけて、私は前掲した自分の記事の中で

マネーの理論をフェミニズムが同意したことはない、そもそもマネーはフェミニズム嫌いだった、と書いている人がいたり。

としたわけである。語弊があるというなら訂正いたします。失礼いたしました。申し訳ないです。
ただその上であえて書き続ければ、マネーの理論は直接的にはフェミニズムと無関係であったということだけれども、その「ジェンダー」という用語をうまく拡大利用して社会構築的立場を宣伝してきたのではないだろうか。双子の症例を上野千鶴子教授のように理論補強に使ってきたのではないのか?ミレットやファイヤーストーンという方の文章を提示されているが(ケイト・ミレットは1970年に刊行された「性の政治学」でマネーが1950年代に書いた論文「心理・性的分化」を引用してますね。)私はマネーを、その双子の症例と性心理の中立説を利用したフェミニストについて言及しているのであって、それ以前にジェンダーについて言及した研究者の話を引用しても、それはあまり意味がある行為とは思えない。なにか齟齬があるようなので再度書くが、私はマネーがジェンダーという理論を構築した、とは全く書いていない。いままでボーヴォワールなどが提唱していた理論を補強するためにマネーの“症例”を引用していたのではないのだろうか。(彼自身の信条考えなどはおいておいて)そしてそのことと―理論補強に双子の症例を引用した、ということと、ジョン・マネーはアンチジェンダーであった(ちなみにこの「ブレンダと呼ばれた少年」にも、彼がアンチジェンダーフリーとでもいえるような信条の持ち主であったことは書かれている。)ことはどういう関係性を生じているのだろうか。そもそも私はマネーの理論とフェミニストの関係性については言及しておらず、マネーの“双子の症例”を自らの理論補強に引用したフェミニストについて言及しているのだが。であるので反論記事にある以下の箇所も的外れといえる部分といえる。

保守派の論客はどういうわけだか気付いていないようなのだけれど、「男は男らしく、女は女らしく」という主張とマネーの理論は必ずしも矛盾していない。ただ単に、その人が男なのか女なのかは生物学的な性と一致しているとは限らないとマネーは言っているだけだ。すなわち、マネーの理論は「ジェンダーフリー」ともフェミニズムとも無関係であり、ただ単に「性同一性障害」の存在を医学的に説明するだけのものでしかない。

とゆーかさ、それぐらい自分たちで調べろよ、保守論者たち。
2002年にもなってマネーに騙されたままの上野教授と同じくらい怠慢だぞ。

保守派の論客といっても、西部邁氏や小林よしのり氏というような親大陸派から西尾幹二氏といった親英米派のような方まで幅広い。(フェミニストの論客と同様に)ジェンダーの定義などに関してはかなり詳細な定義付けをこちらに迫るのに対し、「保守論者」というあまりにも大雑把なくくりをご自身で用いられるのはいかがなものか。であるが故に、どの保守派の論客と思われる人物が、どう気づいていないようなことをいつ述べたのか、その実例をあげていただかないと失礼だが同意はしかねる。そして無関係であるものを流用し自らの理論補強にしていたフェミニストたちは、そのことをどう総括されていたのだろうか。もしそのことをご存知ならご提示いただきたい。私自身の勉強になります。それとフェミニズムの理論はともかく、現実の日本のジェンダーフリーの動きについて、どう考えているのか。自治体でジェンダーフリー政策をすすめているところは多い。例をあげるならば、学校で名簿順を男女別ではなく単なる五十音順に変えたり、トイレの表示を男女差のないような形にしたりといったことや、あるいはこの記事でも触れたが、香川ジェンダーネットなどで「0才からのジェンダー教育推進事業」としてワークショップなどを開催している。彼らがどのような理論を元に事業を進めているのかは正確にわからないが、結果としてその症例に依拠して勧めているということになるのではないだろうか。mascka氏がいうように『言葉の意味すら確定されていない「ジェンダーフリー」』という概念を行政側が積極的にとりいれていることに問題はないだろうか。確定されていないならば自治体がおのおのの解釈で事業を推進していることになるからだ。それは行き過ぎではないだろうか?

私自身、今回ご指摘をいただき、よく読み返せば、記事を書いた当初、ざっと読んでしまったために誤読してしまった部分があります。そのことは心からお詫びいたします。「読んでないのがまるわかり」と書いてしまったYOKOさま、大変失礼いたしました。申し訳ありません。
そしてその上で問題点を指摘したいのだが、

じゃあ Yoko さんが何を言わんとしていたかというと、産経新聞などが盛んにコランピント氏の肩書きを「ジャーナリスト」と紹介することに対し、あれはジャーナリストなんてモノじゃなくて単なるフリーランス・ライターであるという部分を強調するために、「そもそもあれは基本的に音楽雑誌でしょ」と指摘しているのだとわたしは解釈している(もちろん音楽分野専門のジャーナリストというのだっているだろうけれど、この場合それにも当てはまらない)。しょうもない揶揄と言えばそうかも知れないけれど、「こんな話題を取り上げるわけがない」と言っているわけではないという点ははっきりしている。

果たしてジャーナリストとフリーライターにどのような差があるといいたいのだろうか。その部分が私には全くわからない。ジャーナリストよりもフリーライターの書くものが価値が低い、ということなのだろうか。それは職業差別ではないだろうか。そういうことで揶揄するというのは自らの言説を下げる行為ではないだろうか。ジャーナリストと名乗る連中もいかがわしいものは多い。なにせ高級紙よ日本の良識を代表する新聞よと自負する某新聞は、捏造、誤報で他紙を大きく引き離すアリサマなのだから。

次、留璃子さんは「本書を読めばわかるのだが、上野千鶴子は自らの理論補強に双子の症例を引用している」と言うのだけれど、そんな事分からない。わたしの持っている版(米国ハードカバー版)にはそんな話書かれていないし、あの記事が書かれた時点で入手可能だった日本版にだって多分載っていないはず。おそらく、新版の「解説」あたりでそう紹介されたりしているのかも知れないけれど、コラピントによる本文に書かれておらず、つい最近発売されたばかりの最新版にしか載っていないような事を当たり前のようにして「本書を読めば分かるのだが」と言わないで欲しい。

この箇所がどうにも理解できなかった。なぜなら私がアノ記事を書いた時点で一般書店に該当記事文中で本書とした「ブレンダと呼ばれた少年」は流通していたわけで、(現に私は飯田橋にある書店で購入した。)容易に手に入る状況であった。ここで本書といっているのは、冒頭にも提示している通り、扶桑社から出版された「ブレンダと呼ばれた少年」なのだから。私が買った本屋では立ち読みが出来るぐらい平積みされていた。私が、日本の東京というところで暮らしているのは、おそらく他の記事などを読めばわかる(新聞記事として引用している多くは東京版)わけで、ならば、“いまここ”として定義しているのは当然ながら日本の東京ということになる。そういう意味で今後は「私がどこにいるか」を明記しないといけないかもしれないけれど。この記事を書いているのは日本の東京です。

それから、上野さんが引用したから何なんですか? よく分からないのだけれど、フェミニズムというのは上野千鶴子をトップとするピラミッド型の組織か何かとでも考えているわけ? そりゃ確かに、マネーの報告は大々的に宣伝されたから、間違ったことを事実と信じ込んでしまって引用した人は上野さんに限らずたくさんいます。どこかで読んだ話によると、上野さんは2002年に出版された本で未だに「双子の症例」を引用していたそうだから、それは研究者として確かに怠慢かもしれない。でも、そうした責任は上野氏本人に問えばいいわけで、わたしに言われても困るのね。そりゃもし、上野さんが「マネーの双子の症例なんて一度も使用したことがない」と言ったら問題ですよ。だけど、上野さんがマネーを「引用した」ことについて、上野さん以外のフェミニストの責任を問おうとする留璃子さんの論理は、いくら「素直な感想」とはいえ無茶苦茶。

先ほど、「こんなこと私はいってない」とmacska氏に批判されたが、返す刀なようで非常に恐縮する。私は上野千鶴子教授がこの双子の症例が明らかに間違いであったことが1997年にダイアモンド博士の論文により明らかになったにもかかわらず、2002年に出版された「差異の政治学」の本でも、双子の症例を引用しているから問題としただけである。それがなぜ上記のような記述に変化するのか。非常に理解に苦しむ。私の記述のドコに「フェミニズムというのは上野千鶴子をトップとするピラミッド型の組織か何かとでも考えているわけ?」という部分に該当する記述が私の記事文中のどこにあったのか、指摘していただきたい。そして上野千鶴子氏をなぜとりあげたかといわれたら日本では非常に有名な論客であり、日本でイチバン難しいといわれる大学のひとつで教授をなさっており、そしてその立場でマスメディアに登場し言説を展開されているからだ、ということがいえよう。そしてなにより、先に述べたとおり、2002年になっても、双子の症例が明らかに間違っていたことがわかった後でも、理論補強に使用してたことが明白だからだ。「わたしにいわれても」、とおっしゃるが、私は上野千鶴子教授に問題だといっているだけである。それこそ本書―「ブレンダと呼ばれた少年」を読めばわかるのだが。その上で私が総括すべきというのは記事文中

少なくとも、過去の著作において双子の症例を引用し、理論補強に用いたジェンダー論学者は、自己批判するか総括はすべきだと思う。それが都合よく政治的に利用され続けたブレンダ/デイヴィッドに対する責任であると私は考えている。

にもあるとおりである。これのどこが無茶苦茶なのだろうか。この文章の中で、無茶苦茶とmacska氏が思われる論拠をよろしければ提示いただきたい。私は「過去の著作において双子の症例を引用し、理論補強に用いたジェンダー論学者は」と定義している。macska氏が意図的かそうでなく誤読したのかは不明だが、定義している以上、それ以外というのは誰をさしていると思われているのだろうか。そして上野氏以外の「双子の症例を引用し、理論補強に用いたジェンダー論学者」に自己批判と総括を求めるのは、「都合よく政治的に利用され続けたブレンダ/デイヴィッドに対する責任」であるとはmacska氏は思われないのか。この上野千鶴子教授の行為をmacska氏は如何お考えなのだろうか。正直、macska氏が「保守派の論客」とどなたかのイメージで語られるのと同様に、フェミニストの論客という形で上野千鶴子教授をイメージされる方は多いのではないだろうか。マスメディアへの露出も多く、著作も多い。社会に対する発言力も大きいといえる。そういう意味合いでは彼女の誤謬は非常に責任が重いのではないだろうか。それこそmacska氏が「保守派の論客が」とおっしゃられたように「だからフェミニストは」という十把ひとからげに扱われかねない。そのことに対し、フェミニストの方々はなにか行動を起こされないのだろうか。例えばジャーナリストの本多勝一氏の著作に誤謬が見つかった際、彼のファンであった方が公開質問状を出している。そうしろとはいわないけれど自らの運動に信頼性をもたせるためには、そういった行動も必要とはいえないだろうか。

そして最後にどうしてもこれだけは指摘しておかねばならないだろう。

えぇぇぇーっ、ゲンロンのジユウですかぁ? 最近ネット上でウヨク的発言する人たちの論法がかつてのサヨクのそれとそっくりであるという点は笑えるのだけれど、そういえば最近なんばさんに頼んで訂正してもらった「はてなキーワード」の「ジョン・マネー」の項の古いバージョンでも「フェミニストによって巧妙に隠蔽されてきた」とか「学会や出版界に圧力がかかり、ひたすら隠蔽されている」とか書かれていて、トンデモ陰謀論扱いしてしまったのだけれど、圧力があったという話は結構広まってる様子。しかし、「私個人の推測ではない」と言いつつどこにも何の根拠も証拠も書かれていないのが気になる。

そこで、「ブレンダと呼ばれた少年」に「圧力」「隠蔽」「検閲」みたいな単語を加えていろいろ検索して圧力論を主張あるいは宣伝しているページの記述をいくつか収集し、連絡先が分かる相手に対してはメールで「圧力論の根拠は何か?」「他の人から聞いたのであれば、どこの誰から聞いたのか?」と質問してみたのだけれど、これまでのところ回答は一切無し。この「言論の自由が勝った」を書いた TAKA さんという人は、「サヨク陣営」の圧力を批判する文脈で「多様な言論」の「ぶつかり合い」こそが必要である、とまで書いているのに、全然ぶつかって来なかった(笑)

結局ブログってのは、どこまで行ってもあらかじめ似たような意見の持ち主だけが集まるモノなんだろうか。これまでも何度か、意見が対立しそうなブログにトラックバックを送ってみたり、「ミーガン法」のまとめサイトでは「ミーガン法肯定派のまとめサイトがあれば相互リンクしよう」とまで言ったのだけれど、ほとんど何の反応もないんだもん。つまんなーい。

以上の箇所を読み、私は、申し訳ないが、反応を求めるにも、それなりの対応が必要であると、思われた。大変失礼ながら「最近ネット上でウヨク的発言する人たちの論法がかつてのサヨクのそれとそっくりであるという点は笑えるのだけれど、」とソースもなく提示されても、同意はしかねるし、このようなある意味挑発的とも思える揶揄(もしくはレッテルをはる)の仕方をされれば、冷静な議論を行いたいと思えなくなる恐れはないか。例えば、私の名前を記事文中において延々間違えていることでも、ある見方をすれば「冷静さを欠いている」(私の文章をよく読んでない、誤字をないよう自身が書いた文章を読み返してはいない)という指摘を受ける恐れがある。対話をしようと望むならそれ相応の姿勢がお互いに求められるのではないだろうか。「つまんなーい」という感情的とも受け取れる言辞をさしはさむ前に(つまらないというのは感情の発露といえる。相手の対応が面白いかつまらないかで判断すべきことなのだろうか)、自ら再考される余地があるように見受けられる。これは私自身にも言えることであるが。

長くなってしまったので、今回の訂正点、問題点を整理し列挙したい。

訂正点

・コメント欄の発言に対して「音楽誌でこんな話題取り上げるわけがない、と読んでいないことがまるわかりのものもあった」と述べた点について

・マネーの理論をフェミニズムが同意したことはないとmacska氏が記述したと読み取れるような文章を書いた点

以上の箇所についてはこの記事を持って訂正といたします。以前の記事にこちらのURLを添付し、もって修正とかえたい。

macska氏の反論記事中にある問題点

・マネーの学説は直接的にはフェミニズムとは無関係と言っても、その「ジェンダー」という用語をうまく拡大利用して社会構築的立場を宣伝してきたので はないか?双子の事案を上野教授のように理論補強に使ってきたのではないのか?

・コラピントについて、ジャーナリストとフリーランスライターをここで区別することにどのような意味があるのか。コラピントが信用するに足る人物ではないということか?

・「つい最近発売されたばかりの最新版にしか載っていないような事を当たり前のようにして『本書を読めば分かるのだが』と言わないで欲しい」とあるが、こちらではこの最新版が発売されたばかりで容易に手に入る。それ以前の版は絶版なのだからすぐには手に入らない(もちろん図書館等にいけばあるだろ うが)。今、入手できる最新版には上野教授が双子の症例を引用していることが明記されているのだから、「本書を読めば」と注意書きすることは問題ないのではないか?ここで本書と言っているのはまさしく発売されたばかりの最新版のことなのだから。

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2005年6月15日 (水)

愚弄するのもいい加減にしろ―高砂義勇兵問題

台湾原住民高砂族靖国騒動について、以下の新聞記事を読めば、かなり同情的な気持ちになる方も多いと思われる。

「合祀の霊、取り戻したい」=台湾先住民訴え-靖国での儀式できずhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050614-00000514-jij-soci

しかしそういうコチラの感情を逆なでするかのごとく、やはりこの運動の裏には中国のある種の動きがあった。

高砂義勇軍遺族を名乗る売名女。
http://blog.livedoor.jp/ese_sinsi/archives/25207058.html
台湾先住民族、贋遺族靖国騒動の真実
http://nishimura-voice.seesaa.net/article/4359673.html

靖国を訴えた台湾の女性国会議員の背後関係(在日台湾同郷会顧問の方のご意見です)
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2003/0309/ronbun1-1.html

われわれはいったいどれだけマスコミから愚弄され騙され続ければいいのだろうか。マスコミの本質が喧伝にあるとしても、これらの騒動を見ると本当にはらわたが煮えくりかえる思いだ。そしてやはりというか中国もこの動きに連動し、声明をだしはじめている。このタイミングのよさを思えばドコの指示によるものかがあぶりだされてくるといえよう。

私には台湾人の知り合いがいた。あちらでは少々名の知れた絵描きさんである。彼女は(といってもずいぶんお年を召した方なので以下Aさんとする)古くから台湾に居住していた方で、女学校時代ずいぶん中国系華僑にいじめられたという。どうにも耐えられなくなったAさんはツテをたどり日本に来、ある高名な詩人のお宅にて下宿生活をしながら、学校に通った。戦後台湾に帰った後も、彼女に対する弾圧は続いた。本省人としてのアイデンティティを保持するAさんは、中国は許せない、台湾は台湾だ、と私にいつも語ってくれた。父の事業に対する嫌がらせなど、本当に酷かったよ、と。結局Aさんは現在ほとんどを日本で過ごし、たまに台湾へ帰る生活をしている。蒋介石時代よりも今はずいぶんよくなったから帰りやすいよ、もう日本語の方が長いから、たまに台湾人と思われないよ、と私に微笑んだ。
Aさんはおそらく台湾でもかなりよい階級に属する方だと私は思う。その彼女でも、本省人であるということだけで、酷い目にあった、という。結局のところどちらがよりマシだったか、という程度の話なんだろうけれども、本省人と呼ばれる人々はいわゆる白色テロ、蒋介石時代の圧政よりも日本統治下の方がマシという意見も多いようだし、親日派も多い。高砂族は高砂義勇兵でも知られるように、日本人以上に大和魂を保持し勇敢に戦った。

いわゆる朝日的ジャーナリズムはなぜか台湾を軽視する。中国よりといわれるマスメディアは、なぜこのように日本にたいし良い感情を保持してくれている国をないがしろにするのか。一部の意見のみを伝えて、台湾のマスコミ報道の大勢を伝えず、さもそれが多数世論のように伝える。これが友好国に対する処し方か。今年は戦後60年。終戦の節目教科書採択の年でもあり、終戦日8/15までこの流れは加速し例年以上の過熱報道となるだろう。何百歩も譲って、生者であるわれわれはなんといわれてもいい。反論も出来る。運動も起こせる。だが反論も出来ない死者をこのように冒涜する行為はいい加減やめるべきだ。朝日に代表される一部マスコミは、苦しんで死んでいった人々を、国を守るために異国の地で死んでいった人々を何度憤死させれば気が済むのだろうか。

※西村氏のblogには「高金素梅は、靖国神社の取り計らいですでに魂を台湾に持って帰る儀式を行っていたのだ。」という記述があります。これを読む限り高金素梅という人物がどういう路線でナニを狙っているのかが透けて見えますな。
なお高砂義勇兵に関して知りたい方はコチラhttp://www.takashago.com/

ふと思ったんだが、この元高砂義勇兵の方々に対しなにか見舞金とかそういう募金は行っていないのだろうか。どこかで募集してないのだろうか。戦後、国籍が異なったため、あれ程勇猛果敢に戦ったにも関わらず軍人恩給ももらえない人びと。なにかしらできることはないのだろうか。

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青学ひめゆり「退屈」問題、総括すべきはどちらか(2)

前回「ひめゆりの語り部は無力なのか(1)」
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-06-14の続き

原文を見つけたの(リンク先参照)で訳してもらった。自分で訳そうと思ったのだが、スミマセン間違いがあるといけないので、一応本職(ミッチェル)にお願いしました。英語力にめっきり自信がなくなったのを実感。使用しないとまたたくまに失われるものなのね。閑話休題。

戦争が終わって60年たった。原爆も体験した我々日本人は戦後生まれであっても同じ過ちを繰り返さないよう訴えていく責任がある。しかし考えてみよう。もう60年もたっているのだ。戦争体験者も年々減少している。近い将来、戦争の直接的なメッセージを受け取ることができなくなるだろう。これからはどのように戦争経験を次世代に受け渡すことが可能なのだろうか。昨夏、忘れられないテレビ番組を見た。実際、とてもショッキングだった。第二次大戦末期の映像で、(中略)兵士の死体を隠さずにそのまま見せていた。私はそうした映像への心の準備ができていなくてチャンネルを変えてしまった。そうした映像は(相手に印象を与えるのに)有益になりそうだとわかった。ほかの多くの人たちも自分と同じように考えるだろうと思った。しかも驚いたことに、数日後、新聞で老婦人の投書を読んだ。「その番組を放送してくれてありがとう。我々はもうすぐ言葉で戦争を伝えることができなくなるけれど、言葉なしでも何かしら伝えることだってできる。我々は真実を示すことを恐れてはならない」とあった。それを読んだ後、私は自分の高校生の時の体験を思い浮かべた。

それは沖縄への修学旅行での出来事だった。滞在中、防空壕を訪れる機会があった。みな電灯を持ち、老ガイドについて壕へはいった。壕の中は暗く湿っていた。しかしそこは都会の子供たちの遊び場と化してきた。誰かが滑って転び、我々は声を上げてお互い笑っていた。(壕内での)声の反響を楽しんでいた。その時、老ガイドが言った。「よし。それじゃあ電灯を消して」。最後の光が消えると闇になった。声を発する者はいなかった。つまり、何も言えなかったのだ。「これが戦争だよ。この壕で我々が唯一望んだのは、戦争を生き残ることでした。私はもうこれを二度と経験したくない」。壕からの帰り道、誰一人として話す者も笑う者もなかった。外界の光を見た時にどう感じたか、完全に壕から出た時にどれほど神に感謝したか、私は今でもまだ覚えている。何人かの女の子が泣いているのも不思議に思わなかった。言葉は少なかったが、その(老ガイドの)経験が何を意味するかはわかった。そしてその時私は、なぜ老ガイドがツアーの間、あまり語ることをしなかったのか、を理解したのだった。

それから我々はひめゆり祈念公園へ移動した。壕のことは忘れかけていたが、あまり話すことができなかった。なぜなら、(もっとショッキングかもしれない)別の体験談を聞かねばならないであろうことを恐れ神経質になっていたからだ。そう、ひめゆりで生き延びた老婦人が我々に語ってくれた話はショッキングで、当時の戦争にたいして大いにイメージを与えてくれた。しかし、本当のことを言うと、それは私には退屈で彼女の話に飽きてしまった。彼女が話せば話すほど、私の壕内での強烈な印象が失われていった。私には、彼女は何度も何度もその話しをしており、話慣れているということがよくわかった。彼女の話は(母親が赤ちゃんに寝物語をするような)たやすいものに感じた。もちろん、友人の中には感動した者もいたから、彼女の話を無意味だと言うことはできないが。

 真実や経験を次世代に受け渡すのは重要な課題だ。しかしどうやって?何がベストな方法なのか?もちろん一番明確な方法は「言葉」だ。言葉の力は大きい。 しかし問題は、我々がそれをどのように理解するかである。もし聞く者が話者の考えを理解できないなら、どんなに良い話であってもただの言葉の羅列になってしまう。もうひとつの問題は、話者の意見(主張)があまりに強いと、それは異なったメッセージを与えるかもしれないことだ。昨年の中国でのアジア杯サッカー大会を覚えているだろうか?多くの中国人が日本チームにブーイングした。おそらく彼らの多くは戦争の話を親から聞き、日本人に対する独自の考えを作り出している。もちろん、親から受けとったそうした情報が誤っているとは言うべきではないけれど、親たちは子供にどのように正確に伝えたのだろうか?そしてどうやって?

すでに書いたように、もうすぐ我々は戦争の直接的なメッセージを聞くことができなくなるだろう。しかし、それに代わる方法はいくつかある。時には、言葉なしでベストなメッセージを送ることもできるのだ。もしあなたが青山学院高校の生徒になったら、修学旅行で長崎を訪れることになる。原爆を経験した人々の話を聞く機会があるのだ。その時、得られるメッセージはどのようなものだとあなたは思いますか?

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 問題1 下線部1(まだ第二次大戦は終わってないと感じる人々)に属するものではないものを選べ
 A 原爆で苦しんでいる人
 B イラクで戦っている人
 C 沖縄で基地周辺に住む人
 D サッカー大会で日本人にブーイングした人

 問題2 筆者はテレビ番組を見た時、どう感じたか
  A いくつかのシーンがかなりショッキングだった
  B フィルムが古くてクリアでなかった
  C 多くの人がその番組を見ているか自信がなかった
  D 戦争について考えたくなかった

 (問題3は穴埋めなので略)

 問題4 下線部4(「これが戦争だ」という老ガイドの発言)につながるものをえらべ
A これが戦争を生き延びるためにやったやり方だ
B これが戦争で経験しなければならないもの(こと)だ
C 平和な世界をつくるために一緒に戦おう
D この経験を使おう

問題5 なぜ老ガイドはあまり語らなかったのか
A 彼は疲れていた。たぶん高齢なのでガイドできなかった
B 彼はもともと無口な人間である
C 壕内で声を反響させていた生徒に不愉快になっていた
D 生徒にあまりに多くのイメージを与えたくなかった

問題6 壕を訪れたあとの筆者の考えでないものをえらべ
A 戦争は明確にイメージできる、とは思わない
B 防空壕にはいるってなんておもしろいんだろう!
C 言葉なしでも何かを伝えることはできる
D 多くの人に同じような経験をしてほしい

問題7 なぜ筆者はひめゆりでの話を好ましくおもわなかったのか
A すでにその話をすべて知っていたから
B それが嘘だと知っているから
C 老夫人が自分を子供扱いしたから
D 彼女の語り口が気に入らなかったから

問題8 老婦人の話を聞いた後、筆者はどのように感じることになるだろうか?
A 言葉は最も強力なものだ
B 言葉は決して有効ではない
C 言葉は弱すぎる
D 言葉は時には必要ない

問題9 サッカー大会での出来事について筆者の意見はなにか
A 中国人は歴史を変えようとしている
B 日本人は過去について中国人に謝るべきだ
C 我々は歴史を両側から考えないといけない
D 我々も中国人にブーイングすべきだ

問題10 筆者はあなたが入学後の修学旅行で何をすることを求めているのか
A 防空壕を探すために市内を注意深く歩きなさい
B 行き先を長崎から沖縄に変えてくれるよう学校に頼みなさい
C 聞く(ことになる)話について考え、自分なりの意味を見つけなさい
D 旅行後になんらかの反戦活動をしなさい


見てわかるように、個人的には、戦争体験を語り継ぐ重要性を語っており、視覚と言語の体験するその差について触れている。ちょっと読んだ限りでは、文章上特に問題は特にないかと思う方も多いだろう。だが内容に疑問点が本当にないか、あるいは果たしてこれが入試問題としてふさわしいかどうかとなると、残念ながら否といわざるを得ない。例えば「もし聞く者が話者の考えを理解できないなら、どんなに良い話であってもただの言葉の羅列になってしまう。」という箇所だが、これはわからないように話す方が悪い、ということにならないだろうか。聞き手に感動や衝撃を与えられない話し手が悪い、と。しかしそう感じられない自分にも問題があるかもしれない、とは思わないのだろうか。書いた人間の想像力が欠如していると思われる顕著な例だ。正直、このような壕で暗さを体験できることが実は稀であって、戦争体験を五感で感じるのは「戦後60年も」経てばかなり難しい。だからこそ、読み聞きした場合どれほどその事象を“いまここ”で起きたように感じられるか、その想像力が必要となってくる。この書き手にはそれが欠落しているように、私には思える。入試問題でこのような、教師のブンガクモドキを読み解く必要が果たしてあるのだろうか。五感と言語の問題というのは、昔から語り尽くされており(映画が流行るとブンガクが廃れるとかそういうレベルででも)、この分量で論述するのは無理だ。そしてなにより“戦争体験を如何に次世代へ伝えればいいのか”ということは、この文章のように五感と言語の対立図式にまで単純化して語れる問題なのだろうか。暗闇にいたら怖い、話だけ聞くのはタイクツだ、と直截な感想しかもてないことに疑問を感じないのか。私には書いた人間がある種の結論を既にもっていて、読み手をそこへ誘導しているように思える。特に中国のデモにつなげる辺りかなりあざといといわざるを得ない。ある種の示唆をしているのでは?と受け取られても致し方ないと思う。教師のイデオロギーというか思想というかそういうものを単にひけらかしているようにしか、読めなかった。

もっと端的に考えて、このような文章を入試問題とすることのメリットが私には思いつかない。論述するには分量が足りない。戦争体験を語る上で有効なのは“語り”か“直接五感に訴える”ことかなどということをこの文字数で言及できるのか。双方の良い点悪い点を列挙できるのか、出来ない以上ある種のバイアスをこの文章を読む人間にかけることにはならないか。入試問題はこのような問題を論及するにふさわしい場所であるのかないのか。設問の回答として「彼女の語り口が気に入らなかったから」が正解なのは(当事者が架空の人物でない以上)問題はないのか。公になった場合、この文章中で特定されている団体から抗議がくる恐れがないか、などなど、どう考えてもこの文章を入試問題として設定すると、デメリットばかりが浮かんでしまう。なぜこのような設問を青山学院が採用したのか理解に苦しむ。

この問題でとにかくいえることは、再三繰り返すが想像力の欠如、ということであると私は思う。こういう文章を入試問題として設定すればどうなるのか。そういう意味で結果を予測して行動できなかったのが非常に残念である。アタリマエの話だが、言説はふさわしい場所にふさわしく表出しない限り意味は持たない。どころか、このように大きな問題となる可能性もある。夏休みの課題としてこの文章を一例としてあげ、戦争体験について体験者に話を聞いて英文レポートにまとめろ、というのなら問題なく、むしろ大歓迎なのだが。(言語よりも五感が勝る、とするのも個人的にはどうか、とは思うがそこには触れないでおく)

ただ正直、知事があそこまで反応するのもどうかとは思うけれど。ある意味政治問題化しようとしているように感じられなくもない。それはそれで残念なことだ。(この項、後で文章内容を変更・追加するかもしれません)

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2005年6月14日 (火)

ひめゆりの語り部は無力なのか(1)

すでにかなり既出であろうが、看過できない問題なので。

ひめゆりの証言「退屈」/東京の私立高入試問題元学徒・研究者が批判 

東京の私立進学校、青山学院高等部が今年二月に実施した入学試験の英語科目で、元ひめゆり学徒の沖縄戦に関する証言が「退屈で、飽きてしまった」との英文を出題していたことが九日までに、分かった。生徒の感想文の体裁になっているが、教員が試験のために書き下ろした。元ひめゆり学徒らは「つらい体験を明かしている語り部をむち打つもの」と憤った。同校は「大変申し訳ない」と謝罪している。

                                                                    沖縄タイムス より

 

 以前少し書いたこともあるが、彼(ミッチェル)のご家族はひめゆり部隊に参加し亡くなった。ちょうど摩文仁海岸で下級生を連れて逃げていたとき。私はひめゆり平和祈念資料館で、彼女にお会いした。意志の強そうな眉が印象的だった。実は、ユタのお告げで、彼女は20歳前に亡くなると予言されていた。名前が一字少ないせいだ、ということだった。かなしくも実現されてしまったことをうけ、慰霊碑にはご両親の希望で、一字少なく彫られている。その慰霊碑も、わたしはみた。

戦後、収容所に生き残った元ひめゆり部隊の方が何度も見えられたそうだ。しかし遺族の顔をみると、真実が告げられなかったようで、そのままお帰りになった、という。そのため、彼女が生きていると思ったご両親は、しばらく、ユタのお告げをきいたり、不確かな目撃情報を元に、彼女を求めて東奔西走されたそうだ。ようやく、生き残った方から真実を聞かされ、ご両親は「ありがとう」とおっしゃられたそうだ。最期がわかってよかったと。
彼女の最期を教えてくれた方は現在、ひめゆり資料館で語り部をしてらっしゃる。先年訪問した際、私は残念ながらお話を聞くことはできなかったが、沖縄戦について、彼のご両親からかなり詳しく伺い、また資料もお借りし読んだ。だからといってなにがわかるわけでもない。ただそういう歴史があったということと、その中で死んでいった人々に思いをはせるだけだ。

歴史を考える際、いつも重要なのは「想像力」だ。そこでなにが起きたのか。人々はどうなっていったのか。現在の沖縄で、戦争の跡を見つけるのは、ちょっと見には難しい。しかし首里城近くをうろうろとすればまだ古びた弾薬が見つかったりする、あるいはえぐられたような傷跡が大地に残るのがわかるだろう。歴史は風化していく。しかし風化にまかせるだけでは、また同じことを繰り返す。去年、日本が津波対策の先進国として名をあげることができたのも、結局は過去を踏み台にしてきた結果に過ぎない。それはアタリマエであるが、過去を学習するには、得た素材を想像力で補うしかない。相対的にいって今回の出来事は想像力の欠如が生んだ事態ということが容易にいえると思う。

さて次回は実際に問題となった原文を訳したものを提示しつつ、この問題の原点―想像力の欠如について書いてみたい。

→青学ひめゆり「退屈」問題、総括すべきはどちらか(2)
  http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-06-15

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2005年6月10日 (金)

いい加減にしろよ朝日―ブラジルは果たして平和か

【天声人語】2005年06月10日(金曜日)

本名は、アルトゥール・アントゥネス・コインブラという。そのアルトゥールがアルトゥジーニョになり、アルトゥズィーコが簡略化されてズィーコ(Zico)になった。後に世界中に知れ渡るこの愛称を付けたのは従姉妹(いとこ)リンダだった(『ジーコ自伝 「神様」と呼ばれて』朝日新聞社)。

 監督・ジーコの声が、タイ・バンコクのスタジアムに響いた。からっぽの白いスタンドに囲まれた異様な無観客試合を見事に制して、日本代表が帰国した。

 サッカー・ワールドカップ(W杯)出場を決め、ジーコ監督は「日本に恩返ししたいと思っていた。それが出来て感激でいっぱい」と述べた。一時は、監督の進退を問う声もあがった。就任から1千余日、力を尽くし、ついに期待された結果を得たという思いが強いのだろう。

 時に、印象的な言葉を残す人だ。「我々がスポーツをしているのと同じ時間に、人が殺し合い、幼い子どもが命を落としていることを思うと非常にやりきれない」。一昨年3月、イラク戦争の開戦後に語った。「私はブラジルという平和な国で育ち、愛の大切さを教えられた。戦争の当事者たちに、愛と平和についてもう一度考えてもらいたい」

 「自伝」には、こうある。「(私を)どうか過大評価しないでほしい。私はサッカーが好きで、そのサッカーを続けていくために人より努力と犠牲を惜しまなかっただけなのだから」

 ジーコ流とはそれぞれが「個」を磨き続けることのようだ。世界からドイツの空の下に集う、磨かれた「個」の競い合いが楽しみだ。

                                 asahi.com より

前から捏造妄想が激しいと思っていたら、これだ。ミスリードを煽るためにここまでやるかと憤りを超えて静観の域にまで解脱できたよありがとう。
この天声人語については、ある方のブログ記事へのコメントで少し触れたのだが、それだけではどうにもおさまらず、別途記事にすることにした。本当に朝日は手段を選ばないな、と実感させられた。

前掲文章の中で、なにがそんなに納得できないのかといえば「私はブラジルという平和な国で育ち、愛の大切さを教えられた。」というジーコの発言箇所。平和?確かに他国とは交戦状態にはないけれど。平和かどうかはかなり疑問だ。どういう基準で「平和」としているのだろうか。それは彼にとって「ブラジルは平和」だろう。そして安全でもあると思われる。なぜなら彼はブラジルの英雄であり、途方もない金持ちだからだ。ブラジルでは安全は金で買うものであり、金さえあればなんでもできる。そういうところだ。

ではなぜここまで私が熱くなるのかといえば、ここで突然のカムアウト。実は私の家族、ほとんどがブラジルにいる。移民し、ブラジルにて日本料理店をやっている。(一族の中には立志伝中の人物もいて、地域の名前になっていたりする)サンパウロといった日系人が多い街ではなく、割と辺鄙だが風光明媚なところで。その平和なブラジルで私の家族がどんな思いで暮らしているか。それは単純に闘争の日々である。日本というのが如何に「平和」で穏やかな国であるかがよくわかると思う。

叔父がやっている日本料理店が強盗被害にあった。営業時間内に押し入ってきて客の金品を巻き上げ強奪する。当然捕まるが、強盗の家族が金をやるので、警察が逃がしてしまうのだ。そして味をしめた強盗は叔父の店へ繰り返し繰り返しおしいった。客からは損害賠償の訴訟を起こされ(強盗に、ではなく、叔父に対して。なぜなら店側が必要な手段を講じていなかったから強盗にあったのだという認識。)強盗は捕まえても捕まえても叔父の店へ強奪にくる。叔父の家族は半ばノイローゼになった。弱りきった叔父は店の常連であった地域の警察署長に相談した。しばらくして、署長が店へやってきた。叔父の前にぽんと数葉の写真をおいた。その写真には、件の強盗が射殺死体となって記録されていた。

別の叔母のところに、強盗団が押し入り、たまたま居合わせた叔母の家族がかなり酷い目にあった。叔母は殺し屋を雇い、強盗団を「それ相応の目にあわせた」(叔母談)―つまり壊滅状態にしたらしい。また、あるいはこんな話はどうだろうか。ブラジルの幹線道路には横断歩道があまりない。ほとんどの場合車道に飛び出すしか横断方法がない。車はひき逃げし放題だ。めったに捕まることはない。捕まっても金さえ払えばなんとかなるお国柄だ。車を運転するときに気をつけることはただひとつ。人をひいた場合は息の根をとめろ。実際に、従兄弟はひき逃げを目撃し、しかもご丁寧にとどめさすところも見たそうだ。それも一度ではない。それが当たり前の日常だ。

以上、これがブラジルの現実なのだ。平和なのだろうかこれが。

ちなみに外務省の海外安全HPでは、ブラジルのリオ、サンパウロなど都市部において危険度は「十分注意してください」(同じ危険度ではあの有名な南アフリカ共和国のヨハネスブルグがある)。内戦状態にこそないが、いつ殺されても文句がいえない場所であると私は思っている。そりゃジーコにとっては安全かつ平和な国だろう。英雄なのだから。しかも途方もない金持ちだろうし。

私はブラジルに対し多少なりとも知識があるから「またミスリードをよんでいるな」と警戒することができるが、ほとんどの人はどうだろうか。ああなるほどねブラジルは平和な国なのね、と思うだろう。確かに平和かもしれない。しかし治安はかなり悪い。たとえるならコロンビアやコンゴと比べてどちらが平和か、戦争しているのかしてないのかぐらいの比較だ。

朝日的ミスリードには慣れているつもりだったが、今回のはさすがに腹が立った。おそらく、世界情勢にあそこまで慧眼な朝日新聞のことだから、上記の事情などとっくにご存知のはずだ。ちょっと元の発言を調べ切れなかったので、おそらくは文脈上違う意味でいったのだと思うが(交戦状態ほどひどくない程度の意味あいで)それをコンナ風に一部分だけとりあげ、主張に沿うよう恣意的に利用する辺りが朝日クオリティだろう。無理やりに愛と平和へつなげようとする努力。サッカーを政治利用しているのはどちらか?と尋ねたくなる。

さて、ところで。

平和の基準、平和であるとする基準ってなんだろうか。

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2005年6月 7日 (火)

騙すなら素敵に-説得力のある記事、言説とはなにか

トラックバックを頂いた先で、ある方といろいろとやりとりをしている際に、さまざまなことを再確認させられた。私がコメントした先を辿れば、おそらくどの記事かの特定は容易かと思われるのでここではそのブログは触れないでおく。元々そのブログ記事が問題というわけではないからだ。

ブログのスペースというのは非常に個人的なところで、割となにを書いてもいい場所ではある。利用規約にひっかかったりすれば削除対象となるが。
(ただ削除対象となった記事も言論の自由とのかねあいがあるので、本当に削除というのが妥当な行為なのかについて、削除が違法だと訴えればどうなるか、判例がわからないのでそれについて言及することはとりあえず避けたい。)

あるブログ記事に展開されている言説を信頼に足る-少なくとも傾聴に値するモノだと判断するにはどんなことが必要なのだろうか。

例えばだ。ニュースに基づいて論評する、あるいは社会時評を論ずるブログがあったとして。

“韓国人が渡韓した日本人を片っ端からぶん殴って臨津江へ投げ込んでいる”、とブログ記事にあったとしてその記事の結びが“だから韓国とは国交を断絶すべきだ”と書かれていても、おそらく結論に対し“そうだそうだ”と即座に同意する人などあるまい。せいぜい“あっそう、つかそのニュースソースはどこよ?”と思われるのが関の山であろう。あるいは“共産党員が日本各地で過激なデモを行い、自らの思想に同意しない人には体中に赤いペンキを塗りたくる”と書いた記事があったとして、やはりそれをみた人の反応は“さようでございますか。それではその記事が真実という証拠をだしてください”となると思うし、UFOに乗った宇宙人と話した!と言われても“なるほど。それではその(略”となると思う。つまりニュースソースがあるか、出典元はどこか。そういった部分で判断しているのではないだろうか。例えばそのニュースソースがどう見てもアレなところだったり、引用した出典元がたま出版だったりすれば、ああなるほど、と得心するのではないだろうか。

そんな冗談口はさておき、とにかく、特に社会時評を論評する場合、その出典元がいい加減だったり、明示されてなかったりすれば、やはり論評結果についてもそれ相応の説得力しかもたないのではないだろうか。統計といってもテレビ番組のアンケートだったり(例えそれがNHKでもある程度のバイアスはかかると私は思っている)、ある種偏向していると思われるところだとすると説得力がなくなってしまう。例をあげれば、ある立場の人間が追い落とされた、とする。その人物に朝日が同情的なのと産経が義憤に駆られているのと毎日が嘆くのと聖教新聞が痛罵しているのと日経がその人物寄りに状況分析するのと読売が肩入れするのと朝鮮日報が抗議しているのでは、人物に抱くコチラの感じがまるで変わってしまうと思う。つまりはそういうことだ。誰がいつどの媒体でその情報を発信したのか。誰がどこでいつその情報を用いたのか、第一次情報はどこがもたらしたのか。朝日か毎日か読売か産経か日経か。テレ朝か、日テレかTBSかフジかNHKか。それぞれのマスコミには「どのような傾向」があるのか。そういう前提をふまえて、情報を取捨選択してこそ、初めてメディア・リテラシーがある状態となるのではないだろうか。その情報を発信した人物はどんな意図があるのか。このマスメディアはどういう方向に世論をもっていきたいと思っているのか。真意はどこか。あるいは。
全ての情報は騙すために存在している、と私は思っている。「正確な情報」なんて果たしてあるのだろうか。「正確な情報」は「事実」とイコールではない。マスコミの情報は、こちらが疑ってこそ真価を発揮する。情報は振り回されるモノではなくコントロールするものだと私は思う。その右は果たして本当の右なのか。その左は本当の左なのか。疑わない情報なんてタダのゴミ屑以下ですよ。閑話休題。

いってみれば記事の出自を明かさないというか、そういう前提をふまえない記事であれば、やはり説得力をもちえない。共感も難しいかもしれない。こういうことがあったんです、こうだと言われているんです、と断定しても、背景を書かなかったり、「どこで」そういわれているのかを明らかにしなければ、ああそう、それはアナタの意見ね、と流されてオワルだろう。書いた本人のバイアスがかかっている記事と思われてしまえばそれまでだ。アナタの庭かもしれないが、世界にむけて開かれている。そこが私的な場所だということと、だから説明責任なくなんでも書いていいというのは別次元の問題だ。自分の記事に説明を求められたとき、“ここはブログという個人のスペース、書いた記事はあくまでも私見であり説明義務なし”などといったところで、公開した場所はwwwなのだ。だったらそれこそチラシの裏にでも書いてココロの宝箱へ閉まって鍵をかけておけ、である。そしてさらに、もし自らの言説に不利なコメントがついたら削除したり、真面目に問いかけているが記事に対しマイナスなコメントを無視したり、あるいはいっそのことコメントがつけられないようにしていたりすれば、自ずから自身の説得力を低下させているに過ぎない。議論は相手をただねじ伏せればいいだけのものなのだろうか。その中から自分の考えをより練り上げ深化させなければ、議論する意味はないと思う。

自分の記事に説得力が欲しいのか、ただの電波ゆんゆんしてるだけと思われたいのか。立場を決めたら、やることはひとつ。ただその先は世界へと繋がっている。お忘れなきよう。

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2005年6月 3日 (金)

緊急メンテナンスだとよ

緊急はいいけど、いつ頃終わるとかそういうのを表示してくださいませ。

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2005年6月 2日 (木)

男でも女でもなく私は遠くへいきたい―ジェンダーフリー理論の曖昧さ(2)

http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-05-31-3より続く

話は前後するが、ではジェンダーとはなんなのか。
遺伝子や染色体としての生物学的な性ではなく、社会・文化的な性。男らしさ女らしさという社会・文化的な性をフェミニストたちは長い間否定してきた。一昔前まで、生まれたときには白紙であると彼らは主張してきた。しかしこの本はそれに対し大きな疑問符を投げかける。

どんなに否定しようとしても、女らしさ、男らしさが湧き上がってしまうなら、それを否定することはかえって個々人の否定へとつながるのではないだろうか。それは解剖学的に男性でありながら、女らしさがわきあがることやその逆の状況もまたしかりである。私にはそうして沸き起こる性差をも否定しようとするなら、ジェンダーフリーではなく、「ジェンダーフィケーション」(性の固定)になるのではないだろうか。自由でありなさいと強制することが果たして自由な状態といえるのか。そしてその自由さというのはある種の人々が規定した自由さだ。本来の自由とはあるがままの姿をそのまま認めることだと私は思う。
ジェンダーはフリーになれないのではないか、と私は考える。自分が自然に持ち合わせた性(性同一性障害や同性愛も含む)から、残念ながら自由になることはできない。終局的にはこの問題は自己の性とどうむきあうのか、自分にとっておまんこやちんぽはどういう意味をもつのか、という部分に収束されるのではないだろうか。それはつまり自分はどう生きるのかということと密接にリンクしてくる。どのような場合においてもそれらを認識し考え、洞察を深めることが人生にとって大いにプラスになると思う。よくいわれることだが、区別と差別は違う。重要なのは、男女に差はない同じだと声高に叫ぶよりも、違いを認めて、そこからお互いにとってベストなのはどういうことかを考えていくことではないだろうか。自らが考える性に反対の行動をとる必要はない。
男女を決めるのは大昔のフロイト先生がご開陳したちんぽやまんこではないのでは。脳である可能性が私は非常に大きいと思う。これは長い時間かけて人類が獲得した“遺産”の結果ではないのか。現在先鋭的なフェミニストが行っている言論や行動を見る限り、彼らは男性上位主義者と同じ位置に立とうとしているように私には見える。
人は、遺伝子に性別を組み込まれて誕生し、行動はその性別に規定され、社会生活上あらたな意味づけもくわえられていく。現在ではこの考え方が主流となっているようだが、まだ未解明な部分が多い中、本当にこの説どおりでいいのか。私には言い切れるだけの学識を備えてはいない。残念ながら。ただ、「ブレンダと呼ばれた少年」を読んだ後に、私は自分に対してこう考えた。

生物学上の雌として生誕した女は、行動を脳に組み込まれた性行動要因によって規定されていく。ただその性をどう生きるかは、個々人に帰依されるべき問題なのだ。

男だ女だ式の発想にとらわれているのは、実は彼らかもしれない。

最後に行政におけるジェンダーフリーを少し。
行政はかなり根深くジェンダーフリーがはいりこんでますね。例えば香川ジェンダーネットなんて、0才からのジェンダーフリー、生まれたときからジェンダーフリーなんていうのがある。なんでこんなにジェンダーフリーにこだわるのかがわからない。特に研修センターで行われたワークショップをみるとあきれてしまうほどだ。
「絵を見て考えるワーク、絵を描くワークの後、ジェンダーについて説明をしました。
食事のしたくと子どもの世話は女の仕事、車で運搬するのは男の仕事と決めている人が多かったのは、参加者たちの国の性別役割分担意識が根強い現われと感じました。近年のスポーツの記録の伸びは、男性よりも女性の伸びが著しいと紹介し、女性にはできないとされていた事でも、やってみたら案外できるということをお話ししました。」
ドカチン仕事もやってみれば案外できるかもしれないが、生理が重い人がこれを職業にできるのだろうか。性差は大事にといいながらちっとも大事にしてない。トラックの運転手もかなりきつい職業であり、生業にしている女性はいるが、すすんでなりたいと思う人ははたして多いのだろうか。スポーツ記録の伸びにいたっては、感動すらする。ジェンダーフリーというのは女性の男性化、男性の女性化を促進させるためなのか。それはちっともフリーじゃない。重要なのはダイアモント博士のいう、「力仕事のために人を雇うとき、恐らく男性の方が向いているし、保育のために人を雇うとき、多分女性のほうがうまくやる。だからといって、力仕事をしたいと欲する女性や保育をやりたがる男性を門前払いすべきではない」ということなのだとおもう。

今後フェミニストたちの本をもっと読みこみ、彼らの考えを探ってみたい。

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ジェンダーはフリーになるのか―ジェンダーフリー理論の曖昧さ(1)

※ご注意下さい。
以下の文章には訂正箇所があります。
コチラを参照下さい。http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-06-16

「女は女にうまれない。女になるのだ」―これはボーヴォワールの記した第二の性の冒頭の言葉である。時折誤解して使用されているケースが見受けられるが、この一文はどちらかというと否定的なニュアンスであると私は考えている。社会的・文化的に「女」という性別(ジェンダー)に規定されるのだ、ということを述べているに過ぎない。では本当にそうなのか。女性らしさ男性らしさというのは後天的に、社会文化によって決められるのか。本来はジェンダーなんてものは存在せず、性の白紙状態で生まれてくるものなのか。女の子が人形遊びを選び、男の子がモデルガンをもって打ち合うのは、親や社会がそう望んで教えた結果だからなのか。

ここにその課題に長年取り組んできた博士の答えがある。「双子の症例」。不幸な事故の結果、女性としていきることとなった解剖学上は男性である幼児。彼は適切な処置と適切な教育と適切な投薬で女性として幸せに生きている。その症例にはこう報告されていた。博士はいう。生まれたときは性に白紙であり、社会が定義付けを行っているのだ、と。それは男らしさ女らしさは社会が強制しているのだと捉えたフェミニストたちにとってもまさに福音だった。こうして両者の思惑はどうであれ、「双子の症例」はフェミニズム系のさまざまな書物に成功例として引用され、理論の補強に使われてきた。しかしその実験が、本当はどうだったのか。この本は欠損した人生を補うために一生を費やしたある男性の記録である。

一卵性双生児として誕生した男の子たちに不幸が訪れたのは8ヶ月のときだった。排尿の際痛がる赤子をみた母親は医者に相談する。医者が出した結論は包皮除去手術だった。しかし兄に施された手術は失敗し、黒く炭化した陰茎がそこにあるだけだった。しかもそれはしばらくするとぼろぼろと崩れ去った。10代後半で親となった夫婦は苦しんだ。主治医はそのまま育てて思春期になったら人工陰茎形成手術に踏み切ることをすすめた。だが両親はテレビで自信満々に語る高名な博士にすがることにした。博士は言い切った。「解剖学的に男性であっても、幼児のうちに性転換手術を施し、女性として育てたならば、性は教えたとおりに固定され、幸せな人生を送れる」と。両親は知らなかった。これは初めてのケースであると。博士が行っていたのは半陰陽という本来どちらの性か未確定な状態で生まれてきたような人々であり、“正常”な男性として生まれた幼児に性転換手術を施したことはまだなかったこと。わが子が人体実験の道具にされるなどとは夢にも思っていなかった。

ブルースというその子はブレンダという名を与えられ、女性として育てられたが、小さい頃からその“性”に馴染めずにいた。クラスで孤立し、学校からくる「あの子には特別ななにかがあるのでは?」という問合せに頭を悩ませていた。弟のブライアンは“姉”の面倒ばかり見る両親に反発し、窃盗などの問題行動を起こしはじめる。両親は自分たちの行った選択に間違いがあるのではと罪悪感に苦しみ、父は酒におぼれ、母は鬱病になった。そして博士は「双子の症例」を発表し「ダーウィン以来の大発見」と名声を得たのだった。家族が置かれている状況を一切報告せずに。

ブレンダは必死に女になろうとする。しかし挫折し死を考える。その頃彼はようやく彼にあった精神科医と出会い、15歳のとき、完全な性転換手術を拒否し、男性としていきることを決意。人工ペニスをつける手術に耐え、3人の子を持つシングルマザーと結婚。自分の過去を振り切れると思ったとき、昔の主治医から連絡が来た。君の過去を役立てないか?君のように辛い思いをする患者をこれ以上増やさないために。

彼は同意し、主治医を通し研究者-ダイヤモンド博士に全てを話すこととする。ダイヤモンドが書いた「ジョン・ジョアン」に関する論文は大きな反響を呼び起こす。そして彼は妻と子供達に囲まれて、残りの人生をおだやかに過ごすはずだった。ところが。

ブルースからブレンダになり、デイヴィッドになった少年は、2004年5月、38歳で自殺した。弟のブライアンは2002年に同じく自殺したといわれている。二人とも、自殺の原因がこの“実験”に由来するかどうかはわからない。デイヴィッドは自殺する前、妻と離婚し、投資に失敗するなど要因はある。ブライアンは長年鬱病を患っていた。しかし彼はこの本の中で「自分の過去を消してくれる人間がいるのなら、どんなに困難でも必ず会いに行く。頭の中をめちゃくちゃにされたんだ」と苦悩の一端を偲ばせる発言を繰り返している。直接原因ではないと思うが、要素のひとつになったことは間違いないと思われる。

この本の中には彼らが受けたマネー博士による性的虐待ともいえるカウンセリングの内容が明らかになっている。マネーは9歳の児童にたいし、ポルノ写真を見せ、性器を見せろと強要し、二人を裸にした挙句―四つんばいにしたブレンダ(デイヴィッド)の尻にむき出しのおちんちんをおしつけるようにブライアンに命じ、その姿を写真におさめたりした。誰とファック―おまんこしたいのか?と繰り返し繰り返しマネーに問い詰められるカウンセリングに嫌気がさした二人は、マネーに会うことを拒否するが両親はなんとかなだめすかして連れて行く。双子が性に羞恥心を抱くのは、両親に羞恥心があるからだ、とマネーは二人に裸で生活するように伝え、子供たちの前でセックスするように指導する。性行為は拒否したが、母は裸で過ごすようにするなど、必死で努力する。しかしデイヴィッドは違和感を感じ続け、彼が男に戻る日まで苦闘は続いた。
マネーは母親からの報告で自分が72年に発表し絶賛をあびた論文「双子の症例」が大失敗に終わったことをしっていた。彼は訂正せず、連絡をとろうと思えばすぐできる環境であったにもかかわらず、「彼らとは連絡が取れなくなった」といい、そのうちただ沈黙するのみとなった。ダイヤモンドが双子の症例のその後を医学誌に発表するまで。
この本がとにかく痛ましいのは、巻末でデイヴィッドが達観したような淡々とした口調で自分の過去を振り返り、ありうべき未来の姿を語る姿と、そして、ブレンダと呼ばれていた頃、男性に戻りたての頃、彼の結婚式の写真である。小さい頃の彼の写真は、申し訳ないが女の子に見えない。整った顔立ちのいわゆる美少年である。たとえドレスを着てようとも。ああ、彼はずっと「男」だったんだな、と私は感じた。

ジェンダーはマネーが提唱したといわれる概念である。(定義などについてはフェミニストたちの思惑もからみ彼の理論を前提というわけではない)彼は半陰陽の研究(いわゆる男性器女性器どちらともいえないあいまいな性器を保持し誕生した子)から導き出した自分の理論―

「生まれて18ヶ月以内の子どもの性自認は中立であり、その間に養育上の性別と外性器の外見を一致させ、第二次性徴とともに適当な性ホルモンを処方すれば、生まれつきの性別とは無関係にその子の性自認―自分を女である・男であると認識すること―を決定できる」

これを実際に応用する機会を待っていた。そこにあらわれたのがブライアンとブルースのケースだった。しかしブライアンとブルースにとって悲劇だったのが彼らを研究対象とする学者が「動物と同じように人間も去勢できたらいいのに」と自らのセクシャルについてかなり否定的な感情を抱いている人物だったことだ。

読み終わって、深いところを打ち抜かれた気持ちになった。グーグルでこの本の感想をざっと検索したら、マネーの理論をフェミニズムが同意したことはない、そもそもマネーはフェミニズム嫌いだった、と書いている人がいたり。(その方のコメント欄では、音楽雑誌でこんな話題を取り上げるわけがない、と読んでいないのがまるわかりのものもあった。作者はジャーナリストではないとも。作者ジョン・コラピントがローリングストーン誌のライターで、デイヴィッドにインタビューをしたのがこの本を書くきっかけになったのだが。それはamazonでも本の中でも触れられている。)本書を読めばわかるのだが、上野千鶴子は自らの理論補強に双子の症例を引用している。都合のいいときは引用して悪くなったら「使用したことはない」というのはちょっとなあと素直な感想。少なくとも、過去の著作において双子の症例を引用し、理論補強に用いたジェンダー論学者は、自己批判するか総括はすべきだと思う。それが都合よく政治的に利用され続けたブレンダ/デイヴィッドに対する責任であると私は考えている。(続く)

 

ブレンダと呼ばれた少年

ブレンダと呼ばれた少年

  • 作者: ジョン・コラピント
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2005/05/24
  • メディア: 単行本

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2005年5月30日 (月)

nice!くれという記事を日付を変えて何度もUPする人に

なんでですか?とコメントしたんですけど、削除されまくりでした。チャンチャン♪
nice!がものすごく欲しいみたいなので、誰かあげてくださいませ~

 

…アタシですか?遠慮しておきます。こんなエロ文書きの下賤のモノからもらってもアレでしょうから。


*5/30追記*
またUPしてる。TB送ったら削除。コメントしたら削除。スゴイねしかし。それってnice!から程遠い行為だと思うんだけど…。まあ個人の信条だから不可侵ということで。

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2005年5月26日 (木)

またか…セミナ000軍団…

目の錯覚かと思いました。
同じ名前で001、002…と。以前雅泉氏もおっしゃっていたけど(違っていたらすみません)、これはso-netに許可とってんですかね?どう考えてもどこかのパソコン教室が教材代わりに利用してるとしか思えないんですが。そうなると

第4条(禁止事項)1-(9)弊社から事前に承認を得ていない、本サービスを通じてまたは本サービスに関連する営利を目的とする行為、またはその準備を目的とする行為。

に該当する行為となりゃしませんかね?まあ許可とっているならいいんですけど。でも確か2ちゃんねるでこの人たちの話題を見たときは誰かが「規約に抵触しますよ」と書き込んだらすぐ記事ごと削除してたそうで…。許可とっているなら削除はしないでしょう。(2ちゃん情報でスミマセン。しかし確かに確認したら記事は丸ごと削除されてました)で、ほとぼりが醒めた頃にまた復活ですか?そういう姿勢ってソテキ。

 

追記:14:11現在確認したらまた記事ごと削除…。そんなにびくびくしながらやって面白いかね?やるなら100回“まんこ”とか“ちんぽ”とか書きまくってタブーに挑戦してくださいよ。どこかのアホみたいに。

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2005年5月19日 (木)

新機能追加されたなあ

なるほど。コメント・TBにキーワードURLで制限がかけらえる、スパムブロック機能が追加されていた。いつの間にか。
http://www.so-net.ne.jp/blog/sitetour/2-1.html#07
キーワードでブロック設定もできるが気をつけないとね。ただこれならココログなんかがやっているように、コメントした人のIPをブログ主に通知して、IPそのものでブロックかけられるようにする機能も欲しかったなあ。
まあこの機能、某氏はもっと前に…と思っておられるかも。
あ、そうそう、アクセス解析、これは相変わらずまだ、なんすねえ…。

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2005年5月 5日 (木)

ブログ記事と公開と荒らしと(異論反論Objection)

正直、リアルタイムでこういう状態をみたのは初めてだと思う。
hina氏のところが大変なことになってます。詳細はリンク先を確認されたし現在はSo-net運営側の要請により該当記事は削除されております)hina氏が非常に過激な記事を書き、その記事に対し大量の意味不明なトラックバックならびに200を越すコメントが書き込まれている。(そのほとんどが、おそらくは2ちゃんねるからきたと思われるNO NAMEさんの書き込みであると推定する)

その発端となったhina氏の記事に対しては、私は賛同しかねる。非常に感情的であるし、不要と思われる言辞も多々あり、そのうち妊婦云々の記述についてはどう読んでもよい気持ちにはなれない。読後感はよくない。だがその大元となった記事においても、現在事故がおきて間もないことによる遺族の感情や事故原因がJR西日本の体質にあるといわれはじめた点、事故後すぐに原因を置き石に求めたJR西日本の対応などを考えると、まだもう少し後で書いてもよかったような気もする。いま公開すればある意味「燃料」を投下してしまう結果になる可能性もあり、このようにhina氏の記事の如く露骨に真正面から叩かれてしまったりすることもあるだろう。その結果、書いた本人もイヤな思いをするだろうし、なにより、ブログ主の知人である当事者本人が不利な状況になるかもしれない。残念ながら現在公開すると、冷静に考えてもあまりよいことがないような気がするので、落ち着いてから書いてもよかったのではないだろうか。しかし直接その感情をぶつけたくなってしまう現状があったのだろう。知人としてなにかいいたくなる気持ちは痛いほどよくわかる。ブログ主当人の気持ちは推し量ってあまりある。それに則せば、なんだこんなことよくいえるな、と憤りたい気持ちになるのかもしれない。それもわからないでもない。

だがいくらhina氏の記事が問題だからといって、大量のコメント(中には拝聴すべき意見もあるがその多くは意味をなしているとは認識しがたい)をつけることはまた別ではないのだろうか。

hina氏のブログを読んでいると基本的に状況分析などは勉強になる点もあり、鉄ヲタ、航空ヲタ(=おたく)ならではの情報がたくさんあるので、その分野に疎い私には大変参考になる。ただ時として彼が芸風としている“過激な言動”が、その本質を見えにくくしてしまい、些末な反感を買いやすくしている部分は否めない。しかしそれを彼が是としている以上、私がなにかいうことではないだろう。こちらはいいと思ったらnice!をつける。間違っていると思ったらコメント、TBでやりあう。それだけのことだ。

で、私はいいと思ったのでnice!をつけた。そうしたらこんな風に。

 

So-net blog:ひな私語録 ブログ版:さっぽろ羊ヶ丘展望台
【福知山線脱線事故】垣内剛を庇うバカ女 を見てみろ。大変な状況になってるぜ。のんびりと旅行している状況か? また、ここに来るSO-NET BLOGユーザーよ。直ちに「nice!」は解除した方が身のためだぜ。飛び火しても知らんぜ。 by NO NAME (2005-05-05 00:27)

 

該当記事に賛同したわけでもないのに飛び火とはおだやかではない。大げさに言論弾圧とはいわないけれど、どうしてこうなっちゃうかな、とは思う。もっと意見を交流させて建設的な方向へいこうとはならないのだろうか。NO NAMEさんが大量に書き込んでも、ある種の「怖さ」を感じるだけで根本は少しも変えられないと思う。これはいわゆる炎上状態なんだろうけど、それは相手に「威圧」と「恐怖」を与えるだけで、ブログ主に意見を改めさせたりということには至らないのではないか。逆に「荒らされた」と被害者意識を植えつけ、余計その意見の正当性に固執させたり、例え建設的で有益なことを書き込んでいたとしても「荒らし」として十把一絡げで無視されるという結果を招くだけではないだろうか。目的が正しければ手段は正当化されるというのはどこぞの過激派の論調だったりするわけだが、現在、行われている縦読みだなんだという意味のないコメントを大量につける行為はそのこととどう違うのだろうか。どんなに誠実なコメントがその中にあったとしても、荒らし行為の中に埋まり、ログが流れてしまうだけではないのか。聖戦ならばなにをしてもよいのか。hina氏の発言がどんなに誤った感情的で納得できない意見だからといって荒らしてよいわけではない。荒らした時点で分が悪くなってしまう。なんらかの反対意見があるなら、論旨をはっきりさせたコメント、あるいはトラックバックを送るべきだ。現状ではhina氏が考えを更正するとはとても思えず、ただ感情的反発をよぶだけではないだろうか。

せっかくのブログツールなのだから、もう少し建設的に利用したい、と思うのは理想論なのだろうか。これも匿名であるが故の代償なのだろうか。今は否定するよりも、肯定していたい、と思ってしまうのは性善論に立ちすぎているのかもしれないが。

※追伸
私よりもわかりやすく丁寧に記述されているブログが既にあったりします。
http://blog.so-net.ne.jp/vertigo/2005-05-05 うん。すごいな。ハゲドウです。

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2005年4月30日 (土)

シニタイヤツハシネ(ある人に)

シニタイヤツハシネ、とまずいいたい。

いのちの重さとかなんとかそういう御託を並べるヤツはホントにわかってんのか?といいたい。
しにたい、とかなんとかそのテの自己陶酔的な文言をつぶやいて、自己憐憫の泥沼に沈み込むようなヤツには速やかにシネといいたい。
ネットで仲間を集めたりする一人じゃやる気のでないヤツにも、ホームレスとして最低限の生活をし、孤独を噛みしめてからやれといいたい。

死ぬにも根性がないヤツが多過ぎる。

なぜ死にたいのか。そこには人生に対する過剰な期待とその裏切り。こんなはずじゃなかった、という倦怠感。生きる目的がわからなくなった、あるいは人生には意味がないとか。単純に鬱病という理由もあるかもしれない。

ただもし病気という例題をのぞくならば(鬱病ならば病にある自分を認め医者にいけ。病魔に乗っ取られている自己を認識しろ)、その他の理由で死ぬというのはどういうことなのか。生きる意味が解らないというのなら、だいたい人生には意味があるのか。自分には価値があるとか。笑止。ない、と断言する。人生には意味はないし、自分にも価値はない。てめえに価値があることを自覚したいから「死にたい」とかなんとかいって周りの反応を見たり、自己陶酔してえんだろ、と。自己憐憫として「自分には生きる価値がない」などと腐ったことをいっているヤツらを含め、そんなのには生きる価値はない。速やかに冷静に華麗にシネ。綺麗事ヌかして傷の舐めあいしているヤツらも、ありのままの自分に価値があるとか酔ったこといってんじゃねえ。ねえんだよ意味なんて。人生を直視しないヤツには、自分を率直に見つめる努力を怠り恐れ他者からの判定がないと価値を見いだせないようなヤツには、相対化しなければ自分の立ち位置もおぼつかないようなヤツには、意味も価値も意義もない。なんもない。認めろよ。てめえにはなんの価値もなく、人生にも意味がないってことを。反論を期待してペシミスティックなことを言ってるヤツは即座にシネ。絶望的な言葉を弄びつつ、誘い込むような目つきしてんじゃねえよ。

神がシンでしまった現世において、今更人生に意味や目的を見いだそうというのは個人に対して過大な努力を強いることになるのだろうか。「つまんない人生」「価値のない自分」というならいいたい。激しく宣告したい。てめえでつまんねえ価値のない自分になり下がっているんだよ。てめえでそうした愚痴愚痴した自分、自我を作り上げているんだよ。人生に意味も目的もない、自分にも価値がない、そこを立脚点にして自分こそ自分自身に対して神となる、その絶対性の確立こそが自我の確立にほかならないのではないだろうか。人生に意味も価値も目的もないからこそ、自分自身で作り出すのではないのか。自分自身に価値がないからこそ、価値を作り出す必要があるのではないだろうか。人生の目的とは、自分とはなにか、なんて、どこかへ行けば見つかるなんてイージーなもんじゃねえだろ。そんならアタシゃ今ごろ南極にでもいってます。苦労して作り上げた自分自身の自我、あるいは自分自身の価値だからこそ、大事に思える。大切に思える。尊重しようと思えるのではないのか。他者に期待するな。相対化してどうこうできるものではない。ハウツー本があるわけでもない。個々人がオリジナルを呻吟して作りあげていくしかない。人に聞いたり、安易になんでも得られると思うな。百歩譲って自分自身を作り上げる旅にでるのもいいかもしれない。しかし、もし自分探しの旅とやらに出立するなら、途上国の人間見て、自分のいまある幸せを認識するなんてさもしくて人間性がぶっこわれた真似は絶対にするな。自分よりも下の立場のニンゲンを見ないと維持できないような自尊心なら犬にでも食わせろ。それは人間としていちばん恥ずべき所業だ。ボランティアにいくなら、同じ目線に立て。立てないなら、相手からの感謝の言葉がないとなにもする気がおきないとどこかで感じてしまうのなら、ドヤ街いって赤ら顔の労働者とともに水たまりができるほどの汗をかきながらドカチンに励め。そっから出直してこい。

シニタイヤツはシネ。勝手にシネ。人を巻き込むな。黙して語らず静かに逝け。気の弱ってるヤツを引きずり込むな。自身がそうすることにより煉獄へと叩き込まれる家族の姿を想像し、それでも是とするならば、その姿を脳裏に浮かべ焼き付けたまま穏やかに死ね。

シニタイ、というならシネばよい。しかしその前にするべきことはある。

*付記
「ある人に」は特定の`誰か`に向けたものではありません。私を含めた`誰も`に、対して。

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2005年4月26日 (火)

JR福知山線の脱線事故

鉄道おたく(鉄ヲタ)の意見希望。

正直、責任の所在、事故原因は今後の調査を待たないとわからない。
(いまでも疑問なのはどうして初期報道で運転士が重体とされていたのかということ。安否不明とすればいいのに。てっきり私は病院かなにかに収容されているもんだと勘違いしておりました。)

ただひとついえることはコチラの方もおっしゃっていたけど、あの社長記者会見で正義を振りかざし糾弾していた新聞記者は何様なんだろうか。

あからさまに不利な対象じゃないと糾弾できないのか。まさに糾弾のための糾弾。記号的糾弾です。まだ生存者もいて現場検証も難しい段階で、なにがいえるというのだろうか。ああいう糾弾って一種の様式美なんでしょうな。そんなことやってんなら政治家や企業にもっと突っ込めよ。まあ人権擁護法案もビビって報道できない(自分たちが該当するマスコミ関連についてはよく報道しているけど)のだから期待はできませんが。JR西日本も虚偽申告をしていた部分はあるようで、どっちもどっちというかもしれませんが。

みんなの就職活動日記のJR西日本のところ、荒れてますね。西日本は内定者以外どうやら新卒採用を中止するようで。書き込み読むと、内定者の中には辞退する方もでてきているようだけど、(書き込みが真実だとしてハナシを進めると)事故原因もはっきりしてない中風評のみで判断するのってどうよ?JRの体質云々っていうけど、そういうことを言う人に限って「入社11ヶ月で運転している」とか書いたりして。まったく。ろくに企業研究してないんだな。そんなら最初から受験しなきゃいい。こんな痛ましい事故があったから辞退なんて、それこそ亡くなった方のためにも自分が変えてやるぐらいの意気込みがないのって情けない。熟慮した上でなら、いたしかたないとは思いますが。

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2005年4月25日 (月)

平気で嘘をつくひと

一般的に、人は真正面から堂々と嘘をつかれることに弱い、と思う。

その内容が途方もない内容であればより信じやすいのかもしれない。ヒットラーじゃないけれど。

俺は株や先物で儲けてミリオネアなんだぜ?、私は天皇陛下の血筋なのです、アタシ本当は某知事の落とし胤で、などと自信満々にあるいは正面から宣言されると、ああそうなのか、と得心してしまったりして。その人の見かけがキモいオタク(キモヲタ)風であろうが、あまり仕立ての良い服を着てなかろうが。またそれを理由に(本家からひどい扱いを受けててこんな零落を…、金があることを知られるとヤバいんだよ、といった具合に)使われて、より信頼が強固になってしまったりする。

私は真正面から堂々と嘘をつかれた経験がある。本人は悪気なく、自分でも自分のいったことが本当だといつの間にか思い込んでしまえるのだからたいしたもんだ。彼女の主張は「私はすごいお金持ちで」というものだった。確かにしょっちゅう旅行に行く、いい車を何台も所有している。食べにいくお店も相当なシロモノだ。ある日、突然彼女はいなくなった。後で聞くと、その嘘を支えるために、いろんな人から借金をして、それを踏み倒し、PTA会費にまで手をつけていた。被害に遭った人たちで裁判を起こそうと弁護士にかけあったが「ああいう人は反省しないし訴えたほうが損だ」といわれてあきらめたそうだ。嘘をつくよりもその嘘が嘘であることを証明するほうが難しい。ましてや賠償なんて。

こんなことを思ったのは、現在某巨大掲示板で展開されている某ネット上の有名人に関する検証スレを読んでいたせいもある。その有名人のついてまわる華麗な経歴はハッタリで、自作自演の積み重ねによるものなんじゃないか、とそこではいわれている。スレ内において重要視されているのは、くだんの某有名人が、嘘だかホントだかわからないことを書き散らす飛ばし系ライターではなく、主に株経済関連において“金融工学のエキスパート”という肩書きつきで記事を書いていることについてだ。もし自作自演なら、壮大な嘘なら。嘘を平気でつけるひとが書いた株に関する話を誰が信用できるのか。そのスレに書いてあることを読むと、どうも落合信彦、ドクター中松的な人物であると、アンチといわれている人々は規定しているようだ。両御仁とも強烈なハッタリで知られる。私はアンチでも信者でもないが、このスレは非常に注目している。ネットから生じた有名人がネットの手で息の根を止められるのか。それとも出自が匿名を誇るアヤシゲなものであっても、社会的に認知されればもはやネットで騒ごうがなにしようが、どうにもできないような存在となってしまうのか。これは有名税なのか。自分たちと同じであったと思う人が、脚光をあび、表舞台で活躍する様に我慢ならない人々の嫉妬がデマを流布させているのか。それとも。

某巨大掲示板の管理人がいった「嘘を嘘であると見抜けないと」という言葉はわたしのなかで重く響く。結局は自分で調べ考え結論を出すしかないのだ。真正面から「私」を見据え、「僕は資産数百億あるんですよ」と言い切れる人をどう捉えるべきか。

「たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。嘘だったという事よりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である」
さてこれは誰の言葉だったっけ。

※追記事項がありましたので日付を変えてUPします。
騒動のまとめサイトができたようなのでおいておきますね。
http://blog.goo.ne.jp/catchme_2005/c/ec347adba4d393ae7fb74488e4b84f5c

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2005年4月22日 (金)

語るに落ちたな古賀誠【人権擁護法案関連】

Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 人権法案の見直し案巡り、自民合同会議が大荒れ
人権法案の見直し案巡り、自民合同会議が大荒れ  自民党の法務部会・人権問題等調査会合同会議で21日、人権擁護法案の取り扱いの一任をめぐって、法務部会と人権問題等調査会のトップ同士が異なる見解を表明するという“前代未聞”の事態が生じた。

「一任してください」と一方的に退出するなんて、老獪狡猾と称された古賀センセイにはふさわしくない遣り方ですな。
反対派がここまでヤルとは思ってなかったんだろうなあ。なんとか阻止してもらいたい。

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2005年4月20日 (水)

人をネタにするまえに

人をネタにするとき、絶対に忘れてはならないのは、目線を下にするな、ということ。

ネタにされるほうもするほうも同じ穴の狢。だいたい、人をネタにしてなにかを書くという行為自体非常に恥ずかしいものだと思わねばなるまい。下品な行為だ。それが有名人でアレなんであれ。尊敬する根本敬先生は、対象と同じ目線に立つ必要を常に訴えている。上からみて論評するなんて、アンタそんだけえらいのかい?と思ってしまう。精神としてはマタイによる福音書です。

人の卑小な行動を笑うなら、アンタはしたことないのかい?と。アンタだって卑小な欲望があるわけだろ、と。男にちやほやされたいだろ?いい女にハメたいだろ?金がほしいだろ?人から羨ましがられたいだろ?バカにするならそのバカがもつリビドーをアンタは感じたことがないのか。

ネタにして文章を書くことを私は否定しない。私も、人をネタにする、多々する。ただ私はネタにされた人間よりも、ネタにした人間のほうがよっぽど人品卑しく下劣であると認識している。その自覚があるかないか。自覚のない文章は本当にウンザリするし、あの特有の嫌な読後感がぬるぬると絡みつく、その生臭さがたまらない。他人をネタにするなら、嘲笑うなら、ネタにする人間をまず全肯定しろ。ネタにする人間を支える欲望を全肯定しろ。人を哂うならまず自分を哂え。はなしは、それからだ。

あまりに酷いものをみるとつい自戒したくなる。自分も含めて人間はくだらねえと思ってない(つまり自分は置いておいて、としてる)方の文章は、寿司にたとえるならば、どんなに新鮮なネタでも、それを握る手が肥溜めを弄ってそのまま洗いもせずにいるようなものではないか。

人を呪わば穴二つ。ネタにしているようでされているのは自分である、その自覚を常に忘れないようにしたい。人を指差した、その行為を大勢から笑われているかもよ?ハニー。

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いい加減

落ちるんなら落ちる、いいならいい、一貫してくれ。中途半端がいちばんストレスたまる。
胃潰瘍かノイローゼになったら謝罪と賠償を要求しるぞ。

 

 

※付記 そういう場合は…

告発ならこの人 http://blog.so-net.ne.jp/hina/2005-04-18
So-netさまの本音はこちら http://blog.so-net.ne.jp/torischool/2005-04-20

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2005年4月18日 (月)

自分のブログがこの先生きのこるには

自分の好きなことを好きなように書いていこうぜ、兄弟。

 

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ブログネタ切れについて

ネタはある。見渡せばそこかしこに。日々生まれる時事問題、自分の内面は刻々と変化しているし。

 

あとは書く気力、ただそれだけ。

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2005年4月15日 (金)

とうとう逝きましたか?So-net様

デカい男は大変だ   0 4 0 0 2005-04-15 16:50 下書き
(↑上をクリックしますとどこへ行きますか?テキトーにやったんで行き先不明です。報告いただける方がいたらお願いします。)

下書きの記事に閲覧数4って…。

この間からこんなんばっかりです。エロ記事ばっかり書いているから大魔神怒るなのでしょうか。すんません。おとなしくしますんで、誤作動させないで下さい。

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2005年4月11日 (月)

ブログジャーナリストはなぜダメなのか?

米国メディア・なぜダメなのか?を見た。

たまたま早く家に帰り、ぴっとテレビをつけていたらこれまたたまたまニュース23をやっていた。筑紫センセのお姿を見るのもずいぶん久しぶりだな。どこやらの巨大掲示板では耄碌した、なに言ってるかわからない、などと揶揄されているがなるほど、確かに年をとったなあ。言葉がはっきりしなくなっており、なんとなく影も薄くなってきている。以前の存在感や見る影ナシといった風情。ますます鳥越俊太郎と区別不可能になってきた。こうなったら鳥越は二代目筑紫哲也を襲名すべきだ。ある日突然交代しても、ソックリすぎて気づかないから無問題。(昔の小谷真生子と小宮悦子みたいだな)そして佐古氏はサブキャスター。永遠の二番手若大将。おそらく100年たってもあの姿勢でテレビ画面にはめ込まれているだろう。閑話休題。

画面上にはいかにもアメリカリベラルを代表するといった様子の白人シラガオヤジがインタビューを受けていた(名前失念)。昨今日本で流行中のエラソーキャラではない。どっちかというと慇懃無礼系だろうな、などと失礼なことを連想しつつ、日本を代表するシラガオヤジVS白人リベラルシラガオヤジの60分一本勝負か!?と思いきや、まあそんな風になるわけもなく、ニュース23らしくノンビリと眠気を誘うぐらいのペースで展開される。もう少し見せ方工夫しろよ、とテレビに向かって文句言うアブナイ親父と化しつつも見ていくうちにハナシは、ブログジャーナリストについてどう思うか?とホワイトハウスの定例記者会見にブログジャーナリストが進出した件に移った。

リベラルオヤジ曰く、ブログジャーナリストは匿名性に起因するがゆえにジャーナリストではない、とのこと。訓練も受けてないしなどとかなり否定的だった。でも匿名性っていったって、ホワイトハウスには顔出しでいってるわけだし、その様子はテレビにも映っているし…と???が駆け巡る。例によって筑紫哲也はアーアー、アーハンと文字にするとかなりヤバイ返答をしていた。突っ込んで聞かないって事はまあスルーというか、ネット系はよくわからないから押し頂いて伺うだけなのか、ジャーナリストは俺のように朝日新聞に入社して朝日ジャーナルの編集長まで勤めなきゃダメなんだぜ、ぐらいに思っているのかはわからないけど、その後は特になにもなく、適当な総括のような話になって「はい、次はスポーツです」で終わってしまった。

感じたのはいわゆる「ジャーナリスト」といわれる人々の特権意識だ。新聞社に入って御用記事を垂れ流すか、プロパガンダに終始するか、そういう訓練をつんだ(年季奉公?)ものだけがジャーナリストになるのだろうか。ジャーナリストがジャーナリストたりえる資格というのは、「ジャーナリスト」と呼ばれる人々が独善的に決めている気がする。つまり“素人になにがわかる”ってやつだ。だがなぜこんなにネットが普及したか、それは既存メディアがいろんなしがらみから伝えられなかった部分をネットがカバーしたからじゃないのだろうか。報道しない裏の部分についてなんてちょっとgoogle検索かければ、ぽろぽろと見つかったりするこの現状。2ちゃんねるの隆盛だってそういう部分があるのではないか。実に矛盾している。本当に欲しい情報は報道されないなんて。あるいは真実は隠蔽され報道されないのではないか?という思い。(行過ぎるとなんでもかんでもユダヤの陰謀とかサブリミナルとかそういう路線を突っ走ってしまうのだけど)真実は皮一枚剥がしたところにある、とうすうす感じている人々がいるからこそ、またその人数が侮れないからこそ、ネット文化、ネットジャーナリズム、ブログジャーナリストというものが台頭したのではないだろうか。依然としてネットジャーナリズム、ブログジャーナリストなんて権威がないゆえにかなりアヤシゲと思われているし、まだまだ紙媒体などのメディアは優位だ。だがそれは果たしてどこまで続くのだろうか。「偉大なる素人たち」をどこまで抑え付けられるのだろうか。マスメディアを疑え!が合言葉になってしまってきている現在、既存ジャーナリズムは無闇にネットだのブログだのを否定する前に、自らの立脚点を明確にし、なぜ支持されないのかを考察すべきではないだろうか。すでにその首は俎上にあるんでっせ、筑紫サン。

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2005年4月10日 (日)

2ちゃんねる、こんなスレに晒されてました

自分のブログURLをGoogleで検索してみました。
するとこんな2ちゃんねるのスレに晒されていたことを発見しましたです。


【肢別チェック】
ttp://school4.2ch.net/test/read.cgi/exam/1107640710/
ttp://www6.big.or.jp/~beyond/bbsnews/proxy/exam/1107640710/link
(上記スレのキャッシュ)

【真性】電磁波悪用被害者の会、石橋輝勝【電波】
ttp://society3.2ch.net/test/read.cgi/giin/1092469867/l50

人気blogランキング
ttp://pc8.2ch.net/test/read.cgi/blog/1100245908/l50

エログ総合スレ
ttp://pc8.2ch.net/test/read.cgi/blog/1100242050/
ttp://www6.big.or.jp/~beyond/bbsnews/ j2ch.cgi?bbs=blog&num=1100242050&sub=0
(上記スレのキャッシュ)

おまえらのブログ読みます!part2
ttp://pc8.2ch.net/test/read.cgi/blog/1111825661/


いろんなところに晒されてますね。(直接リンクは避けてます。「h」をつけてください。)肢別チェックとはなんでしょうか。どなたか教えてください。そのほか、NHK実況やみさくらなんこつスレにも晒されていたようです。この内容じゃ、エログも致し方ないか…。ううむ。まあショセン、私のブログなど、ヲチ対象なんでしょうね。せいぜいオモシロイ記事書きますわ。

※ くまぞ氏からの指摘により、一部訂正しました。サンクス

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2005年4月 7日 (木)

やつぱり

やつぱりメンテ時間、16時ちょっきりじゃなかったっすね。
でも夜中まで延びなかったからOKということで。

まあSo-netさま、ガンガってください。(やけ気味大声で)

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2005年4月 1日 (金)

メンテメンテメンテばっかり

http://blog.so-net.ne.jp/blog_wn/2005-04-01

また メ ン テ ナ ン ス か。

【サービス停止日時】4月 1日(金) 15:00~17:00とあるけれど実際どこまで伸びるんでしょうか。0時まで延長されたりして。

いるかいらないんだかわからないような(マックにメリットなしな)ツールバーやスキン追加(6種類…であんなに長くメンテ?)とかじゃなくて、サーバー落ちしないようにするとかアクセス解析(悲願)できるようにするとか、頼みますよ。

http://blog.so-net.ne.jp/phantom/2005-04-01←この記事が現実になることを祈りますたい。

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2005年3月30日 (水)

誰かのために私は祈る

彼のために私はいのる。

私と知り合ったとき、すでに彼は病に犯されていた。病は不治とされていた。
彼は明るい。時折私も病を忘れる。病はそのウチに深く沈み、彼の内臓を食い荒らす。誤ってぶつけた赤黒い腕の内出血がなかなか治らないのをみると、私は彼の中にある暗さを感じる。バカな彼はすぐにそんなことを忘れてしまう。翳のささない忘却のかなたにある彼をみるといつも願う。そして私は祈る。その日々が少しでも長く続くように。

神社なんぞで祈ったことが一度たりとも成就したことがない私は、だからこそ、彼の病気がますます悪くなれば、としか祈れない。そうして神社から離れて初めて禁忌が解け、彼のためにいのることができる。山や自然にいのる。いつか彼がなんの気兼ねなく日常をおくり、その笑顔にまったくの曇りなく過ごせることを。いつか彼が私になんの負い目もなく私を見つめることができるように。

彼のために私はいのる。

また私は彼らについても祈る。

彼らは行きたくて行くのではない。本能が制御された現代社会では好き好んでその場にでたい人間などそんなにはいないだろう。多くはなにかを守るため、誰かを守るためその場にいかねばならない、そう決意してそこへむかう人々であると。彼らのかかとには常に水際がある。その水際を作り出した人間について、私は考える。そして水際を作り出した人間は、かかとにそれを背負うことはない。国を思い、家族を思い、大切なモノを守るために戦わざるを得ない人々を、おもう。

彼らについて私は祈る。

その震える手で二度と誰かと誰かの生死をわけることのないように。そういう場が再びこないように。個がある限り、戦いを防ぐことはできないのかもしれない。だが避けることはできるはずだ。こうして誰かのために祈ることが、誰かのために祈る人々が多ければ多いほど、きっとそれは可能なはずだ。そう信じたい。いまは。

私は彼について祈る。彼らについて祈る。祈るしかすべを持たない自分の非力さを嘆きつつ、祈ることでしか別な可能性を生み出す手段をもてないなら。プロフェッサー?

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2005年3月24日 (木)

法務省に電話してみた【人権擁護法案関連】

人権擁護法案の私が考える疑問点について、法務省へ電話することにしました。


  1. 加害者となった人の保護。えん罪だった場合、名誉回復はどうするのか。条文では異議申し立てについてないがどう考えているか。
  2. 人権擁護委員の選定にあたってその他団体とあるが、何を基準にして選定されるのか。また、柏村代議士のホームページで朝鮮総連も当該団体に含まれる可能性があると聞いたが本当か。
  3. 養護委員2万人に対し人権委員は2人プラス3人が非常勤。仮に一人が1件持ち込んだとして2万件となるが、5人で対応できるのか。
  4. 差別的表現とあるが、基準があいまいである。具体的にどうか基準を示すべきではないか。
  5. 一般救済と特別救済にわかれているが、特別救済はどの程度を想定しているのか。
  6. 捜査の立ち入り等には裁判官の令状がなくてもかまわないのか。3条委員会だから準司法ということか?
  7. 特定団体から選ぶ場合、その団体が公に認知されたことにならないか。
  8. 過料を支払わなかった場合、どうするのか。強制的にとるのか。


法務省人権擁護局に電話してみました。対応した方は女性。

「人権擁護法案について…」といったところで、「現在作成・審議中であり一切質問等にお答えできません」。

で、後はなにを聞いても
「現在作成・審議中であり一切質問等にお答えできません。」(たぶん100回ぐらい聞いたような気がする。)
私が聞いているのは廃案になった第154回(以下略)人権擁護法案であり、当時の見解ということで確認したいのだが、といっても、「現在(ry」
では我々は施行された後でないと知り得ることが出来ないのか?国民の知る権利はどうなる?などと尋ねても「現在(ry」
いつ頃なら返答可能か?といっても「現在(ry」
挙げ句には「他の人権侵害のご相談電話が受けられなくなりますので失礼します」と一方的に切られた。

おそらく箝口令がしかれているのだろう。女性の口調も、この問題で同じような質問を何度もうけ、同じ回答を繰り返している風情が漂っていた。もし法案が今国会に提出審議可決成立される目算が高いなら、ここまで徹底した対応となるだろうか。もしかすると思ったよりもこの反対運動は功を奏しているのかもしれない。まだまだ追求は続く。続けることが廃案への着実一歩なのだ。

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2005年3月23日 (水)

人権擁護法案の問題点について

本稿では私の考える人権擁護法案に対する問題点を列挙いたします。

■ 人権擁護委員の構成について


第二十二条 人権擁護委員は、人権委員会が委嘱する

3 市町村長は、人権委員会に対し、当該市町村の住民で、人格が高潔であって人権に関して高い識見を有する者及び弁護士会その他人権の擁護を目的とし、又はこれを支持する団体の構成員のうちから、当該市町村の議会の意見を聴いて、人権擁護委員の候補者を推薦しなければならない。

人格が高潔ってどうやって判断するのか、文化勲章受章者?カーティス・ルメイだってもらっているぜ、などというアレはおいておいて、「又はこれを支持する団体の構成員のうちから、」という表現はなにを意図するのでしょうか。法務省人権擁護局の回答では朝鮮総連も「団体」に含まれるそうです。

 

■ 人権委員会の罷免と任期

第十一条 委員長及び委員は、次の各号のいずれかに該当する場合を除いては、在任中、その意に反して罷免されることがない。
2, 人権委員会により、心身の故障のため職務の執行ができないと認められたとき、又は職務上の義務違反その他委員長若しくは委員たるに適しない非行があると認められたとき。

とありますが、この決議を採択するには

第十四条 人権委員会の会議は、委員長が招集する。

4, 人権委員会が第十一条第二号の規定による認定をするには、前項の規定にかかわらず、本人を除く全員の一致がなければならない。


つまり非行があっても、全会一致でないと罷免できない。たった一人でも異議を唱えたら罷免できない。そして罷免するには上記方法しかない。

そして

第十条 委員長及び委員の任期は、三年とする。ただし、補欠の委員長又は委員の任期は、前任者の残任期間とする。

2 委員長及び委員は、再任されることができる。

再任について何期までという規定がない。ということはどこかの村長さんのように何十期も勤めることが理論上可能ということ。以上のことから導き出される憂慮すべき問題は「長期政権化」し、問題がある委員がいたとしても「全会一致でないと罷免できず」民意が反映しにくいということがいえるのではないだろうか。

■ 異議申し立てができない

法案原案には異議申し立てについての記述がありません。このまま解釈すると、異議申し立てができず、名誉回復は裁判所に訴訟を起こすしかない、ということがいえます。この部分については後日法務省に見解を確認するつもりです。

■ 表彰も…

第三十六条 人権委員会は、人権擁護委員、人権擁護委員協議会、都道府県人権擁護委員連合会又は全国人権擁護委員連合会が、職務上特別な功労があると認めるときは、これを表彰し、その業績を一般に周知させるよう努めるものとする。

この一文は必要なのだろうか。業績を一般に周知させるよう努めるってなにを知らしめたいのか。名誉職であることを強調していることの意味はなんだろうか。


■ 懸案事項

特定団体の介入を防げないこの原案通りだとすると、例えば差別表現に対する基準が曖昧になってしまう関係上、どうしても差別事案の摘発に偏りが生じるのではないか。

最後に、実際の「平成15年中の『人権侵犯事件』の状況について」(http://www.moj.go.jp/PRESS/040219-1/040219-1.html)を紹介します。おそらくは法務省としてはこういった事例が起こることを念頭に置いているのではないでしょうか。ただ実際にこの法案が施行されたとしてこのレベルを維持できるのだろうか。

もう少し続きます。今回はこれまで。もし前掲文章中に謝りがあると思われる場合はコメント・TBよろしくお願いします。

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2005年3月22日 (火)

人権なんぞオマエラに保護してもらわんでもええ!

※追記したので再掲載します。

人は「神」の奴隷になりたがっている、とはSF作家山本弘氏の名言だけれども、実際に「奴隷」にしかねない法案が、我々の頭上に降臨するために審議されている。(先送りには“一応”なったけど)

デストピア。ユートピアの反対。小説「1984」のような徹底管理された社会。思想は統一され、批判は許されず、ノートに思いのままを綴ったというだけで政府の役人に拘束された“私”は「1」を「2」といえと強制され拷問をうける。
そんな世界は日本と全く関係ない、絵空事だとお思いだろうか?
これはやがて現実になる可能性が高い。

よくわからない方にデスノートで人権擁護法案を解説したものを↓
・ http://n.jeez.jp/note/src/1110535459724.jpg

すでにいろんな方がSo-netブログ内でも記事にしてらっしゃいます。

3月18日は花粉の日/人権擁護法案と道交法
http://blog.so-net.ne.jp/feline-amenities/fuckyoualljapaneseredneck

世紀の愚案(人権擁護法案)
http://blog.so-net.ne.jp/arlik/2005-03-15

人権擁護法の裏
http://blog.so-net.ne.jp/takamori/2005-03-13

平成版治安維持法?
http://blog.so-net.ne.jp/MyCometG3/2005-03-09-1

人権擁護法案反対
http://blog.so-net.ne.jp/hina/2005-03-16

人権パラノイア
http://blog.so-net.ne.jp/hina/2005-03-17

この運動を強力に推し進めているのが部落解放同盟というのは本当だろうか。松本治一郎氏を尊敬する私としては信じたくないが。しかし松本翁が亡くなってから解同が利権といった部分に食いつくようになってしまったように思われる。

■ 現在の情勢

人権擁護法案、与党懇話会に差し戻し

政府が今国会で再提出を目指す人権擁護法案をめぐり、自民党は18日、3回目の法務部会・人権問題調査会合同部会を開いたが、賛否が分かれ党内了承を見送り、与党人権問題懇話会(座長・古賀誠自民党元幹事長)に法案を差し戻した。自民党法務部会でも並行して議論する。

 今国会での成立を強く求める公明党は、自民党部会で提案された「人権擁護委員に国籍条項を設ける」「メディア規制条項の削除」などの修正案に難色を示している。古賀氏は、公明党と連動する形で巻き返しを図るとみられる。

 古賀氏「福岡2区の補選(の選挙協力)も含めて公明党と話はついている。何とか国会の場に議論を移してほしい」

 安倍晋三幹事長代理「言論の自由や政治家の信条にかかわる法案だ。強引に党内の議論を押さえ込むのは不可能だ」

 この日の自民党合同部会が始まる2時間前、法案づくりを主導してきた古賀氏は慎重派の安倍氏と会談。1時間20分間の押し問答でも意見は一致しなかった。古賀氏は「法案を国会に提出しなければ、公明党の選挙協力が得られなくなる」との考えをにじませた。

 合同部会で、終盤になっても結論が出ないことにいらだった古賀氏は、慎重派の発言をさえぎるように「お願いがあるので聞いてほしい」と切り出し、「今までの議論を与党人権懇に持ち帰りたい」と提案。これに対し「自民党のレゾンデートル(存在意義)にかかわる問題だ。引き続きここで検討すべきだ」(古屋圭司党改革実行本部長代理)との異論が相次いだが、古賀氏は「与党人権懇が持ち込んだ法案だ。誰も一任させろとは言っていない。私の人権を守らせてくれ」と声を荒らげて押し切った。

 【2005/03/19 東京朝刊から】

http://www.sankei.co.jp/news/050319/sei048.htm より(太字筆者)


しかしマスコミはかたくなに報道しないですね。かろうじて朝日が法案賛成派として立場を表明しているくらいだろうか。メディアで反対しているのは産経ぐらいだと思われる。結局古賀氏は選挙対策、解同票と創価学会票を狙って法案設立させたのではないだろうか。(太字の部分を読む限り)

こんな風になることはないよ、と大半の人は思うだろう。しかし戦前、治安維持法が導入された際、多くの国民が同様に思っていたのではないだろうか。この法案は拡大解釈などできる余地がある。疑わしきは排除だ。拡大解釈をして憲法9条をないがしろにしてきたのはどこの政府だろうか。

これは「人権擁護法案」などではない。けっして。羊頭狗肉どころか、甘いお菓子と思って食べたら青酸カリの塊だった、ということにもなりかねない。人権擁護などと古賀誠や山崎拓などに主張されたら、墓場から松本翁が甦りかねない。こんな法案は絶対阻止すべきである。

※3/22追記

■ 念のため補足。人権擁護法案の問題点。例えば第二十二条の「人権擁護委員は、人権委員会が委嘱する」という箇所。これの「3」で指摘すると

3 市町村長は、人権委員会に対し、当該市町村の住民で、人格が高潔であって人権に関して高い識見を有する者及び弁護士会その他人権の擁護を目的とし、又はこれを支持する団体の構成員のうちから、当該市町村の議会の意見を聴いて、人権擁護委員の候補者を推薦しなければならない。

人格が高潔ってどうやって判断するのか、文化勲章受章者?カーティス・ルメイだってもらっているぜ、などというアレはおいておいて、「又はこれを支持する団体の構成員のうちから、」という表現はなにを意図するのでしょうか。
  

■ たまゑさんの記事に対するコメントで『朝日新聞は人権擁護法案に反対する記事を掲載した』というご意見がありました。では本当に朝日新聞は反対しているのか。
3/18付け社説 http://www.asahi.com/paper/editorial20050318.html をご確認いただきたい。私もソースを提示し忘れておりました。大変失礼しました。

■ マスコミは報道しない、という点ですが、調べた限りでは琉球新報2/6付け社説がいちばん早い報道のようです。地方紙が抜けておりました。大変失礼いたしました。お詫びの上追記として記載いたします。元の文章は変更いたしません。ただ諸地方紙が報道し問題とする部分は、メディア規制箇所のみとなっており、この点は不満です。

■ それと以下に人権擁護法案について法務省のQ&A、法案原文などを提示します。よろしければご一読ください。

法務省によるQ&A http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken83.html
人権擁護法案(仮称)の大綱 http://www.moj.go.jp/PRESS/020131-1.html
人権擁護法案原文 http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g15405056.htm

■ 現在の主な推進政党と反対政党を列挙いたします。

【人権擁護法案賛成政党】自民党(党内には根強い反対意見あり)、民主党公明党

【人権擁護法案反対政党】共産党社民党


■ そして「人権擁護法案問題を取り上げたサイトのオーナー様に10の質問」というTBをうけました。こちらで返答いたします。

1、3/11付け産経新聞コラム正論(執筆者 西尾幹二氏)

2、3つともあります。ついでに言えば電凸された方と法務省担当者とのやりとりと「される」ものも確認いたしました。

3、差別主義者ではありません。そもそも差別主義者というのはなにについての差別でしょうか?ちなみに赤ら顔のオヤジには近づかないようにしてます。レイシストかもしれません。

4、差別のない社会は望みますが、完全な平等社会は望め「ない」と思います。個々人の個体差能力差があるので、なにもかも平等にとはできないと考えております。例えば「平等に」室伏選手とハンマーで勝負したいとは思いません。大変申し訳ないのですが、差別の定義があいまいです。なにについての「差別」ですか?会社が学歴によって新卒採用者を選抜するのは「学歴差別」になるのでしょうか。あるいは経験者優遇というのは「初心者に対する差別」でしょうか。

5、なにについての差別主義者かわからないので回答保留にします。例えば、出身地、国籍、肌の色等先天的要因で就労、居住地その他制限をする人間に対しては間違っていると認識します。ですが、くだらんダジャレを連発する人間には容赦なく差別します。

6、てんこもり野郎氏のその言葉は韓国朝鮮人に対して侮蔑発言を行っていると、管理人氏は認識されるのでしょうか。文脈上の問題もあるでしょうし、その言葉だけ抜き出して「レイシスト」というのはそれこそ誤認を呼ぶものと認識します。例えば私が仮に「チョン公という言葉はやめるべきだ」と書いたとして、貴サイトに“「チョン公」と発言するような瑠璃子氏が人権擁護法案に反対しています”と書かれたらどうなるのでしょうか。恣意的に抜書きし、もってバイアスをかけるのはどうなのでしょうか。

7、嘘、デマとされるなら、××だからデマだ、という××の部分を提示されなければミスリードを呼ぶだけだと思われます。まず嘘だと称される理由をお書き願いたい。

9、パロディだと認識しております。

10、断固、反対です。

【お読みになった皆様へ】

※とにかく西尾幹二氏の意見と共産党が同意見であることなんて滅多にあることじゃありません。この法案に賛成であれ反対であれ、いろんなブログ、サイト、官公庁からの情報を元に自分自身の考えを記事にしてみたらどうでしょう。政治的に何かを考えるって悪いことじゃないと思います。記事にしたら是非トラックバックください。ラディカルになることもたまにはいいものです。

※追加記事upしました。
    人権擁護法案の問題点http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-03-23
    法務省に電話した様子http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-03-24-1

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2005年3月18日 (金)

人気ブログランキングって…アフォ?

ときどきやってらっしゃる方もいるようですが、人気ブログランキングってどうなんでしょうか。
正直、他の方のブログを見ていて「人気ブログランキングに参加してます。クリックお願いします」という文字を見ただけで萎えるんですけど。なんでクリックさせようとするか。
その人が何位になることで、なにか賞金でも出るの?単なるその人の自己満足じゃないですかね?どうもこう“さもしい”というか。個人的には「親切にしてやったから金よこせ」といわれたような錯覚に陥ります。なんでコメントもらったりトラックバックしあったり、はたまたアクセス数などで満足できないのか。まあnice!機能みたいなものがない他ブログでは人気の目安だろうけど…。つか人気ってナニよ?クリックしてOKなら自作自演も可能じゃないんですかね?2ちゃん見てもあんまりいい評判がないようだし。(まあ2ちゃんなんてショセン悪口のスクツですが。)

■ blogなんざ、てめえの自己満足ではじめてんだから、読んでもらうことにまず感謝しろ

■ ショセン自己満足なんだからてめえのなかで自己完結しろ。
      他人の巻き込むな。ましてや、読んでくださっている人たちを。

自己実現をランキングで成し遂げるなんて、かなしすぎる。ほかにやることないんかい。幸いにして、私がよくいくブログの運営者はそんなアフォくさいものに参加してないので嬉しい限りです。というか、なぜかnice!上位者でやっている人はいないようですね。まあそれはnice!というもので評価を得ているからでしょうが。それにして、も
無償の愛、アガペーでいきたいっすね、アタシは。

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2005年1月12日 (水)

so-netブログ担当者さまゑ(8さん撤退記念)

ばーかばーか 恥垢包茎くそちんぽ 

くされまんこー アナルローズ おまえのカアちゃんデベソ あほー おたんこなーす このヘタレ虫ー やーい やーい 

…などと言っても話がまったくアレなので、建設的な話を。

たくぼん総帥がその内実を推察しているけれど、それはまったくそのとおり。

単に見通しが甘いというか、ソニーならではの冒険者精神(ふろんてぃあすぴりっと)であるともいえる。

古田選手のブログを開始し、YAHOO!トピックスに掲載させ、集客力を高めるというのはよいと思う。だが、結局それがまったくプラスに働いてはいないように思える。

理由 その1 大々的にアピールしたのはよいが、結果アクセスが殺到し、

         サーバー落ちを他ユーザーに目の当たりにさせることになった。

    その2 そのため、so-netブログユーザーしか知らなかった駄目ぶりを

         これから利用を考えていた非ユーザーにも周知徹底させる羽目に。

    その3 今回のサーバーダウンはso-net側の不手際である可能性が高い。

         にもかかわらず、so-netのブログを読む

         「オマエラがアクセス殺到させるからだYO!」といった責任転嫁とも思えるくだりがある。

         (妄想かもしれんが)

    その4 上記の状況、so-net側の対応により

         マゾのように耐え忍んでいたユーザー自身も撤退を考え始めている。

8さんもいなくなっちゃうしな…。たくぼん総帥にもサヨナラされたら、私もエキサイトブログに戻るかな。なんとか根性キメてがんばってくださいよ。期待してますから、と書いていたところ、こんなお知らせが。

**                               **

 

メンテナンスによるサービス一時休止のお知らせ

メンテナンスのため 、So-net blogのサービスを以下の通り一時休止させていただきます。

【サービス停止日時】 1月 12日(火) 午後 3:00 ~ 約15分間
【影響サービス】 上記の時間内で So-net blogのすべてのサービスがご利用いただけなくなります。
【停止事由】 ハードウェアメンテナンス作業

なお、状況によって予定時間は前後することがございます。

期間中、お客さまには大変ご迷惑をお掛けいたしますが、ご理解ご協力を賜りますようよろしくお願い申し上げます。

**                                     **

あげあしをとるつもりはないけど、12日(火)となっているところに、so-net側のあわてぶりが伺えます。何事も計画性をもってやろうぜ、と思ってしまうのは私が小学生時代、夏休みの宿題を9/1にやっていたからでしょうか。ナモナモ。

※追記

 みなさん今回の件についてさまざま書かれてますね。関連記事にはTBしております。ご迷惑な場合は削除願います。とにかくso-netに言いたいのは、文句言われているうちが華、ということ。心ある人々が、呆れて静かに撤退し始める前に改善されることを望みます。このままでは総帥の言葉じゃないけど「いろんな記事を読んでさまざまな人々の人生に触れる、日常に触れ自分も発信するブログサイト」というよりも、「有名な方のオモシロイ文章をただ眺める、非参加型ブログサイト」という風に思われてしまうのではないかと。

※追記2 

結局難民移動となっているみたいです。個として望むのは、現在のこのアクセス状況を改善するために、計画案のようなものをso-net側が発表してくれることです。今回は明らかに運営側の不手際によるところが大きいと思うのです。そのことに対して、(ほかの方が何度も何度も指摘しているように)ユーザーに対して説明義務があると思うのです。βです。許してね☆というのは免罪符になりません。β版という免罪符を使うなら「有名人のブログやってます」と宣伝する必要があるのでしょうか。(著名人のブログをやる必要性があるのかとも思いますが。)いいとこ取りは許されません。ふじかわさんのように、ダイアルアップで苦労している人もいるのです。

※追記3

ここまでいくとso-netサーバーダウンというのはすでにネタの域です。夫の悪口を言うことで連帯感を持つ嫁姑みたいな池波正太郎的解決方法でso-netはうやむやにしようとしているのでしょうか。泣いた赤鬼か?

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女は敗者―パワーハラスメントを受けた日 完結編

その1 その2 より続き。完結編です。お付き合いくださり多謝-

 

当時悩んでいた私がこのサイトを知り、
被害内容と今後どうしたらよいかといった相談メールをだし、
返ってきたのがコレだ。(多少省略あり)

************************************

こんにちは。(株)クオレ・シー・キューブです。
私どもホームページのアンケートにお答え頂きましてありがとうございました。

状況を拝察する限り、尊厳を傷つけられるような言葉や行為にさぞ悔しい思いを
されたことと思います。

職場のハラスメントへの対策としては、現在のところ、セクハラは法的整備もな
され、厚生労働省からの指針も出されていることから、各企業組織も取り組まざ
るを得ない状況にありますが、パワハラに関しては、労働基準法にふれること以
外は、ほとんど打つ手がありません。

さて、あなた様のご相談についてですが、アンケートからでは、詳しいご事情が
分からないところがございます。
なぜなら、一般的な判断基準としては、

1.職務上の注意、叱責に留まらず、人格、人権を傷つける行為であったか。
2.その行為が絶えず、繰り返し行なわれたか。
3.行なう側に悪意、意図があったか。

ということがありますが、この判断は受けた側の主観性だけではなく、客観性も
必要となってくるからです。

電話相談ですと、カウンセラーがご相談者の状況説明を客観的に判断すべく、い
ろいろご質問しながら状況把握できます。
申し訳ございませんが、「パワハラ相談」の専門カウンセラーが相談を
受けておりますので、ご案内いたします。
なお、相談業務には守秘義務がありますので、あなた様のご相談内容が外へ洩れ
ることは決してありません。

ご参考までに、
神奈川県商工労働部労政福祉課 のホームページに以下の具体的なハラスメント
対策が、掲載されていますので、ご紹介します。

=================================
ハラスメントへの対応 

1 いじめの内容を記録

 いじめがひどくなったら、いじめの加害者、内容、発生日時を記録します。そ
の他、会社や上司の対応についても記録しておくと良いでしょう。必要ならば録
音しておきます。

2 上司や同僚のいじめの場合

 実際には、法的な手段がとりづらい場合も多いと思われます。仕事と割り切り
相手が何を言っても取り合わない、人間関係を改善できる可能性があるなら努力
してみる、相手に弱みを握られるようなミスをしない、などの対処法で様子を見
るしかないこともあるでしょう。また、次のような方法が有効な場合もあります。
 相手方にはっきり、「あなたのやっていることはいじめだ、やめてほしい」と
言って、事実を明らかにすることが、いじめを抑制する役目を果たす場合があり
ます。
 責任をとれる立場の上司に相談し、職場環境の改善や配置転換が可能か、冷静
に話し合ってみることが解決につながる場合があります。会社としても、人間関
係の悪化で仕事に支障がでることは望まないはずです。

3 会社ぐるみのいじめの場合

 会社を辞めてほしいためにいじめをしてくる場合、ともかく、納得しないまま
に退職願を出さないことです。退職願を出すと、後で退職の無効を争うのは大変
困難になります。また、いじめや退職強要をやめるよう内容証明郵便などで通知
することもできます。弁護士に依頼して出すと効果的な場合もあります。
 そのうえで、労働組合に相談して交渉してもらう、裁判所の利用を考える、退
職もやむを得ないと考えるなら有利な条件になるよう交渉してみる、などの対処
法をとることになるでしょう。また、商工労働センター等に相談し「あっせん指
導」してもらうという方法もあります。

4 裁判所を利用する

 具体的な方法については、弁護士に相談した方が良いですが、主なものは次の
とおりです。いじめをやめさせる仮処分(差し止め請求)机やロッカーを使用さ
せないなど、一定の行為を強制するいじめの場合、その行為をやめさせるための
仮処分を提起します。また、仕事を与えない、役職や能力に全く見合わない単純
労働をさせるといったいじめの場合、就労請求の仮処分も考えられます。慰謝料
請求いじめという不 法行為に基づく損害賠償を行うのも一つの方法です。

==================================


正直、このメール見て、やるなら退職をかけて徹底するしかないんだ、と実感しました。
泣き寝入りか、失職・転職かけるかどちらかだなと。
この時は鬱病になりかけており、とてもそんな気力がなく、闘わずして去りました。
こうして今改めて当時の記録を見、書いているだけで動悸が激しく、
胃が痛くなります。記憶は薄れても身体が覚えているんだなぁ。
おそらくAは、また別の他の誰かに繰り返しているのではないか。
彼の、ああいうのは生来もってしまったモノのような気がします。

閑話休題。

しかし相談窓口が労働監督基準署や商工センターしかないっていうのは
問題があるのでは。気軽に相談できる場所ではないし。
この会社(クオレ・シー・キューブ)に相談するといっても、
HPを見る限りコンサルをしている会社なので
言い方は悪いが「ネタにされる」という感は否めない。

最近になって問題が表面化したのは
終身雇用制云々ということもあるけれど、社員雇用形態がさまざまになり、
本来ならばその立場に置くべきではない人間を
資質等に関係なく、社員だからという理由だけで派遣などを監督させたりする、
そういった企業側の「人材を育てることを放棄している」点にあるのではないか。

ちなみに新しい会社はとてもよくしてくれて、有り難かったっす。

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老兵は死なずただ消え去るのみ―パワーハラスメントを受けた日 その2

-その2(http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-01-12) より続きます-

「私語が多すぎるんだよ」と低く押さえつけるような声で。
申し訳ありません、と頭を垂れた。
「昨日、何であんなに喋っていたの?そういう指示でもでたの?
なにをあんなに喋っていたの?その内容を言ってよ。」

緊張のあまり考え考え話すと、
「昨日話した内容も思い出せないの?」と鼻で笑われた。
映画の話を数人で話していたこと、ASVから注意を受けた後は
業務の話をしていたことを述べると、
「じゃあ、その人達に確認して裏をとるから。それでさ、なんであんなコトしたの?」
(なお後でその時仕事していた人たちに、確認をAから受けたかどうか尋ねたが、
そんなことはなかったそうだ。私が辞めるまで、とうとう確認しなかったようだ。)
ゆっくりやってほしいという担当者の指示があったため、
周囲に確認事項を話したりしているうちに、私語に繋がった、私の気のゆるみであり、
申し訳ありません、と伝えると
「ゆっくりやっていいなんて指示を出したのなら抗議するから。
ゆっくりやっていい、喋ってもいいなんて指示だしたんでしょ!?」
と突如激高する。
喋っていいとは私が結果として行った行為であり、そういう指示はないというと
「さっきと言ってることが違うじゃないか!?言うことがころころ変わるんだよ!!
だから信用できないんだよ!!」

「昨日一晩考えて、今後一切他の仕事はさせないから。目の届かないところで
なにをやっているか信用できないから、土日の業務のやらせない。
あと今後は僕の席の横にいつもいてもらう。この要求を呑まなければ
もう一切(私の話)は聞かない!!」

と大きな声で発言。(後日近くの席にいた派遣仲間からは
“あれは大丈夫かなってすごく大きな声だった”
ASVからは“別な席でやらせなきゃまずいな…って焦った”と言われた。)
個人的には怒鳴られているとしか思えなかった。
今まで注意を受けていたなら当然のことと受け入れられるが、
注意といえば、その前の日の一件とその日の携帯の件だけだった。
なぜ急にですか?と尋ねると
「複合的な要因だよ」
複合的な要因とは?と重ねて尋ねると
「いちいち全部いえっていうのか!?ならいいよ!全部調べてくるから!
私語や携帯やお客さんのこととか!」

携帯について理由を述べようとすると途中で話を遮り
「もういいよ!どうでも!複合的なことだから」
と一切聞いて貰えなかった。お詫びしてもお詫びしてもだめだった。
「なんで話すのか!」
というので、質問したり、息抜きで話してしまったことがある、申し訳ない、というと
「皆ストレスたまっているんだよ!いつもそうだよ!自分だけって。その性格だよ!
その性格が全部問題なんだよ!」
と怒鳴る。
ここで前々から聞きたかったことを聞いてみた。
話の流れを変えたかったのもあるし、少し冷静になって貰いたかったからだ。
注意をする人はASVの申告を元に判断しているのですか?
「俺が仕事をしていないとでも言うのか!?」と更に怒鳴られた。
申し訳ありません、そのようなつもりでは…と更に陳謝すると
「じゃあどんなつもりなんだよ!そうとした伝わらないんだよ!全然意図が伝わらない!
お客さんも同じだよ!ナニ言いたいのか全然わかんねえんだよ!!」
「俺はバカだからわかるように言えよ!!」
と組んだ足を
机の下にあるPCタワーにガンガンぶつける。音はかなり大きい。
正直いつ殴られるかと思った。大げさではなく。
殴られたらどこを守ろうか、とそればかりを考えていた。
「他のヤツでもやっているヤツがいるっていうのか!じゃあその名前を言えよ!
言えよ!」

従業員名簿をもってきて、指で指すように言われる。申し訳ありませんと言っても
「それはいいから早くいえよ!!言えよ!!」と詰問された。
何分か何十分か、時間の概念もわからなくなった頃、突然
「もういいでしょ!まだ仕事があるし!全然話がすすまねえんだよ!」と一方的に切り上げられた。私は契約更新時くらいしか話す機会がないので
業務マニュアル等の今後業務に当たる上で改善案というか要望などについて
意見を聞いて欲しく、その旨伝えるが
「もういいでしょ!!」と一切聞いて貰えなかった。

それからが地獄だった。
ぶらぶらしててもいい身分ではないので、他に仕事を探しながら、それでもいるしかない。
横に座られると身体的な恐怖が甦り、怖くてしょうがなかった。

毎日2時間しか眠れなかった。それは辞めるまで続いた。

ストレスで食べてしまう方だから、
突然夜中に甘いものが大量に食べたくなったりして、
デカいカップごとアイスを食べたりしていたら
あっという間に10㎏太った。

精神科にも通い、診断書を作ってもらった上で、マネージャーに訴えたが
「Aがそんな事実はない、ただ注意しただけだ、といってる。
自分はどっちを信じるかと言われたら、彼を信じる」
と言われただけだった。
公的機関に相談するかどうしようか迷った。
結局幼なじみが仕事を紹介してくれ、ようやく地獄から脱却することが出来た。

もしこれを読んでいる人が同じ目に遭っているとするならば、
是非公の機関に相談することを勧めたい。

ではどこへどのような形へ相談すればよいのか?

こんなところもある。私はここへ相談メールをだした。
その内容(抜粋だけど)を参考までに公開します。それは「その3 完結編」で。

※Aが就任後「クレーム対応」とは、というような研修をしたことがあった。
私はその日休みで、参加した人に聞くと、
その時笑いながらこんな内容を話していたそうだ。

「前の職場で、自分の下にいた人が辞めて逆恨みされたらしく、
右翼に私の名を騙って天皇陛下のポルノビラ(奥崎謙三かよ…)を送りつけ、
怒った右翼から脅迫状が来たことがあった」

私にしたようなことを繰り返していたら、こういう目にも遭う気がする。

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パワーハラスメントを受けた日 その1

過去の話ですが、同じような目に遭われている方がいらしたら、どうぞ参考にしてください。重い話です。ご容赦を。

パワーハラスメント

「上司が部下に言葉や態度による暴力を振るったり、できもしない執拗な要求で精神的に苦痛を与えること」とAGP行動科学分析研究所所長の永井隆雄氏が定義している。

この行為、私は実際に受けたことが、ある。少し前の秋。

登録派遣会社より某カード会社のコールセンターへ、
テレフォンオペレーターとして派遣されてから、3年ほど過ぎていた初夏の頃、
派遣を取り仕切る役目-SV(スーパーバイザー)の担当が代わり、
新しい男性社員が派遣会社からやってきた。仮にAとしておく。

ちなみにヒエラルキーはこんな感じ。

カード会社マネージャー>カード会社社員>派遣会社マネージャー(といっても現場業務は全くなく、主に稼働やカード会社との折衷にあたっていた)>派遣会社社員SV>ASV(アシスタントスーパーバイザー 立場的には派遣よりちょっと上だが、社員ではない)>派遣

Aはさかなくんに似た容貌と高い声が特徴的だった。
ナニを考えているのか、ハタからはなかなか伺えないような人物だった。
カード業務に携わる上で要求される知識は膨大で、
経験の浅いASVよりも、設立当初からいる派遣社員の方が、
ずっと頼りになったりするようなこともしばしばだった。
業務知識も現場で覚えながら、なおかつ客より「上司に代われ!!」というような
クレーム処理にあたらなければならない、知識もなくて対応しなければならないのは、
本当に大変だろうと思っていた。

それでも派遣同士の話では、そういう電話にも嫌な顔せず対応してくれるので
評判はよかった。ナニ考えてるかわかんないねーというような声も、
なきしもあらずだったが。それでも私自身の感想では、
大変なのに頑張っているな、という印象しかなかった。

通常、問い合わせ受付窓口のような業務なので電話を受けることが仕事だったが、
確認のため交代で電話をかける仕事をすることがあった。

秋の契約更新の前にしたある日。
頼まれて電話をかける仕事を、派遣仲間数人としていた。
私は、その業務に携わることが割と長かったものだから、
他に仕事をしていた人から質問を受けることもあった。
「休みながら仕事をしてくれ」と担当者に言われていたので、
適当に息を抜きながら、仕事をしていた。
その仕事はいつもと同じフロアで行っていたから、
通常の問い合わせ受付業務をしていた人も、もちろんいる。
その時一緒に仕事をしていた人の中には、会社の電話を使って
アイドルのコンサートチケット予約をしていた人もいた。
ただその人は私より勤務年数が長かったし、お世話にもなっていたから、
私は気づかないふりをしていた。
質問を受けていたのが、流れで通常の会話モードになってしまった。
と、そこへASVがやってきて「おしゃべりが多い」と注意をした。
ああ、迷惑に気づかなかったな、とそれからは
本当にわからないときだけ質問してもらい、あとは黙々と電話をかけたり
書類整理したりをした。

次の日、出勤し業務態勢に入った途端、携帯がなってしまった。
当然サイレントモードでバイブモードにもしていなかったはずだから、
非常に驚いた。そんなこと何年かそこの職場で仕事をした中で初めてのことだった。Aがやってきて、注意をした。申し訳ありませんと丁寧にわびた。
後で確認したところ、当時所有していた携帯電話は、ボタンをスライドさせて切り替える形
(長押ししてマナー設定するのではなく)だったので、どうやらその部分が甘くなっており、
マナーに設定していても、なにかの拍子に通常モードになってしまうようだった。
携帯を買い換えるまで業務中は電源を切ることにした。

その日、Aより契約更新の面談があると呼び出された。
通常業務しているフロアの片隅に。
いつもは人のいる一角がたまたまあまりおらず、私はPCの画面と横目に席に着いた。
Aは私の向かい合わせに、足を組んで座った。
ちなみにこの日Aの上司たるマネージャーはお休みだった。
「昨日から一晩、○○さん(私の名前)になにを言おうか考えていたんだけどずっと。
一晩中ずっと」
(続く)

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2005年1月11日 (火)

So-netよ宣伝する前にやることあるだろうよ

Yahoo!トピクッスにあった古田選手のブログ宣伝見たときからイヤな予感がしていたが。
やはりサーバー落ち…。
宣伝するよりも先にやることあるんじゃないですかね?

宣伝しながらサーバー落ちって悪い冗談ですか。

コレって大借金してるヤシが新車買うようなものではないですかね?

しかも古田選手のブログだけ特別に見られるみたいだし。

ユーザーに対して説明義務があるように思うのですが。

追記 悪口バージョンをコチラ(http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-01-12-3)に書きました。よろしければどうぞ。

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2004年12月16日 (木)

So-netブログ撤退者続出…。いっちまうのか…orz

いつも読んでいた、Tivoliさん(http://blog.so-net.ne.jp/cgi-bin/)くまぞおさん(http://blog.so-net.ne.jp/torischool/2004-12-15)に続き、ついに、164氏(http://blog.so-net.ne.jp/hibiare_hy/2004-12-16)まで…。

まるで沈没しかける船から逃れるかの如く撤退者続出。

しかもいずれの主な理由と考えられるのが

「So-netは重い、使いづらい」

好きで読んでいたブログがこんな運営上の理由で撤退されるのは正直辛い。

アクセスカウンタも少しよくなったと思いきや、またおかしくなっていたり。So-net側に本気でなんとかしようという気があるのか、正直疑ってしまう。改善点を指摘しても一向によくなる気配がないのでは、「まあ仕方ないか。いつか改善されるだろう」と気長に待っていた利用者も嫌気がさしてしまうだろう。新しいスキンが追加されない、さりとてスキン編集もできない。利用したいときにも重い。せっかく投稿しても重いとはじかれてエラーとなり、投稿文がまるまる消える。まるで利用されるのを拒むかのようだ。β版利用者は人柱か?

楽しみを取り上げる権利はSo-netにはないはず。

少しでも使い勝手よく、利用者の気持ちにたった改善を望みたい。

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2004年12月11日 (土)

アクセスカウンタだけど

 

 

0:58でこれはおかしくない!??

 

 

まあ、さんざガイシュツな話なんだけど。

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2004年12月 9日 (木)

管理ページ変わりましたね。そこで更にもう少し

こっちでもすこしふれたんですが、あまりにも記事内容と関係ないので独立させてみました。

管理ページ変わりましたね。PVが表記されるようになってました。

記事のトコロのPVがなくなったのと同時に。(あのテーマカテゴリ内の記事一覧についてたPVはホント意味なかったと思う。何人読んでるか知ってどうすると思ってた。なくなって一安心。)

あとはアクセス解析などができるようになればいいのですが。 (HTMLいじれるようにしてソースに忍者導入できればいいのだけど…。とにかくどっちかをできるようにしてほしい)どなたかも書いてらしたけど、一日○○アクセスと表示されていても、何時から何時までか曖昧で参考にはならないです。(0時を少し過ぎた段階で200ぐらいあった時も。いくらなんでもそれは嘘だろうと思った。)総アクセス数もアテにしてよいのか…。

それと前々からリンクを貼った際に、文字の色が変わるだけではわかりにくいのではないかと思ってましたが、みなさんどうなんでしょうか。なぜアンダーラインを表示しないのか、気になっているんですが。

nice!機能がSo-netユーザーだけ利用できるので、外部の方に別ななにか機能を設けるっていうのは考慮なしなんでしょうか。ユーザーじゃないけどこの記事に賛同した、っていうのはあると思うんだけどなあ。

しかし開発チームのブログが出来たのは(・∀・)イイ!! 今後に期待ageです。

相変わらず重く、一番アクセスが集中するときにつかえないという、最悪の状態をキープし続けているSo-netブログ。

明日はあるのか!?どっちなんだ!?

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2004年12月 8日 (水)

公開私信(私宛ブログを書かれた方へ)

前略

ブログ拝見致しました。

どうやら無茶なことをいろいろと申していたようですね。スミマセン。

前回、私は「ブログとは何か定義づけるために論争しろ」と書いたのではなく、ある種の「ブログとは何か」という論争まで発展すればいいな、ということを書いた次第です。

この辺の食い違いを例えるならば、ご飯食べる?どうやって食べる?と尋ねたところ、ご飯とはうるち米を主原料とする白米を主に用い、そのうるち米としては新潟地方の魚沼産こしひかりが有名である、と答えられたようなモンですな。

ブログを書くと言うこと、自分が書くということにどう考えているのか、どう向き合っているのか、それを問うておりました。

なぜブログを書き、なぜ書いたモノを人の目に触れさせたいのか。それは自分がナニを考え、どう思っているかを誰かに知って欲しいと言うことに他ならないのではないですか。「どーでもいい」という姿勢を“突き放した姿勢”ととらえているようですが、それは「突き放す」という意味をスタンリー・キューブリック的にとらえるならば、「どーでもいい」は突き放すという語ではなく「責任をとらない」という姿勢にこそ当てはまるような気がします。自身が垂れ流した言説に対し末尾に「どうでもよい」と付け加えることによって、「本当はオレこんなこと思ってないし、たいした意味はないのですよ」というポーズ、逃げの姿勢になってしまうのではありませんか。

文章を拝見していると、議論というのは、結論をつけるもの、と認識されていらっしゃるようですね。ならばこの場合の結論は決着、つまり優劣または正誤を付けると文脈上とらえられるのですがどうですか。

議論して結論なんかでるんでしょうか。または決着を付けたり優劣を競ったりするものではないと思います。落としどころ、あるいは意見をたたき台にした次の命題らしきもの、そして話し合った各人が自分の意見をより深く建設的に変える為に、議論したり論争したり話し合いしたりするんじゃないでしょうかね。

相手の中に入らず、自分の安全圏にいて文章を書きつづっても、それは受け入れられず十把一絡げなままでは。その姿勢はつまりアナタが批判した人々と同じではないかと思われますがいかがでしょうか。

長々とお書きしました。乱文乱筆失礼しました。

追伸

最後にアナタ様へヴェラ・リンの「また会いましょう」を捧げます。

では。

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2004年12月 6日 (月)

くまぞお氏の<文章の説得力の向上>によせて

自分で書いときながらアレですが、いや、実につまんねぇタイトルだな。才能ゼロですな。

正味の話、つい先日まで“才能ある”と妄想してましたが、ロリポおじさんの言葉責めの前にマインドコントロールが解除されました。ありがとう!ロリポおじさん!

さてくまぞお氏のブログでも触れておられましたが。

このSo-netブログはできて日も経ってないのに、すでにある種のカラーというか、ある種の雰囲気というか、そんなものができあがっているような気がします。So-netというブランド力かなにかはわかりませんが、皆さん非常に上品な文章でいらっしゃる。

まあ私の文章など、このSo-netブログにおいてお目汚し以外のナニモノでもないわけですが。

一日に何十件「はじめまして」という題のブログが作成されているのだろうかと、私も日記雑感の箇所を読んでいてそう思います。自分にnice!つけまくりな方とか、ゲームの話ばかり一言で終了という方、自分の日々鬱屈するものをひたすら吐きだしている方。そういうブログに触れれば、もっと工夫しろよ、そう言いたくなるとは思います。それはその通りでしょう。おっしゃるとおりです。

であるならば、やはり「工夫しろよ」と言い出した当人に対し「お前はどうなんだYO!」と返す刀で袈裟懸けに斬られても仕方ないと思うのです。そこで言葉が言葉を生み、議論がはじまり、論争になる。

論争それ自体は悪くない。大いにすべきだと思います。

皆さん非常におとなしく、衝突を嫌うというか。論争=罵り合いと思ってらっしゃるのか。結局「工夫しろよ」と言い出した本人であり、くまぞお氏が批評された先の方も、大きな論争、ある種の「ブログとは何か」という論戦まで行かずに矛を収めてしまわれました。つまらんのぅ。

あえていうなら、そうそうオリジナルな考え方(あるならイッちゃっている人か天才かどちらかでしょう)なんてあるわけないし、例えば海外へ傭兵に行ったとかイラクで人質になりました、といった“波瀾万丈が常に転がっている日々”なんて送っている人、あまり多くないような気がします。であるならば、日常をただ書きつづるだけでは、どうしても面白みが薄いのではないだろうか。一つの事象に対して、斜めに見ているつもりでも、すでにその考え方は誰かが提示していた、ある意味輿論形成されているものである可能性の方が高い。そこをふまえて、書くという主体を維持するか否か。

私は、私の書いた文章など誰も読みたいとは思ってない、と考えてます。読まれる価値のあるものだとも考えてない。当たり前の話ですが。文章を書いてブログに載せる、という行為は単純に自己満足に過ぎない。カラオケみたいなモンです。客観性と謙虚さに欠けた文章ほど、書きたくないモノはない。

だからこそコンナ私の文章を、読んでくださった人、TBくれた人、コメントくださった人、nice!をくださった人、“読んでるよ”カテゴリに当ブログを入れてくださっている人、に対し、感謝と申し訳なさとそれから“もうちょっと面白いもの書いて、喜んで頂こう”という気持ちを抱くわけです。故に自分の書いた文章には愛着があり、私なりの考えがあり、もし批評批判されたらその人と論戦をしたいし、弁証法ではないけれど、その上でもう少しイイものが書けるようになればなおよい。

どんな文章であっても、ネット上で公開する以上、批評批判、論戦になるのを覚悟してアップロードすべきではないか。

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2004年12月 1日 (水)

いい加減にしやがれ、と言いたくなるこの重さ

なんですかこのエラーエラーエラーは!!

激重。鯖落ちしたんか?と思うくらい。

表示されないことはしょっちゅう。

11/30付けで

【障害情報】ページが表示しにくい現象について

と発表されたけれど、コチラが欲しいのはお詫びじゃなくて、もっとつっこんだ具体的な改善案であり、それを出して欲しい。

今もテスト期間なのか?と思うほどです。

それとなぜSo-net blogの最新情報をお知らせする」というブログで

トラックバックやコメントを受け付けないのか。

例えばトラックバックやコメントを受け付けることによって

利用者から改善要望などがだせる、そういう風になぜできないのか。

不具合のお知らせにnice!付けるって悪い冗談ですか?

つーかそれしか機能がない、そこが大きな問題ではなんだけど。

 

(12/9追記) ようやく開発チームブログができましたね。今後はこちらに要望等をだしてほしいということ。とりあえずは安定した運営をお願いしたいです。読みたいとき、書き込みたい時に鯖落ち、閲覧不可なんて悪い冗談以外の、ナニモノでもありません。

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2004年11月29日 (月)

ちょっとした感想

出来たばっかりなので仕方ないとは思うけれど
気になったことを二、三。

なんでこのサイト、こんなに重いの????

サーバが落ちたのか?って思うときもあるくらい激重。
実際にエラーとなったりする。

それとアクセス解析が簡単すぎる。
せめてリンク元統計機能はつけてほしい。
それが無理ならスキン編集でHTML編集を可能にしてくれれば
忍者ツールのアクセス解析が導入できるのに。

あとスキンの数が少なすぎる。あとプラス10種類は必要ではないだろうか。

そのほか、これは不具合なのかも知れないがRSS登録しようとするとできなかったりする。

(外部サイトを登録しても、更新通知されてないみたいだしな…。)

せっかくnice!付けといった便利な機能など付帯していたり
スキンのデザインセンスもよかったりするのだから
もう少し利便性が向上されれば…と欲がでる。

ブログサイト後発組は独自機能付けが難しいとは思うけれど
利用者はなにも特別な機能がついていればよい、とは思わないような気がする。
画面がスグニ表示されて、画像うp処理、文章編集が簡単で、
スキンの種類が多くて、アクセス解析ができて…といった、
使い勝手さえよければいいのだ。それが一番難しいとは思うが。

始まったばかりで致し方ないとは思うが、頼みますぜ。So-net様。

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