まずは以下の記事をお読み下さい。
ジェンダーはフリーになるのか―ジェンダーフリー理論の曖昧さ(1)
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-05-31-3
男でも女でもなく私は遠くへいきたい―ジェンダーフリー理論の曖昧さ(2)
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-06-02
上記記事に寄せられた反論記事はこちら(macska氏)
ジョン・マネーの正体、実は「アンチ・ジェンダーフリー」派
http://macska.org/index.php?p=90
未読の方は大変お手数ですが、以上3点をまずお読みになってから、以下の記述にすすんでください。
まず、反論記事ですが、私の名前が間違っているのは置いておきましょう。ちなみに留守番の「留」じゃなくて瑠璃色の「瑠」です。通常るりこを変換すると“瑠璃子”になるんですが、まあ変換ソフトもさまざまなので(IMEとATOKで動作確認済み)。
記事を参照しつつ、問題点を列挙していきます。(引用部分は赤字で記します。)では冒頭部分から。
まず上から順に取り上げていくけれど、「マネーの理論をフェミニズムが同意したことはない」とまではわたしもさすがに書いていない。
私が「ジェンダーはフリーになるのか―ジェンダーフリー理論の曖昧さ(1)」という記事の中でとりあげた、この批判に該当する部分は「ブレンダと呼ばれ少年の政治利用は間違い」http://macska.org/index.php?p=84の記事とコメントです。以下はその引用。
しかし、言葉の意味すら確定されていない「ジェンダーフリー」はともかく、ジョン・マネーの理論がフェミニズムの「理論的支え」であるというのはもちろん間違い。性別という現象が単に生物学的に説明できるものだけではないことはマネー以前からもフェミニストだけでなく文化人類学者や社会学者らに認識されており、マネーが行った最大の貢献というか影響は「生物学的性差=セックス」から区別されたモノとして「ジェンダー」という言語学の用語を援用したことだけれど、仮にマネーがいなくても別の言葉が考案されていたはず。
で、これをうけて、私は前掲した自分の記事の中で
マネーの理論をフェミニズムが同意したことはない、そもそもマネーはフェミニズム嫌いだった、と書いている人がいたり。
としたわけである。語弊があるというなら訂正いたします。失礼いたしました。申し訳ないです。
ただその上であえて書き続ければ、マネーの理論は直接的にはフェミニズムと無関係であったということだけれども、その「ジェンダー」という用語をうまく拡大利用して社会構築的立場を宣伝してきたのではないだろうか。双子の症例を上野千鶴子教授のように理論補強に使ってきたのではないのか?ミレットやファイヤーストーンという方の文章を提示されているが(ケイト・ミレットは1970年に刊行された「性の政治学」でマネーが1950年代に書いた論文「心理・性的分化」を引用してますね。)私はマネーを、その双子の症例と性心理の中立説を利用したフェミニストについて言及しているのであって、それ以前にジェンダーについて言及した研究者の話を引用しても、それはあまり意味がある行為とは思えない。なにか齟齬があるようなので再度書くが、私はマネーがジェンダーという理論を構築した、とは全く書いていない。いままでボーヴォワールなどが提唱していた理論を補強するためにマネーの“症例”を引用していたのではないのだろうか。(彼自身の信条考えなどはおいておいて)そしてそのことと―理論補強に双子の症例を引用した、ということと、ジョン・マネーはアンチジェンダーであった(ちなみにこの「ブレンダと呼ばれた少年」にも、彼がアンチジェンダーフリーとでもいえるような信条の持ち主であったことは書かれている。)ことはどういう関係性を生じているのだろうか。そもそも私はマネーの理論とフェミニストの関係性については言及しておらず、マネーの“双子の症例”を自らの理論補強に引用したフェミニストについて言及しているのだが。であるので反論記事にある以下の箇所も的外れといえる部分といえる。
保守派の論客はどういうわけだか気付いていないようなのだけれど、「男は男らしく、女は女らしく」という主張とマネーの理論は必ずしも矛盾していない。ただ単に、その人が男なのか女なのかは生物学的な性と一致しているとは限らないとマネーは言っているだけだ。すなわち、マネーの理論は「ジェンダーフリー」ともフェミニズムとも無関係であり、ただ単に「性同一性障害」の存在を医学的に説明するだけのものでしかない。
とゆーかさ、それぐらい自分たちで調べろよ、保守論者たち。
2002年にもなってマネーに騙されたままの上野教授と同じくらい怠慢だぞ。
保守派の論客といっても、西部邁氏や小林よしのり氏というような親大陸派から西尾幹二氏といった親英米派のような方まで幅広い。(フェミニストの論客と同様に)ジェンダーの定義などに関してはかなり詳細な定義付けをこちらに迫るのに対し、「保守論者」というあまりにも大雑把なくくりをご自身で用いられるのはいかがなものか。であるが故に、どの保守派の論客と思われる人物が、どう気づいていないようなことをいつ述べたのか、その実例をあげていただかないと失礼だが同意はしかねる。そして無関係であるものを流用し自らの理論補強にしていたフェミニストたちは、そのことをどう総括されていたのだろうか。もしそのことをご存知ならご提示いただきたい。私自身の勉強になります。それとフェミニズムの理論はともかく、現実の日本のジェンダーフリーの動きについて、どう考えているのか。自治体でジェンダーフリー政策をすすめているところは多い。例をあげるならば、学校で名簿順を男女別ではなく単なる五十音順に変えたり、トイレの表示を男女差のないような形にしたりといったことや、あるいはこの記事でも触れたが、香川ジェンダーネットなどで「0才からのジェンダー教育推進事業」としてワークショップなどを開催している。彼らがどのような理論を元に事業を進めているのかは正確にわからないが、結果としてその症例に依拠して勧めているということになるのではないだろうか。mascka氏がいうように『言葉の意味すら確定されていない「ジェンダーフリー」』という概念を行政側が積極的にとりいれていることに問題はないだろうか。確定されていないならば自治体がおのおのの解釈で事業を推進していることになるからだ。それは行き過ぎではないだろうか?
私自身、今回ご指摘をいただき、よく読み返せば、記事を書いた当初、ざっと読んでしまったために誤読してしまった部分があります。そのことは心からお詫びいたします。「読んでないのがまるわかり」と書いてしまったYOKOさま、大変失礼いたしました。申し訳ありません。
そしてその上で問題点を指摘したいのだが、
じゃあ Yoko さんが何を言わんとしていたかというと、産経新聞などが盛んにコランピント氏の肩書きを「ジャーナリスト」と紹介することに対し、あれはジャーナリストなんてモノじゃなくて単なるフリーランス・ライターであるという部分を強調するために、「そもそもあれは基本的に音楽雑誌でしょ」と指摘しているのだとわたしは解釈している(もちろん音楽分野専門のジャーナリストというのだっているだろうけれど、この場合それにも当てはまらない)。しょうもない揶揄と言えばそうかも知れないけれど、「こんな話題を取り上げるわけがない」と言っているわけではないという点ははっきりしている。
果たしてジャーナリストとフリーライターにどのような差があるといいたいのだろうか。その部分が私には全くわからない。ジャーナリストよりもフリーライターの書くものが価値が低い、ということなのだろうか。それは職業差別ではないだろうか。そういうことで揶揄するというのは自らの言説を下げる行為ではないだろうか。ジャーナリストと名乗る連中もいかがわしいものは多い。なにせ高級紙よ日本の良識を代表する新聞よと自負する某新聞は、捏造、誤報で他紙を大きく引き離すアリサマなのだから。
次、留璃子さんは「本書を読めばわかるのだが、上野千鶴子は自らの理論補強に双子の症例を引用している」と言うのだけれど、そんな事分からない。わたしの持っている版(米国ハードカバー版)にはそんな話書かれていないし、あの記事が書かれた時点で入手可能だった日本版にだって多分載っていないはず。おそらく、新版の「解説」あたりでそう紹介されたりしているのかも知れないけれど、コラピントによる本文に書かれておらず、つい最近発売されたばかりの最新版にしか載っていないような事を当たり前のようにして「本書を読めば分かるのだが」と言わないで欲しい。
この箇所がどうにも理解できなかった。なぜなら私がアノ記事を書いた時点で一般書店に該当記事文中で本書とした「ブレンダと呼ばれた少年」は流通していたわけで、(現に私は飯田橋にある書店で購入した。)容易に手に入る状況であった。ここで本書といっているのは、冒頭にも提示している通り、扶桑社から出版された「ブレンダと呼ばれた少年」なのだから。私が買った本屋では立ち読みが出来るぐらい平積みされていた。私が、日本の東京というところで暮らしているのは、おそらく他の記事などを読めばわかる(新聞記事として引用している多くは東京版)わけで、ならば、“いまここ”として定義しているのは当然ながら日本の東京ということになる。そういう意味で今後は「私がどこにいるか」を明記しないといけないかもしれないけれど。この記事を書いているのは日本の東京です。
それから、上野さんが引用したから何なんですか? よく分からないのだけれど、フェミニズムというのは上野千鶴子をトップとするピラミッド型の組織か何かとでも考えているわけ? そりゃ確かに、マネーの報告は大々的に宣伝されたから、間違ったことを事実と信じ込んでしまって引用した人は上野さんに限らずたくさんいます。どこかで読んだ話によると、上野さんは2002年に出版された本で未だに「双子の症例」を引用していたそうだから、それは研究者として確かに怠慢かもしれない。でも、そうした責任は上野氏本人に問えばいいわけで、わたしに言われても困るのね。そりゃもし、上野さんが「マネーの双子の症例なんて一度も使用したことがない」と言ったら問題ですよ。だけど、上野さんがマネーを「引用した」ことについて、上野さん以外のフェミニストの責任を問おうとする留璃子さんの論理は、いくら「素直な感想」とはいえ無茶苦茶。
先ほど、「こんなこと私はいってない」とmacska氏に批判されたが、返す刀なようで非常に恐縮する。私は上野千鶴子教授がこの双子の症例が明らかに間違いであったことが1997年にダイアモンド博士の論文により明らかになったにもかかわらず、2002年に出版された「差異の政治学」の本でも、双子の症例を引用しているから問題としただけである。それがなぜ上記のような記述に変化するのか。非常に理解に苦しむ。私の記述のドコに「フェミニズムというのは上野千鶴子をトップとするピラミッド型の組織か何かとでも考えているわけ?」という部分に該当する記述が私の記事文中のどこにあったのか、指摘していただきたい。そして上野千鶴子氏をなぜとりあげたかといわれたら日本では非常に有名な論客であり、日本でイチバン難しいといわれる大学のひとつで教授をなさっており、そしてその立場でマスメディアに登場し言説を展開されているからだ、ということがいえよう。そしてなにより、先に述べたとおり、2002年になっても、双子の症例が明らかに間違っていたことがわかった後でも、理論補強に使用してたことが明白だからだ。「わたしにいわれても」、とおっしゃるが、私は上野千鶴子教授に問題だといっているだけである。それこそ本書―「ブレンダと呼ばれた少年」を読めばわかるのだが。その上で私が総括すべきというのは記事文中
少なくとも、過去の著作において双子の症例を引用し、理論補強に用いたジェンダー論学者は、自己批判するか総括はすべきだと思う。それが都合よく政治的に利用され続けたブレンダ/デイヴィッドに対する責任であると私は考えている。
にもあるとおりである。これのどこが無茶苦茶なのだろうか。この文章の中で、無茶苦茶とmacska氏が思われる論拠をよろしければ提示いただきたい。私は「過去の著作において双子の症例を引用し、理論補強に用いたジェンダー論学者は」と定義している。macska氏が意図的かそうでなく誤読したのかは不明だが、定義している以上、それ以外というのは誰をさしていると思われているのだろうか。そして上野氏以外の「双子の症例を引用し、理論補強に用いたジェンダー論学者」に自己批判と総括を求めるのは、「都合よく政治的に利用され続けたブレンダ/デイヴィッドに対する責任」であるとはmacska氏は思われないのか。この上野千鶴子教授の行為をmacska氏は如何お考えなのだろうか。正直、macska氏が「保守派の論客」とどなたかのイメージで語られるのと同様に、フェミニストの論客という形で上野千鶴子教授をイメージされる方は多いのではないだろうか。マスメディアへの露出も多く、著作も多い。社会に対する発言力も大きいといえる。そういう意味合いでは彼女の誤謬は非常に責任が重いのではないだろうか。それこそmacska氏が「保守派の論客が」とおっしゃられたように「だからフェミニストは」という十把ひとからげに扱われかねない。そのことに対し、フェミニストの方々はなにか行動を起こされないのだろうか。例えばジャーナリストの本多勝一氏の著作に誤謬が見つかった際、彼のファンであった方が公開質問状を出している。そうしろとはいわないけれど自らの運動に信頼性をもたせるためには、そういった行動も必要とはいえないだろうか。
そして最後にどうしてもこれだけは指摘しておかねばならないだろう。
えぇぇぇーっ、ゲンロンのジユウですかぁ? 最近ネット上でウヨク的発言する人たちの論法がかつてのサヨクのそれとそっくりであるという点は笑えるのだけれど、そういえば最近なんばさんに頼んで訂正してもらった「はてなキーワード」の「ジョン・マネー」の項の古いバージョンでも「フェミニストによって巧妙に隠蔽されてきた」とか「学会や出版界に圧力がかかり、ひたすら隠蔽されている」とか書かれていて、トンデモ陰謀論扱いしてしまったのだけれど、圧力があったという話は結構広まってる様子。しかし、「私個人の推測ではない」と言いつつどこにも何の根拠も証拠も書かれていないのが気になる。
そこで、「ブレンダと呼ばれた少年」に「圧力」「隠蔽」「検閲」みたいな単語を加えていろいろ検索して圧力論を主張あるいは宣伝しているページの記述をいくつか収集し、連絡先が分かる相手に対してはメールで「圧力論の根拠は何か?」「他の人から聞いたのであれば、どこの誰から聞いたのか?」と質問してみたのだけれど、これまでのところ回答は一切無し。この「言論の自由が勝った」を書いた TAKA さんという人は、「サヨク陣営」の圧力を批判する文脈で「多様な言論」の「ぶつかり合い」こそが必要である、とまで書いているのに、全然ぶつかって来なかった(笑)
結局ブログってのは、どこまで行ってもあらかじめ似たような意見の持ち主だけが集まるモノなんだろうか。これまでも何度か、意見が対立しそうなブログにトラックバックを送ってみたり、「ミーガン法」のまとめサイトでは「ミーガン法肯定派のまとめサイトがあれば相互リンクしよう」とまで言ったのだけれど、ほとんど何の反応もないんだもん。つまんなーい。
以上の箇所を読み、私は、申し訳ないが、反応を求めるにも、それなりの対応が必要であると、思われた。大変失礼ながら「最近ネット上でウヨク的発言する人たちの論法がかつてのサヨクのそれとそっくりであるという点は笑えるのだけれど、」とソースもなく提示されても、同意はしかねるし、このようなある意味挑発的とも思える揶揄(もしくはレッテルをはる)の仕方をされれば、冷静な議論を行いたいと思えなくなる恐れはないか。例えば、私の名前を記事文中において延々間違えていることでも、ある見方をすれば「冷静さを欠いている」(私の文章をよく読んでない、誤字をないよう自身が書いた文章を読み返してはいない)という指摘を受ける恐れがある。対話をしようと望むならそれ相応の姿勢がお互いに求められるのではないだろうか。「つまんなーい。」という感情的とも受け取れる言辞をさしはさむ前に(つまらないというのは感情の発露といえる。相手の対応が面白いかつまらないかで判断すべきことなのだろうか)、自ら再考される余地があるように見受けられる。これは私自身にも言えることであるが。
長くなってしまったので、今回の訂正点、問題点を整理し列挙したい。
訂正点
・コメント欄の発言に対して「音楽誌でこんな話題取り上げるわけがない、と読んでいないことがまるわかりのものもあった」と述べた点について
・マネーの理論をフェミニズムが同意したことはないとmacska氏が記述したと読み取れるような文章を書いた点
以上の箇所についてはこの記事を持って訂正といたします。以前の記事にこちらのURLを添付し、もって修正とかえたい。
macska氏の反論記事中にある問題点
・マネーの学説は直接的にはフェミニズムとは無関係と言っても、その「ジェンダー」という用語をうまく拡大利用して社会構築的立場を宣伝してきたので はないか?双子の事案を上野教授のように理論補強に使ってきたのではないのか?
・コラピントについて、ジャーナリストとフリーランスライターをここで区別することにどのような意味があるのか。コラピントが信用するに足る人物ではないということか?
・「つい最近発売されたばかりの最新版にしか載っていないような事を当たり前のようにして『本書を読めば分かるのだが』と言わないで欲しい」とあるが、こちらではこの最新版が発売されたばかりで容易に手に入る。それ以前の版は絶版なのだからすぐには手に入らない(もちろん図書館等にいけばあるだろ うが)。今、入手できる最新版には上野教授が双子の症例を引用していることが明記されているのだから、「本書を読めば」と注意書きすることは問題ないのではないか?ここで本書と言っているのはまさしく発売されたばかりの最新版のことなのだから。
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