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2007年5月31日 (木)

リメンバア・ミィ(ふつうならそんなことしないよ。)

ここのところ眠れないのだ、とミッチェルに話した。手羽先の脂でぬめる指先を舐めながらそんなことをいっても大して説得力が無いのは分かっている。スコスコし過ぎだよ、とあっさり返されて「はぁ」としかいえない自分がかなしい。

どうも最近、誰からもやわらかい扱いを受けていないものだから、草木がしおれるようにゲンナリしている。なんとなくしっくりこない。たぶん大きな要因として彼に冷たくされているというのがあるのだが。目を見ずに会話するようになって、果たしてどれほどになるのだろうか。彼は私を捉えない。行きも戻りも自由で、それは放牧なのか放逐なのか。私には触れようとせず、電話にもでない。メールの返事もない。隣にいたのは、誰だったのか。

だが果たしてそれが事実なのかとなるとひどくあいまいで、不確かだ。もしかすると、梅雨の訪れとともにおそらく私が鬱に襲われているだけなのかもしれない。悪夢と現実がない交ぜになっているだけかもしれない。だいたい今日が何日で何曜日なのかも、実際のところおぼろげでよくわかってないのだし。

新しいのができて以来、自分が決めているやるべきことをまるで放棄してきた。例えば毎日映画を見るとか、毎日ジムへ行ったり走ったり、あるいは菜食主義(というかマクロビオティック)とか。やるべきことをやらずにいる日々は相手を恨むよりも自分に対する情けなさへの悔恨へ還元されるだけだ。蓄積されたユーツは私の喉元を締め上げ、明け方、日が窓から差し込む前に、強制的に眠りから嫌な汗と共に引き戻す。浅くクツクツと燻られるような眠りよりは、ひたすらおき続けているほうがましなのかもしれない。さきへさきへとすすみながら、道がただ袋小路へとつながっていることは熟知している、でもそこにしかいけないとしたら、さてどうしたらいいのだろう。

おととい、友達から手紙が来た。近況をアッサリと記した最後に「いますぐにでも全てを捨てて旅に行きたい気持ちだ」と書かれていた。私もどうやら伝染したのか、同じような気分の中に居る。どこへもいきたくないから、どこかへいきたいのか。どこにもいけないから、どこかへいきたいのか。さて、わたしがきえてしまっても、リメンバア・ミイ、あなたは私を思い出すだろうか?

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2007年5月30日 (水)

映画の感想は難しい

たとえば「千年の恋 ひかる源氏物語」あるいは「デビルマン」「北京原人」「キャシャーン」等々、あまりのつまらさに爆笑できるほど、あるいは怒りに駆られるような作品は、割合に書きやすいが、本当に感動した良い作品となると、とても難しいと、私は思う。
そういう意味で去年来ずーっと悩んでいるのが「ヨコハマメリー」。これほどの作品は、生涯そう出会えないだろうと思ってしまったが最後、書きづらいことこの上ない。書いては消し、仕上げては削除し、なお悩み現在に至っている。
おかげで他の映画を見ても感想が書きづらく(宿題残し症候群)大変困っている。いや私が困ったからといってどうにもなるものではないのだが。さて、いつ出来上がるんだろうか。既に半ば絶望的。

ヨコハマメリー

ヨコハマメリー

  • 出版社/メーカー: レントラックジャパン
  • 発売日: 2007/02/14
  • メディア: DVD

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2007年5月29日 (火)

「千年の恋 ひかる源氏物語」ダメコン総プリート映画の金字塔

○○映画会社○○周年記念映画とつくものにろくなものはない。

悲劇の歴史というのは繰り返されるもので、例えば東宝50周年記念映画といえば「幻の湖」だし、松竹100周年記念映画は「REX 恐竜物語」(安達祐実が大きい字で「具」と習字するラストが印象的)、角川映画30周年記念作品といえば「犬神家の一族」(リメイク)であるので、こういう系譜というのは「人間というのは学習しない生物である」というフロイト先生の遺訓を人類に啓蒙するための政府主導による一大プロジェクトなのかもしれない。(もしくは集合的無意識の存在をサイレントマジョリティに訴えかけるためのユングによる壮大な暗号計画なのかも)そんな与太話はアレですけれども、とにかくこの「千年の恋 ひかる源氏物語」はそんな狂った妄想をしてコペルニクス的転換を図らないことには、どうしてこの作品が日本国内はもとよりワールドプレミアなどとアメリカ様のお膝元で恥さらしをしなければならなかったのかが理解できない。絶対にこのプロジェクトは地球国家規模なんですよ。誰もが指摘しないなら私が指摘します(陰謀はセオリー)。世界規模のインモーボーボー論を展開することに必死過ぎてなんの話をしていたのか忘れましたが、そうそう「千年の恋 ひかる源氏物語」のことだった。。

ともかくこの「千年の恋 ひかる源氏物語」は、現在の日本が抱えるダメ映画の要素を全て備えた「ダメ総コンプリート映画」と自信を持って断言できる稀有なシロモノである。これに比べたらデビルマンはまだいいのかもしれない。主演がド素人だからと言い訳が効くし。北京原人だって、丹波が出たり、テンコーとか笑いどころもわかりやすく、なによりテンポがいいから目が離せない。いろんな意味で映画関係者、もしくは映画を作りたい撮りたいと思う人には必須かもしれない。大人の事情に陥るとこういうのを撮らされる羽目になるかもしれない、それでもあなたは映画を目指しますか?いい脅しにはなるだろうな。実録大人社会源氏編と名前変えるべきかも。閑話休題。

話の内容としては、紫式部の現在と彼女が語る「源氏物語」の世界が交互に行き交うわかりづら…いや、時間軸の交差する複雑な展開である。紫式部(吉永小百合)はぶんしょうをかくのがだいすきなおんなのこ。オヤジの転任で福井の片田舎に連れてこられ(どうでもいいがこのとき弟役の段田安則がどうみても息子にしか見えない)、妾として子供を産んだら海岸で海賊に娘を拉致されかけ(ジョニー・デップは助けてくれない)、その際夫(ケンワタナービがケツむき出しで熱演)を殺され、失意の中で途方に暮れて(いるようには見えないが脳内補完)いると、藤原道長(ケンワタナービ二役)に娘の彰子の教育係りに、と召抱えられ宮廷へ旅立ち、定子を養育する清少納言(森光子…)には負けんかいねと源氏物語を使って彰子を性教育という名の洗脳をし、意気揚々と地元に引き上げ、漁師と共に地引網をわっせわっせと(十二単を着たまま)ひいて終わる。多分これだけ書いても何のことやらさっぱり分からないと思うが、映画を全部見てもこれ以上の情報は得られないとここで断言する。いやマジで。

だいたいこの映画はどういうベクトルのどのような層をターゲットにしているのか、皆目わからない。森光子、吉永小百合、竹下景子とくればある程度年を重ねて詫びさびもののあはれを理解し始めた層へ絞っているのかと思えば、唐突に中山忍という、そういった層にはおそらく全く無名な女優がぽんとでてくる。光源氏を演じるのが天海祐希なので、ヅカファン目当てなのかと思えば、ミュージカルをひとり担うのは松田聖子だったりする。また高齢者層へ訴えたいのか、登場人物たちは一様に出番が来ると、私はだれだれですと名乗ってくれる。名乗ってくれなくても嗚呼あの人だなとわかるようにしてくれる。一例を挙げるならば、紫式部は「紫式部です」と名乗ってくれるし、清少納言は「はるはあけぼの」と朗々と呟きながら登場する。誠にもって非常に丁寧である。丁寧すぎて見る気をなくしてしまう程ではあるが、それも私のようなやたら映画に能書きたれたがる層は最初からアウトオブ眼中(懐かし過ぎて涙がでますな)だからと納得してみる。それはそうして納得してもだ、超ダイジェストで展開する源氏物語パートは、いくらなんでも、日本古典入門編としてみるにはあまりにも不親切だろうし、源氏物語マニアにしてみれば、語らなさすぎの割には明石の部分だけ妙に力が入っているので奇妙に思うしかない。原色を多用したCGは日本の伝統美術である琳派を意識しすぎて彼方のアンドロメダへ到着してしまい、日本美術を背負って登場している(はず)の絵師役鶴太郎の絵画は、彼が武者小路実篤的仲良き事は美しき哉手法以外ではまったく通用しないということをわからせただけだ。(里見八犬伝に登場する絵巻物のほうがよほどそれらしく仕上がっていたことを思い出すとひたすら哀しい)もっともあまりにも力量不足な彼が、なんでそんなご大層な役で出演しなければならなかったのか、その大人の事情はわからんが。

わからんつながりでいえば配役も謎である。

森光子と吉永小百合の共演に心躍らせ胸が高鳴る層っていったいどんなヒトビトであるか愚かな私には全く見当もつかないのだが、岡田裕介をはじめとする東映映画製作者にはなにかが見えていたのだろう。私も見てみたい気が若干するが、見えたら帰ってこれない気もするのでエンリョしておきたい。90歳ぐらいになって三途の川が目の前に浮かび始めたら見るべきかもしれない。そんなことはどうでもいいのですが、吉永小百合がオノレの皺を隠すためなら心を鬼にして演技をしない女優であるということはとりあえずよくわかった。森光子の肌艶と某アイドルタレント事務所における男性タレントの供給関係について考えてしまったがこれはアレとするも、ついこの間北京原人だった人が帝として御簾の奥に鎮座しているというのは、そこは反体制的な映画を数多く作る東映のこと、余人にはうかがい知ることができない深遠な理由があるのだろうきっと。天海祐希と常盤貴子の絡みシーンはどの層へむけたものかは如実にわかるけれども、竹下景子のオナニー姿となるとその需要はきわめて極僅かであるとは思うが、この前見た「聖獣学園」でも三原葉子御大が同じような濡れ場を演じてらしたのを鑑みれば、私のようなシロウトには分からない奥深いエロースの世界があるのかもしれぬ。そのように考えれば、劇中たびたび発せられる「ひかるさまに抱かれて鳩のようなお声でなかれます」「蹴鞠の鞠じゃないのよ」「殿方の考える愛は愛撫でございます」云々といった一見珍発言におもえる台詞も、「ゆとり世代」といわれる学習指導要領が減ってしまった世代に対し「想像力の大切さ」を力強くアッピールするために熟慮された名台詞なのか。どう考えても衛生的に問題があるとしか思えない細川ふみえの海中出産シーンも、少子化対策として「出産の大切さ」「衛生管理の必要性」「病院出産の重要性」を訴えるため、また、烏帽子をかぶったままのセックスシーンやら「不倫」「福井」「紫式部と申すのか」「愛」といった時代をはるかに逸脱した言葉遣いも、おうちにかえったらwikipediaでけんさくしてね!しまじろうとのやくそくだよ!という若年層へむけたものかもしれない。そうでないかもしれないが、そうとでも解釈しないと大きいのはいいからさ、こいつがおさまりつかねえんだよ、ということである。とまれ、ケンワタナービがGo to Hollywood!!!と思ったのは、この作品でただ一人、尻を剥きだしにされたことに端を発することはマチガイない。(男優にも人権を!!)そういう意味では記念碑的作品といえるのかもしれない。コジツケ?ムリヤリ?それがなに?俺達とんこう野郎ダメチーム!

まあなんですか、以上要約いたしますと、確実にいえることは、堀川とんこうはおそらく同じ古典ということで、ギリシア悲劇の様式で源氏物語を展開させようとしたに違いないということです。しかし源氏物語をギリシア悲劇でなぜ上演?なぜミレニアムを迎えたこのときに?しかしそれは天の意思(ハルク・ホーゲン)それはともかく、古典的ギリシア悲劇の上演方式に即していると解釈すれば、状況説明を全て登場人物の台詞で済ませる、仮面をかぶって演じる古来の伝統にのっとり能面のように感情をあらわさない女優陣、コロスのように歌って踊って劇中人物の感情を代弁する松田聖子等々という疑問も氷解する。ギリシア悲劇で読み解く日本の古典を世界に問うたのだと思えば、ワールドプレミアと称して海外で公開した意味が分かろうといふもの。ただ惜しむらくはそこがハリウッドであり、ギリシアの地からは遠すぎたことである。また、日本人の中にはギリシア悲劇の古典素養がある人間も少なかったということが本映画の低評価につながっているのかもしれない。そういう意味で堀川とんこうの目論見は外したとはいえるけれども、その「実験的精神」は多いに称えられて良いのではないか?私はいつの日か彼と見えるときがきたのならば、是非この点について熱く語り合いたい。「紫式部は後世つけられた名で本名はよくわかってないんですよ?知ってましたか?」

千年の恋 ひかる源氏物語

千年の恋 ひかる源氏物語

  • 出版社/メーカー: 東映
  • 発売日: 2002/09/21
  • メディア: DVD

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2007年5月28日 (月)

松岡農水相自殺!?

さっそくwikipedia松岡の項目は「ZARDのファンで後追い自殺した」と書き換えてられていた。(現在は修正)死者に鞭打つわけではないが、かわいそうになあ(ZARDの人が)。それにしてもムネオは本当に凄い。松岡なんて余裕で鼻あしらいできるほど疑惑追及されていて、なおかつ平然と議員やっているわけで、今なんてかえって外務省の悪を暴く!などと各マスコミにいたってはヒーロー扱いしているフシところもあるくらいだし。さすが北海のヒグマを死においやった男は違うね。

利権あるところに松岡アリなんていわれたり、“変わり身の早さ”(なんといっても狂牛病騒動のとき全頭検査をハンナンからの要請によって徹底抵抗したにもかかわらずノウノウと農水相になってしまうわけだし。これは悪い冗談としか思えない)を『鉄面皮』と称されたりと、世評は決して高くなかった御仁だが、これまで種々の疑惑を「力技」で乗り切ってきたことを考えれば、今回もそのまま乗り切れたはずなのに。既に後ろ盾がないのか機能してないのか。(まあ安倍内閣に入閣した時点でこれまでの野中ラインの幇助は期待できなくなっていたわけではあるが)

冥福は祈りつつも、あえて、だがそれと個人の評価は別である、と言い切りたい。今回、自殺という手段をとらねばならないほど、その「疑惑の闇」は深かったのだろうか。

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2007年5月18日 (金)

久本雅美交際発覚と例のナニについてアレコレ

昔、同じ劇団員だった吹越満と付き合っていたけど(すごく嬉しそうではしゃいでいた記者会見を覚えている)、広田レオナにとられて、以後シナノマチ路線まっしぐらだったような。当時は、広田レオナじゃしょうがないかも、とおもったりもしたもんだが、どっちかっつーと、祈伏祈伏また祈伏みたいなのに愛想つかされたんだなと妄想。

吹越は後に退団し、その後団長からなにから祈伏の嵐が吹き荒れ、ついにあの劇団は驚異のシナノマチ率を誇るようになった。いやもちろん、信教の自由は保証されているわけですし、まあアメリカのように広汎な労組組織をもたない芸能界においてはシナノマチが唯一の互助団体であるなんて島田センセあたりはおっしゃられているようですが、その側面は否めないとはいえ、現在のいつみても同じようなメンツ同じようなタレントがテレビ画面を構成している一因にもなっていると思われ、また入信と仕事がバーターになっているようにも見受けられるとなると逆に信教の自由を阻害しているともいえるし、問題は多いような気もするけれども。閑話休題。

大作戦さんの指示によるものか、あるいはお相手もシナノマチ幹部へのし上がるチカミチとお考えなのかわかりませんが、やらせっぽく交際発覚ですかそうですか。そのうち某政党から参議院選挙にでもでるだろうし、芸能界での地位も盤石なようで順風満帆な人生じゃないでしょうか。オメデトウゴザイマス。

それにしても、久本が「理想の母」アンケートの上位にランクインっていう報道が先日あったけど、冗談やめてくれ。朝から勤行に励まれちゃたまりません。お母さんは祈伏の鬼、なんてイヤソ。

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2007年5月17日 (木)

「嬉しくない味方」(伊勢崎のジャンヌダークは今日も無意味にお元気ですね)

助け舟がある、というのは有り難いものだ。

先日友人の誕生日にシーサーをあげようと思ったが。義務教育で美術の修練を終えた私にとって、それは思いついたはいいが実行となると果てなき難事業である。たまたま彼が美術系大学を卒業し、粘土造形好きだったおかげで、ほぼ思い通りの作品に仕上げることができた。

また左記のように直裁ではなくてもミッチェルのように、ある政治的な事柄に対して私が書く時に、専門職ならではの重要な示唆をくれる人もいる。そのため、賛否双方の論を考察することができ、私なりに深めた(または香ばしく醗酵させた、ともいう)論を展開することができたりする。

このように助け舟、または味方というのはたいていの場合有難く、嬉しいものである。私と同じような政治的立場の人から自分の論拠になるような資料を教えてもらったときもしみじみとした有難味を感じる。

だが、悲しいことに嬉しくない味方というのも存在してしまうのがまた人間社会というものだろう。そしてそういう「嬉しくない味方」に限って、悪目立ちするのだからたまらない。

さて若干話がそれるようだが、私は個人的には「南京“大虐殺”はなかった」という立場をとっている。なかった、というか、おそらくは市街戦より若干多い数字ではないか、と思っている。(秦郁彦氏と非常に近い立場といえる)犠牲者が出ているので、冷徹に話しすぎると人間性の問題とも思えてくるが、『「大虐殺」というには言葉が過ぎる、市街戦に市民が巻き込まれてしまった』といったおそらくはこのあたりが「妥当」ではないかと考えている。(大虐殺というのなら、まさに広島長崎がそれに該当する。当時の市民数から考えても現在中共が提示している数字はありえないだろう)上記のような立場をとり、また、従軍慰安婦についても「現在積極的な政府関与が認められる資料が見つからないのだから」政府による強制はなかった、という意見であると、右より称されることが往々にしてある。以前は、この手の意見は少数派であるが、小林よしのりの活躍やらネット普及もあって、特に珍しくもなくなってきたようだ。ネットを見ていても、ああなるほどとこちらの参考になるような意見を読むことも多い。ネットウヨクなんていう蔑称もあるようだが、十把ひとがらげに扱ってほしくないと常々思っている。「嬉しくない味方」が槍玉に挙げられ、「だから右は馬鹿ばっかりだ」と嘲笑されるのをみると、ひたすらむなしい。「嬉しくない味方」に向かって「お前は黙ってろ」と言いたくなることも多々ある。

でもって、「嬉しくない味方」は誰よ?って話なのですが、例えば八木ヒデジ(秀次ともいう)のような自称学者であったり、伊勢崎のドンキホーテ(あれ?)こと某女性市議会議員だったりする。それにしても意気軒昂だな伊勢崎の自称ドンキ、もといジャンヌダルクは。

「真っ赤な嘘」
http://blog.livedoor.jp/junks1/archives/50991771.html

こちらのエントリーで上記記事を知ったのだが、前回もさんざん叩かれたのに(詳細はリンク先参照のこと)、いやあ懲りてないというかなんというか。そんな事誰も言ってねえよという論拠をでっち上げて、それが否定されたからと怪気炎をあげている。このひとといい八木デムパといい、この手の論述が大好きだな。アレな人はアレな人なりにおとなしく黙っていればいいものを、デンパ受信八木といい、伊勢崎のドンキホーテといい、脳のオデキと反比例するかのように自己顕示欲だけは旺盛だから困ったものだ。ひっこんどけ、なんて言論の自由を阻害するようなことはいえないし。

とまれ左翼や一般大衆の皆さん、だから右翼はダメだなどとお願いですから言わないでください。特に伊勢崎のドンキホーテは、話のマクラに天気の話しかもちだせないようなレベルなんですから。そのあたりの事情をおして生暖かく見守ってください。ヲチるには最高の物件なのですから。

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2007年5月16日 (水)

どっちにしろ地獄の火の中に投げ込まれるわけですが(テレ朝丸川アナ参議院選擁立)

丸川アナ擁立ですか。自民党ではこのほか、サッカーの三浦カズも擁立に動いているようで。とりあえず東京選挙区から出馬する候補者は某候補によってじごくの火の中に投げ込まれることは覚悟されたほうがよろしいかと。(ということは無所属で出馬する東條由布子氏も…?)

こういう知名度やら主婦・庶民であることが売りの候補は決まって「当選してから勉強します」などというけれども、その間食えるのは誰の金だよ?と意地汚いことをいってしまいたくなる。あと「台所(or主婦)感覚で」「庶民感覚で」なんかもお得意な(=アレな)キャッチフレーズではある。目先のことにこだわる(例えば隣町のスーパーのほうが2円安いとか)ことを「台所・主婦感覚」だと思うんだが、そんな指針で国家予算動かされたらたまらんわい。目先の儲けを捨てても、国家の安寧を考える、それが前宰相のいった「米百俵の精神」ってやつじゃないのかね。

とまれ、いい加減こんな人気頼りの候補者やめたらどうだろうかねえ。

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2007年5月15日 (火)

女の「からだ」に男は興味がないのだろうか

この間彼と話していて驚いたのだが、彼は「女性の生理周期」というものをまるで知らなかったようなのだ。「ていうかどうやって知るの?」と聞き返される始末。「聞くとなると…母親になるでしょ?恥ずかしいじゃない」という。そりゃそうだけど、調べたりしなかったんだろうか、と思った。そもそもそういうのって教育されるんじゃないのかねえ?と思っていたのだが、どうやら当時の男子にはそういう女性の身体についての教育がなかった模様。今はどうか知らないけど。

そういう仕組みも知らないのにやることだけはやるっていうのは、それこそ生命を軽視している証左じゃないかね?と私は思う。これはどちらかというと、どこか「男は知らなくてもいい」としているフシが見受けられるこの「社会」について生じる怒りだが。出産にまつわる多くの原因が女にあるように言われてきた時代を、いまだに引きずっている人はまだまだ多い。女腹男腹なんていう言葉も、このDNAによる親子鑑定が当たり前のように行われている現代においても、いまだに使われていたりするわけだし。

そりゃ生理周期やら女性の身体に妙に熟知した男、例えば「いついつ生理だったから君の生理周期からすると今日から中だしOKだよね?」などといわれたりしたらそれこそぞっとする。でもそういう男と「生理と排卵って同時におこるんでしょ?」「そもそも排卵ってナニ?」というような男はあんまり変わらない気がするのだ。知りすぎていた男も困るが、無知すぎるのもごめんこうむりたい。生で入れた「から」妊娠するレベルの知識のみでセックスするような、女性の「身体」を知らない男が女を「理解」することなど、できるわけないではないか。

昨今性教育はたびたび問題視されている。特にジェンダーフリー的な思想をもった教師による「過激な性教育」が槍玉にあげられているケースが多い。私も「過激な性教育」があるとしたら、反対ではあるけれども、以前問題になった都内の特殊学級のケースは、いたしかたないという気がする。我らが西尾センセイなんかは「朝生」で「これが過激な性教育です!」なんて勇ましいことを言っていたけど、(例によって他者が反論できないように最後の最後でぶち上げてた)抽象概念が理解できない知的障害者にはほかにどう説明しろというのだろうか。こういったことから私は「過激な性教育」というのが本当にあるのか、正直疑問に思っていたりする。「過激」どころか、性教育そのものがきちんと行われているのかどうかもアヤシイ。「純潔」好きな宰相の影響でもあるまいし(いや自称ブレーンのヒデジが入れ知恵してんのかもしれないが)きちんとした教育がなく無知なのも、自己流調査で間違った知識満載なのもどうにかしてもらいたいものだ。

とまれ、性教育があるにしろないにしろ、依然としてそのあたりの話はなぜか女子だけを集めて腫れ物に触れるかの如く説諭されるというのが伝統らしい。そして「生産」されるのがなぜ生理がくるのかもわからない男というのなら、もうなにをかいわんやである。生殖教育ではなく、生命教育になればいいのに。なぜ生命が誕生するのか、なぜ自分が生まれてきたのかというのところを哲学的な部分にまで踏み込んだ上で包括的に捉える学習があってもいいのにな、と考えている。そこまでやらなくて行為だけ教えたら実践学派が生じるのもむべなるかな。「子供なんてセックスのおまけ」と考える輩が減ってはじめて、赤ちゃんポスト(こうのとりのゆりかご)の存在意義が問われてくるのじゃないですかね。「必要かどうかは考えるべき問題じゃない」って、マトモな性教育について考えることを忌避してきた人間が言うべき台詞じゃないでしょう。

さて、ジッサイのところどうなんですか?男性諸氏。まさか生理がなんでおこるのか、生理周期ってナンなのか分からない人っていませんよねえ…。

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2007年5月12日 (土)

BIGがある風景

※参考画像です。

さてさっさと寝ます。おやすみなさいハニーたち。

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辻希美「できちゃった婚」につきまして妄想

当方はハロプロについてはよく知らないし、モー娘。も「そういうグループ」が有るな、程度なので以下は全くの憶測妄想でございます。的外れとは思いますがざっくり考えてみた感じを。

まず第一の印象が、「ハロプロは加護をきりたかったのだな」ということ。正確に調べたわけではないが、なぜ昨年頃から辻希美×杉浦太陽という二人連れが「都内のあちこちで目撃された」にもかかわらず報道されなかったのか。そしてバーターになるのかのように、報道されたのは加護喫煙問題。こうなると、ハロプロは辻のスキャンダルを封じるために加護喫煙ネタをだしてきたように思える。

翻ってみれば、モー娘。や卒業組のCDセールスもそうそう好調とは言い難いのではないだろうか。かつてほどの勢いがあるとはどうしても見えない。モー娘。本体の力が弱ってきているところへ卒業組の躍進しているとは思えない状況。こういう経緯では辻希美がある意味見切りをつけたとしても十分理解できる。杉浦太陽の実家は不動産関連事業を展開していてそれなりに財産があると巷間の噂だが、それが事実だとしたらまさに渡りに船。母親になったとしても、石黒彩のように「ママキャラ」で復活する道もある。

だがハロプロ側はどうだろうか。辻希美でまだまだ稼げると踏んでいたら、逃すわけがない。仮説の上に仮説を通すようだが、もし加護の家族がうるさく事務所コントロールが難しくなっているのなら、どっちを切るかそれは自明の理だろう。そうして「扱いづらい」タレントは切られ、身代わりに「延命」したタレントが残った。しかしそれでは辻希美の気持ちはますます「不確かな芸能界での生活」よりも「安定した生活」へむかうだけではないか。

19歳という年齢は生理不順が起きやすく、タレントのようなハードワークならなおさらであると思う。そのあたりを加味すると、あのあまりにも早い4週目での妊娠発表は『避妊しなかったからできました』というよりは、事務所から離れる合法的かつ最終手段としての「出来ちゃった婚」だったように思える。もしハロプロの圧力で杉浦太陽が仕事がなくなったとしても、実家が前述の噂通りなら家業につけばいいだけなので問題はなかろう。そういう計算づくでもないと、辻を妊娠させあげくに降板などと、芸能界でもっとも嫌がられる「仕事に穴を開ける」行為を平然と行えないように思える。ましてや彼は一度スキャンダルに巻き込まれた身である。当然そんなことをしたら「事務所から干される」等の制裁を受けることは、彼にはわかりきってただろうし。

さて以上、推論につぐ推論なのであれですが。とまれお目汚し失礼。

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2007年5月11日 (金)

「それって、アタマ悪過ぎ」

たまに私のことを「頭が良いね」などとという人がいるが、そういう言葉は、単にいやみかなにかだと思っているので、一切気にしないことにしている。どっちかというと私は頭が悪いと思っているからだ。どういう風に頭が悪いかというと、すぐにチンマンコとか言い出す時点で既にアレですな。それはさておき。

さて、「頭が悪い」状態にも種類がある。まあ私のようにあまりにも根本的な部分で問題がある場合や、徳川幕府は平安時代に誕生した、というような基礎学力に欠けている人なんかは分かりやすいとは思うけれども(特に基礎学力不足な人は、アイドルなんかだと「天然」と言い換えられて、それはそれで萌えポイントになったりしますな)、厄介なのは、前後矛盾したことを平気でいい、それでいて他者をダブスタと批判したりする客観性がかなり欠如しているような人である。往々にしてこの場合は、周囲とは言語認識能力および使用する力量の差が顕著となり、本人だけが自覚できないがまわりは認知しているという図式に陥りやすい。また、そういう人は、他者の言質をとる、つまり誰かが発言しないと自分ではなにかを言うことができないという、本人の「問題」が発揮されるのが「誰かがなにかを発言した際」なので、かなりたちが悪い。具体的に指摘しづらく、したとしても例えば「空気読め」に代表とされる曖昧な表現しか思い浮かばないので、言語認識能力および使用する力量に差がある人(+客観性の欠如)は指摘されてもなんのことやらさっぱりだろう。なぜ「差があるのか」が分からないから問題なのであって、その差を理解させようとしても、病巣が「イギリスでおきたフランス革命」ばりにわかりやすくはない分、徒労に終わる蓋然性が高い。基礎学力が足りなければこちらも諦めがつくけれども、こうなってくると、話していてもお互いいらいらするばかりで、まったく先には進まないし、建設的な方向には進みづらい。困ったものだ。

この前、久しぶりに昔荒らされた自分のブログ記事を見て、炎上とかなにやらを少し考え見た。そのときは炎上までは行かなかったけれども、とにかく炎上させる人も、されちゃう人も、上記のような傾向が見受けられるのが面白い。「その結果他者がどう考えるか」という観点がまるごと抜けているのだ。まあ書き手/受け取り手の能力が問われないのがネットの良いところで、またいかがわしいと世論から認識されてしまうところなのだが、淘汰されたらつまらないとも思う。結局のところ大事なのはチョムスキーのいうように、情報を精査する能力なのだろう。なのに、その最も重要なところがどこか放置されすぎているように思える今日この頃。

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2007年5月10日 (木)

火曜の夜 君と帰る(ひかって)

都庁をまわって彼と帰った。

友達の、少し早い誕生祝いはなんとなくわやわやと闊達な時間とともに通り過ぎて、紹興酒も入れば気分よく、何曲か歌って外に出れば、湿気がいつもより多め。夏ほどむしむしするわけでも、梅雨のようなじっとりとねめつけるでもなく、5月の夜に柔らかく抱かれているようだった。街灯が膨らんで見えた。

駅までの道のりを、一駅遠回りすることにした。新宿西口から京王プラザ、都庁へというコースは、初めてであったとき歩いた道行だ。懐かしいと振り返るにはまだ早く、昨日のようにはもう思えない、今がそういう時期だから歩いてみたいというのもあった。夜がこんなにもしっとりと寄り添ってくれるのだから。

数ヶ月前は風が身を切るように私たちの間を通り抜けていったが、今夜はうってかわって穏やかな顔をさらしている。手をつないで、二度と戻らない時間を見つめながら、あのときと同じように。深夜に近いせいか、人通りは少ない。あの夜は私たちぐらいしかいなかったのに。

私の唇は強引に押し開かれる。彼の舌は容赦なく侵入し、内部から破壊しようとするかのように暴れまわり、私を食いつくそうとする。ガチガチと歯がなるような行為はずいぶん久しぶりだ。私を上向かせ彼は体ごとのしかかるようにして、さらに入り込もうとする。舌が吸い上げられる。引きちぎられそうだ。彼のと絡み合う。口の端から唾液が零れ落ちる。私のか彼のか、もはやわからない。身体の力が抜けていく。抱き寄せられた彼の手のひらの温かみに安堵しながら、私はおちる。

こっちだったっけ?と不意に彼が手を離した。指さす方を薄くみる。破られた白日夢はすぐに風にあおられてまぎれてしまう。どしたの?ポーッとして、と彼は微笑みながらポンポンと軽く私の頭を押さえる。くしゃりと撫でられて私も笑った。こっちは通らなかったでしょ? 新宿住友ビルから都庁へ、さらにその脇をとおり、中央公園まで。

都庁から新宿中央公園へぬける道は、かすみがかって輪郭があいまいになっていた。すれ違う闇に飲み込まれそうな、そこへたどり着いたら、もうこちらの世界には帰ってこれないような気がした。彼の手を握り締める。彼はニ三度その手を揺らして、大丈夫だよと教えてくれた。不用意に場を乱さないようにしてゆっくりと歩く。なにかを起こしてしまいそうだ。なにかがなにかはよくわからないけれども。向こう側から二人連れが静かに歩いてくる。すれ違う瞬間、よくある怪奇話のように、私たちの何十年後かの姿だった、なんてことはなく、少し上気した顔の、40歳代のカップルだった。中央公園では寝る人スケボーキングを目指す人ぴったりと身体をくっつけある男女、よくある光景だ。あのときよりもずっと夜に近い気がして、二人。ベンチの上で寄り添う男女を見ながら、あの頃のわたしたちみたい、と顔を見合わせる。彼らにも、今日の夜が、意味のあるものであることを祈った。

あっさりと公園を出てしまうから、つい、なんにもしないのねと意地悪く。だって人が多いじゃないか、と微笑みながら、顔を近づけられた。柔らかい感触が唇に触れる。もう一度、確かめてから私たちは別れた。なにもかも、終わりなき夜がはじまる。そのことを熟知しながら、また、明日、と。

起きて、昼。私は暖められた埃っぽい空気にむせながら、季節の変化を思う。夏の近さに誘われれば、あの曲を聴くしかない。「Enter The Mirror」。焦がれるような懐かしさを感じながらもEnter The Mirrorに彩られた夏は、あと少し先だ。ラリーズは裸で、そして私たちはまだまだ先の見えない子供だ。

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2007年5月 9日 (水)

家男の落とし穴

前回の続き。

生まれて二度目に付き合った男は家男+姉もちな人だった。彼の場合、マザコンはどうでもよかったんだが、このおねえさんが大変な人で、一度お会いした際、私と話しながらこめかみが始終ヒクヒクしていてかなりひいたことが発端だった。彼女はなんというか、弟がいなければ生きていけない人らしく(後日こう宣言されたことが本当にあった)私は不倶戴天の敵、邪魔者以外の何者でもなかったらしい。おねえさんがメンヘルだと思ったそこのあなた、ビンゴですわいなそうだわいな。ともかく、彼女は彼に連日「あの女と別れろ」と迫り、母親に「私の病気が悪化したのはあの女のせいだ」といい、ついには心労で彼が倒れて胃潰瘍となってしまった。彼女は弟をつれ親戚の家にいき、しばらく雲隠れしてそのまま連絡を取ることを禁じてやり過ごし別れさせようと実力行使に出たようだが、彼が私と連絡を取ってしまい、仲が復活してしまうと、今度は我が家に押しかけてきた。彼の母親が私の家族に「ウチの息子を返してください!」と叫んだときには、なんていうか、現実がリアリティを失った瞬間を実感する羽目となった。そして怒涛のおねえさんはウチに電話をかけてきて前述した自分の工作を知りたくもねえってのに得々と御解説くださった挙句「別れるってつらいことですよねえ」とおっしゃられた。人間、失いたくないものにしがみつくときは手段を選ばないんだなと、そのとき思った。

今でこそ笑って話せるけれども、当時はひたすら親に申し訳がなく、親不孝をそのとおり歩むオノレがどうしても許せず、鬱になったりリスカしたり、メンヘル街道まっしぐらとなってしまった。ようやく復帰した今でも、どうにも付き合う男の「姉」「妹」という存在が苦手なのだが、なぜか付き合う相手には「姉」「妹」が漏れなくついてきてしまう。もちろんいいかたばかりなので、だんだんと悪夢は払拭されてきたが、あんとに庵さん、怖いのはマザコンよりも「姉」ですよ。いやもちろん「女の一念」が一番怖いのだけれども。ガクブル。

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家男というレッテル

既に、旧聞に属する話題でございますが、気になりましたのでショウショウ。例によって例の如く、はてブでもりあがっているネタでした。

■[日記]実家暮らしの男が女性に嫌われる理由
http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20070429/p1

あんとに庵さんも書いておられる。

■[社会・時事]家男が嫌われる理由?
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20070430/1177897947

二つの記事を読み、さて私。実際のところ実家住まいの男、上記のブログで言及されているいわゆる「家男」と付き合ってばかりで、一人暮らしの男と付き合ったことは一度しかない。別に「家男」だけ選別しているわけではないが。そんな私でございますので「家男」じゃどうしていけないの?と思ってしまった。

「家男」とばかり付き合ってきたのは、たぶんわたしの居住地が都内であるということと密接に絡んできているような気がする。中高と一人暮らししている人は区立都立で進学するとあまりいないし、大学では付き合わなかったし、その後も付き合うのは都内およびその近郊に実家がある男ばかりだったので必然的に家男となる。つまり地方出身者と知り合うか知り合わないかという部分が重要になってくるのではないだろうか。男だ女だ式に乱暴にぶった切ってしまえば、男は合理主義者が多いので、都内勤務+都内23区内に実家があれば、なんでわざわざ一人暮らしするのよ?みたいな観点になる人もいるだろう。所帯じみた話をするならば、実家に住めば家賃分、貯蓄も出来るだろうし。

確かに一人暮らしの男というのは、あんとに庵さんがいうように、女を気兼ねなしに連れ込めたり例の「ふたりのじかん」というやつを支障なく(女の事情が許す限り)いつまででもまったりできるので便利といえば便利だろう。だが反面、一人暮らししている男がみんながみんな料理をするというわけではないので、下手すると家事をやらされた挙句、ずるずる同棲という名の召使生活へ突入してしまったりしないか。それに「ふたりのじかん」を滞りなく過ごしたいのなら、家男だったらラブホにでもいけばいいわけで、或る程度の年になってラブホ代も満足に(割り勘ですら)払えないような男はあえて論外とさせていただく。好きなあの子と付き合いたいのなら、それなりの経済力ぐらい持とうよ。男も女も。

あんとに庵さんは、「家男はマザコンではとおもってひいてしまうのでは?」とおっしゃってるが、私としては男なんてみんなマザコンだと思っているし、そしてその「強度」については、家男も一人暮らし野郎もそれぞれじゃないだろうか。遠くにありて思うもの、と理想が強まってしまう人もいるだろうし。身近で母の大変さを見聞きしているから積極的に家事をやるというオトコノヒトもいるだろうし。

さらに自立的な部分での話になると、ある程度の年齢に達しながらの親と同居には様々なケースが考えられるのでどうもケースバイケースといったありがちなオチになってしまう。周りを見渡しても、親と同居している家男は、自分の病気が原因だったり、家族に不幸があったりとその理由は様々である。自分の周りが世界に直結しているというようなお気楽な精神構造はとりたくないとは思うけれども、なぜか私の身近な「家男」たちは家事全般が完璧な場合が多く、外食汚部屋といったありがちなパターンにハマっているのは一人暮らし野郎である。例えば、一人暮らしではあるけれども親からの仕送りを受けているのと、家男ではあるけれども生活費その他親に収めているのではどちらが「自立している」といえるのだろうか。

pal-9999さんは「家男が嫌がられるのはぶっちゃけ貧乏だから」というが、それはちょっと乱暴すぎる見方といえる。これは地方出身者で、といった但し書きがつくのではないだろうか?例えば「都内実家住まい」というケースでも、その「実家」が「青山」だの「松涛」だの「田園調布」だのという場合は貧乏とは思わないだろうし、「都内一人暮らし」というケースでも、そのアパートが「下北沢」にあるのか「六本木」にあるのかということで評価が変わってくる気がする。もちろんこういった例をあげるのはかなり恣意的であるのは重々承知。つまりこのように考えればいくらでも想定できるってことがいいたい。

(あえて大変失礼な予測をすると、pal-9999さんは地方在住者、もしくは地方出身者じゃないだろうか。都内23区内出身・在住者だと、実家住まいにもさまざなケースが考えられると思う気がする。なぜなら前述のとおり「どこに住んでいるのか」でヒエラルキーが全然違うから。そして都内23区内に生まれ育っているとそういう見聞を積むことになるのでは?またなぜあえてわざわざいやみったらしく「都内23区内」とつけたかというと、都下の場合は地方と意識が、あくまでも個人的な感覚ではあまり変わらなかったりすると思ったので)

こうやって冷静に考えていけば、一人暮らし=上位男、実家住まい=下位男なんて理論には落ち着きようがないとは思うのだけれども、それにしてもなんでこんな乱暴な話がまかりとってしまうのだろうか。そこにはどうも、男の実家住まいはおかしい=女は実家住まいという図式が自然自然と刷り込まれていたからだ、という気がするのだ。前述の内容に即して言うのなら、「都内23区内・実家住まい」な女と、「都内23区内・一人暮らし」の女だと印象が変わってくる人も居るのではないだろうか。これもまた女の年齢実家の住所その他の要因で受け取る側の印象はめまぐるしく変わってくると思うけれども。つまりその程度のものなのだ。

では「家男が女性から好かれない」という前提条件をあるとして、なぜそうなるのか考えると、おそらくそれは単に面倒くさいだけだから、と私は思う。男の立場にしても、相手の女を連れ出すのには一人暮らしのほうが楽だろうし、遊び回って深夜、遅くなったから彼女の家まで送っていくと玄関前にどーんと父上が、なんて一昔前のラブコメみたいな状況はなるべくなら避けたいだろうし。また女からすれば、彼の部屋でセックスするのはいいとして、でもその前に彼の家族にご挨拶、なんて手順を踏みたい人はあんまりいないだろう(前掲したような、オイシイ条件が男の側に有るがゆえにどうしても結婚へもちこみたい!と切望してるなら話は別だろうけど)。男女ともにいつの時代も「相手の家族」というのはなかなかに難物である。相手の家族に気に入られたら気に入られたでいろいろと厄介だし、相手の家族に嫌われても同様だろう。面倒なことはなるべく避けたい。それは人情である。

以上、本稿の結論としては、「家男」もケースバイケースであり、それは年齢が加算されるごとにその傾向が強まっていく、ゆえに、そういった個々の例題を「家男」とひとくくりとしてしまうのはかなり無理が有るのではないだろうか。また、「家男」が女性から敬遠されるとするならば、それは単に相手の家族との折り合いといった部分で面倒くさいからであると推察される、ということになる。つまんねえ結論だな、とお思いでしょうが、ま、そんなもんですよ。家男だっていいじゃないか、独身だもの(ひとりみおんな)。

そういうわけで個人的には家男にはなんのマイナス感情も持たないのだが、その男に「姉妹」がいるかどうかで私のとる位置は変わってきたりする。その理由は、また次回に。うざい自分語りにつき、スルーしたい方はどうぞどうぞ。

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2007年5月 8日 (火)

谷亮子の授乳アピールについて一考察(byハニーコミヤマ)

コバヤシさんのblog記事、『「授乳」とメディアにアピールする自意識』を受けて考えてみた。

ではここで彼女のアピール(歴代)をまとめてみる。

�側頭部に漫画のキャラクター風のちょんまげ
→実写化幻滅マニアへのアピール

�週刊誌でセクシーと言えないグラビアアピール
→「細木の悪夢よもう一度同盟」へのアピール

�凄まじいウェディングドレスで挙式アピール
→「馬子にも衣裳」実証学派および『ゼクシィ』長期愛読者へのアピール

�「最低でも金」発言アピール
→流行語大賞選定委員へのアピール

などか。
彼女のストライクゾーンの狭さがよくわかる。狭くていい。狭い方がいい。
がんばれ、谷(旦那)。でも娘は残さないで…ほしい…。

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チンコ自慢男はしびれくらげの夢を見るか?

私がこの世の中でもっとも下劣かつ大馬鹿で能無しアホたれデコスケポンチ太郎の腐れ脳髄と思うやつは、チンチン自慢しながら口説く男だ。まったく知性のかけらも感じられない。

だいたいオティンポの大小がなんだというのだろうか。20センチあるんだよね、とかたいがいにしろ、といいたい。これがまあ苦笑交じりで、海外のしかサイズ合わないんだよ、というのなら、そんな極小をお持ちですといろいろご苦労がおありですのね、ぐらいのことはいえるが、たいてい、ナニのサイズを誇らしげに提示してくる野郎は本気モード全開バリバリ花びら大回転二連チャンとかそんな具合なので、そんなことをいっても聞いちゃいねえし。俺のを味わったらほかにいけなくなるぜ、なんつってアータ本人はオリジナリティあふれる俺ジナルだよキャーかっこいいーたまらん汁噴出富士山火山灰の勢いなんだろうが、聞いてるこっちはおじいさん、リハビリにはいい日和ですね、ぐらいの感想しか浮かばねえですよ。どうしろというのだ。へえーすごおーいとでも言えばいいのか。この場で見せてぇと押し倒して裸に剥けば満足するのかってんだよ。バーカバーカ。と、こちらの頭脳も劣化してもしょうがない。

気になるのはヤツラは本当に「ちんちんがでかいほうが女はひーひーよがるのだ」と思っているのかどうかってこと。いやまさかそんな石器時代以来脳が発達してないとしか思えないことを真面目に信じているわけはあるまい。確かにアナルに鉄拳をぶちこめば簡単に裂ける人が多いとはいえまさか馬の極太ディックを本気でバージンアナルへ迎え入れるような無茶をやるなんて、いや全然関係ないんですがともかく!そんなアレなことはないと信じているんですが、絵馬にも「○○くんが捕まりませんように」とお願いされてしまう世知辛い世の中です。と思っていたらつい先日、俺ちゃんの身に降りかかった次第です。侮れねえなあ。閑話休題。

もちろん女を何年かやれば、お道具がどうであれ、その大小細太に関わらず、相手をどう思っているかのほうがウェイトを占めるということがわかる。つーかでかいのがすきって言う人、ほんとにいるんでしょうかね?私はえー、その、海外モノしか入らないとか掃除機の蛇腹ホース部分並みとかいう人としたことありますが、痛いだけだったし。その上遅漏なんつった日にゃ目もあてられない。ごめんこうむりたいところですな。一番イチモツ幻影にとらわれているのは、デカチン自慢のアレ奴っていうところになんともいえない悲しみを感じる。セックスってそんなに大事なんだろうかねえ。たかが「出し入れ」じゃねえか。

と、ある人にいったところ、それはそうだけど、そこで感情的快楽、肉体的快楽が云々といわれてしまいましたが、それでもあえて私はいいたい。「たかが出し入れである」と。私が男女の性行為を始めて行ったのは5歳のときで、しかもそれは私が誘ったものだった。だが、相手も自分も、まだ挿入できるほど身体が発達してないから、当然「出し入れ」はしてない。では「入れてないのだから性行為ではない」というのだろうか。それはおためごかしである。既に「ある感情」をもって相手と対峙し、そこでなんらかの「交感」があったとしたら、それは性行為ではないのだろうか。そしてもっともキモであるといえる「ある感情」を互いに保持するには準備根回しその他モロモロ必須となってくるわけで、そういう意味ではお互い、事前に努力をした上ではじめて快楽がひたひたとその身に満ちてくるのではないか。私のような元「セックス嫌いの冷感症」にはいわれたくないだろうけれども、チン自慢な輩とするセックスは到底快楽なんて得られるはずがない。チンポさえ入れればいいんだろなんてそんな男根原理主義じゃ、根本部分からあさっての方向へザーメン飛ばしているのだしねえ。まずは女体と会話しろよ。チンポ使わず身体とココロで。

「たかが出し入れ、性行為。されどセックス、肉体快楽」今後、チンコ自慢してくるイカレポンチは一刀両断いたしますからそのおつもりでハニーたち。

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「報道ニッポン」から取材依頼がきた

月刊「報道ニッポン」というところからうちの家族に取材依頼が来た。インタビュアーは羽田恵理香。だいたい社名やら誌名に「ニッポン」だのとつくところは、あんまり信用できないものだ。それにうちの仕事は会社はといってもちんけなもんだから、この取材依頼、かなりアヤシイ。案の定、早速ググってみると…ガクブル。

 

 

まあこういう詐欺まがい?商法、ネットがあれば簡単に駆逐できるのでしょうけど、そうでないと騙されちゃうんでしょうねえ。アナクロはアナクロなりに要注意。この手の自己顕示欲を刺激するタイプは形を変えてまだまだでてくるでしょうな。もっとテレビに映りなさいってお前は百万円クイズハンターかっての。

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2007年5月 7日 (月)

エロ将軍と二十一人の愛妾+聖獣学園の簡易感想

あんまり映画みてないなとふと気づく。いやスッコリばかりしていたせいじゃないのだが。筋トレーニングか映画鑑賞かの不毛な二択はどうかと思う。そんな俺ちゃんも今年3ン歳です。そんなことはどうでもいいんですが、シネマヴェーラ渋谷にて開催中の鈴木則文監督祭りに行ってきましたやってきましたすっこりと。(ちなみにこの日は快楽亭ブラックさんもきてました)

■エロ将軍と二十一人の愛妾
相変わらずの鈴木則文です。しかしこのテンポとそれを殺さない編集のうまさは近年の日本映画(特に大作映画)が綺麗に失ったものですな。作家主義の台頭は、才能のない人間にとってはいかに無駄だったかがよくわかります。無能なんだから編集は編集担当にまかせておけよ、とキャシャーンとかアカカゲといった他分野映像作家にいいたい。

登場人物が毛沢山語録だのを取り出すといったところに70年代の空気を感じますな。アナーキーな終わり方だし。最近の反体制と銘打つ映画よりもよほど革命的なのがいいっすね。岡八郎という喜劇人は以前NHKの「人間ドキュメント」で壮絶な舞台復帰への様子を放映していて、その演技等を見ないうちからいわばバックステージを覗いてしまったようなものでいささか変な形で知ってしまったわけだが、今回、このような鈴木則文の艶笑系喜劇映画に常連のように顔を出しているのをみると、根っから明るい陽性のおかしみが気に入られていたのだろうと推測された。チンマンコウとかいう宦官役も可愛げ満点で演じている。名和広といった役者も、彼の手にかかると可愛らしく見えるから、これはもう監督の力量なのだろう。鈴木監督の現場は和気藹々としていたらしいが、容易に想像がつく。

もうひとつ、この監督の特徴として、「チンマンコウ」に代表される底抜けに馬鹿げたネタを扱いながらそれだけにとどまらず、ふと生真面目な顔を覗かせるストーリー展開が挙げられるが、この映画でも、物語が進むにしたがってシリアスになっていく。時の将軍に瓜二つの風呂屋の三助が替え玉となり、最初は女呼んで揉んで抱いていい気持ちっぷりに酔いしれまくりの汁だしまくりなのだが、かつてのいいなづけである幼馴染を呼び寄せたらいびられて自殺してしまったことを契機にだんだんと将軍としての自分と以前の卑しい身分としての自分との折り合いがつかなくなり、ついに発狂し、伝馬町の囚人を江戸城に招きいれ、大奥の女を好き放題に抱けーと命じ、「女を抱くのに身分の上下はないんだ!」と喝破するシーンなんかに象徴されている。まあでも結局は腹上死しちゃうわけですけど。最後はちゃんとオチがついてるのもまた鈴木監督ならでは。使い回しと一目で分かる行列シーン(その前に見た徳川セックス禁止令でも同じフィルムが使われていた)とか、イイ味だしまくりでした。ヨは満足ぢゃ。

■聖獣学園
多岐川裕美のマボロシのデビュー作(黒歴史ともいう)。こう毎度毎度渡辺文雄を見ていると、文雄見に行ってんだか、名和広見に行ってるんだかわからなくなりますな。個人的には毎回三原葉子がオナる(with多彩なズリネタ…張り型、バター犬、洋ピン等)のを見続けて幾星霜という気もしますがまあいいや。ストーリーは多岐川裕美が死んだお母さんの謎を探求するため男子禁制の女の園修道院に潜入し、母を殺した人々に復讐するというもの。多岐川裕美のお人形さん的美貌(とちょっとタレ気味のパイオツ)が見所。ストーリーはケレンミの連続というかそればっかりというかなんつーか、まあプルコギを食べた後にフォアグラ食って満漢全席に挑むみたいな感じ。谷隼人+タコ八郎というメンツで腹いっぱい、ゲップがでるあたりでドーンと渡辺文雄という、まさに胃袋の限界に挑戦という趣です。満腹のあまり苦しくなってくるとすかさず三原葉子が谷隼人に(よがりまくって)犯されて「32歳と4ヵ月守り通してきた純潔をおぉぉおおお」とか絶叫するし。いやそれはさすがに嘘だろお前!という観客の突っ込みは全て多岐川裕美の能面顔と渡辺文雄の濃すぎる演技で虫下しされるのであった。それはさておき、内容的には、唐突な司祭(渡辺文雄)の長崎被爆体験の告白やらに代表される陰々滅々といった展開で、画面色調も暗く、いつもの鈴木則文監督作品のような明るさがない分冗長で、いささか刈り込み不足という気がする。(あと谷隼人にはもうちょっとコメディリリーフとして登場して欲しかったな)多岐川裕美の白い柔肌にぎりぎりと食い込む茨のつる!降り注ぐ鞭!飛び散る鮮血!女の園で繰り広げられる痴態!司祭様、大きいのはお鼻だけじゃないのねとおすがりする女体の蠢き!なお、本作品で初めて「この物語はフィクションであり実在の」云々という脚注を見た。徳川セックス禁止令ですらでなかったのに。VIVA!大人の事情。

※鈴木則文監督と盟友?名和広氏をまじえたシネマヴェーラで行われたトークショー(司会特殊翻訳家の柳下毅一郎氏)のルポは後日UPします。しばしお待ちを。


聖獣学園

聖獣学園

  • 出版社/メーカー: 東映
  • 発売日: 2003/10/21
  • メディア: DVD

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いつかは逃れる。こんな、暗い日々を

浅川マキのトラブルインマインドがこんなに心へしみ通るのは、今朝の出来事のせいばかりじゃないだろう。

早朝、母の絶叫と怒声で目が覚める。アルツハイマーの祖母が粗相をしてしまったようだ。母は興奮し見境がつかなくなってしまっている。つられて祖母もわけのわからないことを言い出す。最悪だ。大声出したり叩いたりしてはダメだよ、と風呂場の二人に声をかけるが、まったく聞いてもらえない。困った。逡巡していると父が場の収拾に乗り出し、なだめ、おかげでなんとか騒ぎはおさまった。風邪ひいてウチで療養してるミッチェルも起き出して、大丈夫?と私をつつく。自宅介護は限界があるねと二人でひっそり話す

介護保険制度は痴呆症に厳しく、動けるのだからと受けられる行政サービスも限られるようだ。現行法だけでは行き届かない部分を個人の努力でまかなわなければならない。いつだって強いられるのは個人の尊い犠牲というやつである。

私もできるだけのことはするが、仕事をしているとなかなか難しい。厄介なのは母自身、私が手助けすることに対して抵抗があるようなのだ。迷惑をかけるという気持ちと、自分を否定されるような気もするのだろうか。

浅川マキは歌う。「やがてはお日様も、私のうちの、裏木戸のあたりにも、さしこむと、思うけれど」今日は曇りだ。私に寄り添ってくれるかのごとく。2時発の夜汽車はまだ遠くであってほしい。

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2007年5月 5日 (土)

シーサーを作る

友達へのプレゼントとしてハニーコミヤマと共同で作成。紙粘土利用。個人的にはダーガーのブレンゲンをイメージしたつもり(とはいってもほとんどは美術系のハニーコミヤマにお願いしたのですが)。元のイメージがしっかりしてないわりにはよくできたと思う。

 

 

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2007年5月 4日 (金)

午後の来夢来人報告

西新井にあるいなたい雰囲気の来夢来人。最後の蒲田のは宿泊地のかなり近くでした。運命ですね。

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蒲田の夜は安ウマだった

泊まったホテル近くにあった某中華料理屋(もったいないから名前を秘す)で食事。京急蒲田のいなたい雰囲気(飲食店全てにオッサン標準装備)に圧倒され、ウロウロと歩き回った挙げ句、ホテル近くに落ち着いたわけ。疲れた胃に柔らかくしみこむ旨み。ハニーコミヤマは牛すじ丼。これまた脂っこさが程良く抜けたちょい濃いめの味がイカす。ぷりぷりの餃子もたべてひとり1000円以下とは恐るべきコスパ。いい画像もたくさん仕入れてGWは非常に充実したものとなりました。

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本日午後の報告

今日午後はアングラ張り紙から。実はこの張り紙は亀戸近くのトンネル内に集中的に貼られていたもの。すげー密度。もうソ連はなくなったよと教えてあげてください。

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午前中までの収穫と来夢来人報告

とりあえず品川、錦糸町でゲット。つばめグリルで昼食とって西新井へ。

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2007年5月 1日 (火)

風邪ひいているのに(+沖縄の店員について)

遊んできたツケか、きっちり風邪ひいております。チキショウメ。おまけにカレンダーどおり営業の職場では冷房直撃ですよ。どうしたらいいんだ…。

さて沖縄では、3月からかの地へ赴任している友達に会ったのだけれども、体調を崩しているようで、痛ましかった。食べ物にあたってしまっているみたいで、しかも、本土とは気候がかなり異なる土地でのこと、知らない人ばかりで辛いということもあるのだろう。遅くまで付き合わせてしまい、本当に申し訳なかった。それでも彼女が時折ほの明るい表情をみせてくれたので、なにか少しでも気晴らしになれたのならよかったと思う。

会食のとき利用したのは上の里にある「ぱいかじ」という店。チェーン店なのだが、いろんな料理が安くて美味い。(ちなみに東京にも同じチェーンがあるが、あまりの値段と品数の差に愕然とした記憶がある。当然食べるなら沖縄で。)特に「やんばる牛のあぶり寿司」(780円)はとろけるような炙った牛肉が絶品。ぼろぼろじゅーしいを石鍋で出してくれたり、紅芋あんを巻いたぽーぽーがあったりと個人的にはいい店なのだが、この日は、とにかく料理が出てこないのにマイッタ。1時間過ぎてもでてこないので、いくつかの料理をキャンセルする羽目になった。沖縄の店員は愛想が悪いので有名だったりするが、愛想がよくても注文がはいってないのならどうしようもない。愛想が悪いが注文をちゃんと通す店員と、愛想はいいが注文が入ってない店員、どっちかを選べというのはなかなかにキビシイものがある。観光で食っていきたいって思う割には、抜けているところが多い沖縄。下手すると店員に「なんくるないさ」って言われたりして。

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