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2007年3月31日 (土)

明日はかなまら祭り

当然参加します。エリザベス御輿みなアカンでしょ!明日私をみかけたらお気軽にお声がけ下さいまし。

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2007年3月30日 (金)

ニンフォマニアじゃないはずなのに(ココロとカラダの親密な関係または愛し愛され生きるのさと飛んで火にいる春霞)

男女の恋愛関係においてセックスなんてどうでもいいもんだ、と長いこと思っていた。

そりゃあねえ、アータ。一応「セックス嫌いの冷感症」の看板背負っているわけですから、それぐらい思い切らんでどうするってヤツです。つーか、オマンタにおちんこをインしてぐりぐりっとやることに熱烈歓迎ベリーhot!な一夜をトゥギャザーしようぜ(死語)って華麗に意気込むなんてことは、思春期青汁まっさかりなチン角上昇キープ鋭角30度な時期は別にして、大人の階段をズンドコのぼりきった哺乳綱霊長目真猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科ヒト属ヒト種ホモサピエンスといたしましては、オマンチョに目撃ドキュン!するよりも、もっとお互いの信頼とか過ごす時間とかそういうものに対して愛着をもつべきであって、猛り狂って怒張した魔羅をしとどに濡れそぼった女陰へソーニュウすることなんざどうでもええやろなァあんさんもそうおもうでっしゃろ!?と似非関西人になって力説したいといふもの。愛こそすべてってジーザスクライストも宣言されてるわけだし、ジル・ド・レだってその点に関しては異論はないはず。ジュスティーヌほど過激ではないにしても。まあそんなテキトウな戯れ言はさておき。つまりなんだ、ハメハメが重要なんざアホたれのすることだと思っていたわけです。

んでもって何故過去形であるのかと言えば、えー、なんですか、その、(言いにくいことだが)ヨワイ30過ぎて、セックスって気持ちよかとですね、という事態に陥ったわけです。すみませんオノレが一番バカでした。クリ皮剥いてM字開脚しますのでどうかお許しを。はあちくしょうめ。なんとなく悔しいのは3ヶ月ほど前までは女体のにょの字にも縁がなかったヤツによってだからというわけではない。

もしかしたら誤解を受けてるのかもしれないが、童貞を自分好みに仕込むなんてスキモノだなあとか思われたら、だんさんそれは大間違いでっせ(エセ関西人強化週間続行中)。つーか元々セックス自体どうでもいいと思っていたんだから、好みに育てるも何も。そんな面倒なことする気も起きないし、それだったら寝転がって「どらン猫小鉄」でも読んでた方がよほどオノレのタメになるってなもんです。あくまでもこの現状は結果であってそれを目的にしてはいなかったということ。しかし、なんでこんな結果になってしまったことやらと、途方に暮れつつ、まあなんだ、肉体的にはしごく満足な日々ではある。(いわゆるもう他のチンポはノーサンキューでございますわ)ではあるけれども、なんとなく腑に落ちないような腹のすわりが悪いというか。なんで俺、こんなことになってんだYO!オラこんなはずじゃねえだ!天狗さまに騙されとるだけズラ!と思わず魂の叫びを木霊させてみる。

技巧面で言えば彼は試し試しやっているわけだし、エロ小説に良くありがちな「ああ…長くて太くて…カリが張ってて…鎌首に惚れ惚れしちゃうのウマなみウタマロ」と涎をたらす仕様ということでもない。こうしてじっくり思い返しても、さてなにがよいのやら。さっぱりわからないけれども、疲れたときに思い出す“今までに気持ちよかったセックスベストスリー”をあっさり蹴散らしその存在を強烈にアピールしまくりちよこ((死語ちゅうかオヤジギャグだなHAHAHA)なことを思えば、生来的かつ絶対的な相性というのはおそらくあるのだろう。今まで完全否定していたけれども、やはり知らないことイコールありえないとするのは愚か者の所業だなとこれでまたひとつオトナになったぜ2007春。ヤケっぱち気味だがそんな日もあらあな。とりあえずシャッポを脱いで、ああこれで俺もようやく童貞脱出となったのでした。ポコペン。

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2007年3月28日 (水)

わがままおとこマイハニー

どうやら私と付き合う男はわがままな性状を備えているらしい。もっとも男なんて本質的にワガママではあると思うけれども。

振り返れば見えてくる、なんてナットキングコールに言われなくても、つと思い返してみれば、どの男も自分の世界を持ち、他者と共有しようともせず、わかるやつにわかればいいと潔いと言えば聞こえがよいが、どなたもこなたも面倒くさがりで、人と接するのを些か(どころではない人も、中にはいたけれども)苦手とする人ばかりだ。つまりそれはとりもなおさず、私がそういう人間であることの証左なんだろう。

だからたいていの(生命身体の危険を伴うものでなければ)ことなら受け入れてしまう。別に愛い奴めなどとは思わないけれども、なにかいろいろ言われるとあーもう仕方ないわねえという状態になる。だが身勝手はイヤだ。

ワガママと身勝手は似て非なるものゆえ、区別しなければならぬ。ワガママは無意識から発露する媚であるが、身勝手は意識的に他者を動かそうとする甘えである。そういう意味でワガママは一つの愛情の証左と撮られることができるが、身勝手はコチラに対する思いやりのなさの証明としか受け取れない。つまりかわいくないのだ。そういう男は願い下げだ。過去のひとたちはワガママではあれども、身勝手ではないと私は思っている。

つまらないことでいい争いして、私が彼のいうことを理解できないと苛立ちを顕わにする。おそらくそれは原初的な支配欲からきているのだろう例えば「俺の言うことを聞かない」といったような。さすがにここまでくると身勝手だなとは思う。思うが、でも、こういう男ほどかわいいんだな。ちくしょうちくしょうとこぶし叩いている姿が目に浮かぶようだから。仕方ないわねえはいはいと唯々諾々となってしまう。もっともこういう男のつまらぬワガママやら支配欲やらを楽しめてしまうのは、そいつがてめえの男だからであって、それ以外の輩は普通に冷たい視線を送るだけだ。そんな義理はねえし。

まあそんでもってなにがいいたいのかというと、「かわいらし」と男のわがままを許すのは女の力量かってこと。いや、女の弱さだろうなあ。だからこそなのだろうか、すべてのオトコは可愛らしい。男のわがままほどかわいらしいものはない。

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2007年3月26日 (月)

トヤマ候補の政見放送について(天然はすばらしい)

某唯一神や山下バソバソが希少価値の高い天然モノとするならば、トヤマ候補は計算してあの政見放送なりポスターなりをやっていると(彼の本やら若き日の彼の活動モヨウを知っていればいるほど)思えてしまう。盛り上がっているのに水を差すようで気が引けるが、つまりアレを喜んでしまえば彼の術中にハマるようなものなんで、私は正直あまり興味がなく触手伸ばす気もわかなかったりする。笑われてもいい名前さえ覚えてくれれば…という(言葉の正しい意味での)確信犯的必死さよりも、「こーいうのを喜ぶんだろ?」なんて故意犯的なからかいをどこか感じてしまうので、あの自己顕示欲に付き合ってられるか、というヤツである。(たぶん後で本にするんだろうなあ)サブカル界隈の有名人から一応全国区になったことだし、彼としては「してやったり」というところではないでせうか。やはり貴重なのは天然です。(計算してやっていても秋山佑徳太子先生レベルになるともう別格ですな)

まあ、しかしその天然系の唯一神だって、“特殊漫画の大統領”根本敬先生から見ると(奥崎謙三らに比べると)「イマイチハジケというか面白みに欠ける」と評されちゃうわけで、そのあたりを鑑みるに、なかなか確信犯でなおかつ故意犯というかそのあたりが渾然一体となってる天然系オオモノはいないもんだねえとゼータクなことを考えたり。そんなわけで、風水研究の女性とタクシー運転手の方には期待してますです。はい。(山口節生センセイはもうオオモノなんで除きます)

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横溝正史読んでます。(と市川崑ネタについて)

こと読書に関しては特にジャンルを決めず、何でも読むようにしている。最近借りてきたのは「憲法と平和を問いなおす」(長谷部恭男)、「対話の回路」(小熊英二)だったりするし。例外としては経済関係で、どうも経済に関しては私の低調頭具合ではどうしても理解できないので手に取る気にはなれないのだ。閑話休題。

ハニーコミヤマは非常なミステリー好きである。私もミステリーは嫌いではないし、むしろ小説読み始めた頃はポーやら江戸川乱歩を貪っていたクチだったりする。ただ最近は読まないだけで。以前彼と一緒に「犬神家の一族」を観に行った際、市川崑はどうしてこうも横溝正史の原作をダメにしてしまうのかとぶつくさ言っていたのが気になり、ちょっくら原作を借りてみた。恥ずかしながら横溝正史って全然読んだことないのです。イヤハヤ。だがポクっと読むと、意外に釣り込まれ、そこからはまってズンズンと読んでいる。

「本陣殺人事件」は、本格密室殺人事件モノとして有名。トリックにいささか無理があるような気もするが、それでもよくできていると思う。そして「獄門島」。見立て殺人モノというか、日本の因習と「家」意識といったうっすら郷愁すらかきたてられるような内容であった。旧世代と戦争後たくましく生きる新世代との世代交代を読み取れるところもあるのがいいよね、とハニーコミヤマ。だからあの映画「獄門島」はそういう要素を全部ひっぺがして「女のかなしみ」なぞという青臭い小さな金枠へ押し込めてしまっているからダメなのだ、と息巻く。それは私もそう思う。

市川崑という映画監督の作品について考える際、以前中野貴雄氏のコラムを読んでてでてきた林海象に対する感想ーーアイデア100点出来は赤点、というのをいつも思い出す。様式美はそれ自体で重用される場合もあるが、なんでもかんでも当てはまるというわけではない。「黒い十人の女」なんて船越英二の名演、ならびに山本富士子と岸恵子と岸田今日子と宮城まり子と中村玉緒が同じ画面に鎮座しているだけでおなかいっぱい感があり、編集が悪いので途中もたつく。つまりは退屈な映画なわけだが、スタイリッシュではあるので、様式美だけ鑑賞すればよろしいってな映画であったりするわけだし。「東京オリンピック」は山口瞳が「大衆を馬鹿にするな」って批判したぐらいで、ようは或る意味不器用というか己の図式にこだわりすぎるきらいがある。だから畳みかけるような展開とスピード感を重視するような「四十七人の刺客」なんて映画は大失敗したわけだ。まあそんな話はさておき。

横溝正史の原作自体様式美的な側面も有り、またそれを基調として映画を作りたくなる欲望に駆られるのは十分理解できるが、(そして撮れば成功するわけだけれども)どうも原作を読み進めていけばいくほどワンセットで語ってはいけないな、と思い始めた。ミステリーなんて様式美っすよっていわれてしまえばそれまでだけれども。とにかく面白いです。横溝正史は。

横溝正史自選集 2 (2)

横溝正史自選集 2 (2)

  • 作者: 横溝 正史
  • 出版社/メーカー: 出版芸術社
  • 発売日: 2007/02
  • メディア: 単行本


黒い十人の女

黒い十人の女

  • 出版社/メーカー: 角川エンタテインメント
  • 発売日: 2007/01/26
  • メディア: DVD

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2007年3月23日 (金)

都知事選のたまらん香ばしさ

しかしどうしたんだ都知事選。

泡沫候補好きとしてはオイシイネタばっかりじゃないですか!?このメンツでは、たとえ羽柴秀吉といえども目立たぬこと確実。ドクター中松なんてオオモノ然とした安定感すら漂っているし。候補者一覧を眺めていると、タクシー運転手やら風水研究家(高島易断からもご出馬されているからキョーレツですな)なんてのはまあマトモといえる職種であることがよくわかる。つーかすごいよな。なんだよ職業ディレッタントって。王道の自称作家から、勝訴証拠評論家なんつーカツゼツの限界に挑戦しているかのような肩書きやら、まあ百花繚乱(百鬼夜行)ですな。私のような泡沫マニアとしては、大御所山口節男山口節生センセイのご尊顔を拝する機会に恵まれただけでもヨシとします。とりあえず政見放送が非常に楽しみ。以前ミニ政党が乱立した参議院選挙のような奇跡よもう一度。日本愛酢党の人がエンエンと酢がいかに体に良いか演説していた時のような興奮が今よみがえる!か?内田裕也御大のようなカッチョいいのは期待してないので皆さん頑張ってください。

さて、個人的になんというか感慨深かったのは、トヤマコウイチ氏が立候補していたことですな。(実は知人の知人だったりして)1990年代前半あたりのSPA!「東京トンガリキッズ」の愛読者だった私としては、そこでの氏の活躍ぶりを見ていただけに、なんというかAs Times Goes Byって感じです。友達から彼の本を借りてそのままになっていることも記憶の底の泥流から蘇ってきてしまったぜ。あの頃のことをふと思いだせば、そういや東京ガガガの活動やっている人もいたなあ、なんちて90年代も遠くになりにけり、と尻かきながら思い出に浸ってしまいましたとさ。

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2007年3月22日 (木)

かなしい食事

世の中でもっとも侘びしいと私が考える食事は、ラブホテル(安ければ安いほど、豪華であればあるほど)の一室で事後、いろんな思いが去来する中ーーああ小さかったなとか、おまんまんのかほりがキョーレツだったなとかーー啜りあうカップめんだ。これほど侘びしい食事もない。

私の目標は、そういう姿に悲壮感漂わないオトナとなることだ。ちなみにハニーコミヤマは、食ってる様子に寂寥感もわびさびも漂わない極めて珍しいタイプである。それは彼のビッグマグナム黒岩先生のなせるわざかどうかは、定かではない。たぶん。

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2007年3月18日 (日)

肩をはずされた猫

池袋から目白にぬけて、高田馬場付近へ出たときのこと。「おとめ山公園」という割に広めの公園を散策し、出口から退出するその門付近で小さな、まだ若い黒猫をみかけた。ひどくおびえている。無理に追いかけることもせず、じっとみていると、やがて猫は私たちのあいだをすり抜け、近くにある団地へ走っていった。が、どう見ても歩き方がおかしい。そして体の形が変だった。よくみると、右前足の肩関節が外れているようだ。捕まえて獣医につれていくことを考えたが、あの怯え方では大捕り物でもしない限り、どうにもならなさそうだった。人間に対する、警戒心の強さからみて、おそらくその怪我は人為的なものだろう。酷い話だ。

その前の日池袋にて、私は、小奇麗に化粧をした若い女が切符を通さずに堂々と、携帯で話しながら自動改札機を力技で通り抜けていくのを見た。そのときに感じた嫌な感じと、猫の怪我に対して感じた憤りは近似であった。無賃乗車と小動物の虐待という全然別個の案件ではあるけれども、本質的には同根であるように私には思えた。いま、あまりにも疲れているので、なぜそう感じたか、悔しいことにうまく説明することができない。残念である。

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街ネタ(ただいま帰宅。疲れきる)

とりあえず収穫をいくつか。本日は池袋→新宿まで歩く。馬鹿ポスターと毛の生えた蔓とこんなものに2万円の値が付く不思議な「卓上のUFO」。
最近仕事がピークとなり滅茶苦茶忙しく大した距離を歩いてないにもかかわらず疲れきる。とりあえず全ては一寝入りした後で考えることにします。おやすみなさい。

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2007年3月16日 (金)

「賢者のおとしもの」(ハニーコミヤマの素晴らしき世界)

仕事が忙しくテンパっている私へ、ハニーコミヤマが「元気出して」と以下のような文章を送ってくれた。あまりにも素晴らしいので私だけの楽しみにしておくのはもったいない、と彼の許可を得て以下に転載します。

※※※※

あるところに、貧しいけれど仲の良い、好奇心の強い夫婦がいました。

彼等は互いを愛し、持ち前の好奇心ゆえに性欲も並外れて強かったのですが、悲しいことに夫が真性包茎だったので満足のいく性交ができず、悶々とした夜の営みが続いていました。
妻は夫のことを深く愛していたのであからさまに不満を口にするようなことはありませんでしたし、夫もまた彼女に感謝していましたが、それは余計に彼の無力感を際立たせ、また無言のプレッシャーにもなっていました。
妻の夫に対する許容と、夫の妻に対する感謝はどんなに確かめあっても微妙にすれ違うのでした。
お互いの誠意が思うように報われない中、夫は次の結婚記念日までにお金を貯めて妻に内緒で包茎手術をして喜ばせようと思い、それを薄々察知した妻もまた手術費用の足しにするために夫に内緒で内職に励んでいました。

しかし、妻の秘密は他にもありました。

夫は射精さえしてしまえばある程度満たされましたが、妻はそうではありませんでした(彼女は好奇心の強い女でした)。彼女は満たされぬ思いのはけ口を膨満感に求め、いつしか手首まで腹中に納めてはひとりで狂態を演じていました。
そんなある日、いつものようにひそかによがり狂っていた妻の姿を、平素よりも早く帰宅してきた夫が見つけてしまいました。
妻は狼狽しましたが、夫やさしく微笑んで彼女を許し、もっとやって見せてくれと頼むのでした。
泣きじゃくりながら妻が再び活動を再開すると程なくして、まだ膨張もしていない夫の先端から白い雫が滴り落ちました。
それ以降、かつてなく興奮できるズリネタを発見した夫は大喜びでしたが、酷使に耐えかねて日に日に弾力を失っていく肉穴を自覚した妻はさすがにこの状況は(たぶん夫にとっても)まずいと思い、ひとまず内職で貯めたお金で次の結婚記念日までに処女膜再生手術を受けようと決心しました。

やがて鉄拳とところてんに彩られながら日々は過ぎ、お互い貯金に成功してそれぞれが無事に手術を終えて結婚記念日の夜を迎えました。
ささやかなご馳走を食べたあと、夫婦はベッドへ向かいました。
しかし、なんということでしょう。夫がどんなに焦っても、妻がどんな痴態を晒してみても、彼のシンボルがそそり立つことはありませんでした。
通常では有り得ない状態の女性器に慣れ過ぎたため、彼は心因性のインポテンツになり果てていました。
夫にはもう余るべき皮はないのに勃たせることが出来ず、妻には破られるべき膜があるのに入れられることはありません。
彼等は溢れんばかりの愛情は確かめあったものの、やはり依然として満たされることはなく、加えてひどい徒労感に苛まれるのでした。

互いを深く愛する二人に、どっかの賢者は素敵な贈り物を用意したのかもしれませんが代わりにかなり大切なものを落としてしまったのです。

こんな使えない賢者に替わって、サッカーの神様はこう言うのでした。

「専門医に相談してください。私ならそうします」

※※※

ちなみに彼から続きがまいりましたので併せてご紹介いたします。

○「すばらしい。とても3ヶ月前まで童貞だったとは思えない。作者の度胸と思い上がりに賛辞を送りたい」
〜乳・モンド紙

○「涙、涙。中途半端な文章が我が身のように情けなくて涙がとまりません」
〜をすぎさん(映画評論家)

○「この作品は女性やマイノリティーに対する偏見に満ちており、どこが面白いのかさっぱりわかりません。ナンセンスですし、ムカムカします」
〜「垢肌」紙

○「酷い。原作の意図を完全に取り違えている。許せない」
〜Q・ヘンリーさん(小説家)

○「ここにまた新たなロックヒーローが誕生した。いま私は新たな歴史の転換期に立ち会えるた喜びにうち震えている。時代はまだ死んではいない」〜
伊藤棲息さん(メタル評論家)

○「『あなたはいま包茎なんですか?』と外務省に電話してしまいました」
〜東ちづるさん(タレント)

ヤツはすごいよ…凄すぎるよ…。

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2007年3月15日 (木)

「チョムスキーとメディア マニュファクチャリング・コンセント」

ノーム・チョムスキー。言語学界におけるアインシュタインと称され、コペルニクス的転回をもたらした最重要知識人といわれる。彼はユダヤ人でありながら、イスラエルの政策を批判するなど、かなりなリベラリストとしても知られる。(アナーキストな夢想家とも揶揄されたりする)この映画は、1992年製作なのでネットがこれほど広汎な地域性を獲得してしまった今いささかその言説には古びてしまっているところもあるが、チョムスキーの主張そのものは真正面から捉えるべきものであると私は思う。

ウィリアム・ランドルフ・ハーストの時代からメディアはつねに「権力者」の意向に沿ってきたのは明白な事実であり(「事実かどうかは重要でなく、チーフ(ウィリアム・ランドルフ・ハーストの呼び名)の意向にそっているかどうかが問題だった」とハースト系新聞社の編集長は述べている)、いまこの社会においても偏向報道というのは(少々気をつけてマスコミ報道を注視している人間にとっては)当たり前の話であるといえる。映画はチョムスキーの経歴をたどりながら、その講演内容、ならびにマスメディア出演時のコメント、論争相手とのやりとりなどを通し、チョムスキーの「姿勢」を明らかにしていく。映画はかなり長く二部構成となっている。第一部はカンボジアで起きたクメールルージュとほぼ同時期に起きた東ティモールにおける同様の案件を取り上げ、チョムスキー曰く「米国政府がインドネシア政府へ武器支援ならびに暴動支援していたがゆえに、マスメディアが沈黙し東ティモールにおける虐殺は“なかったこと”になってしまった」経緯を考察し、マスメディア側の主張もまじえつつ、プロパガンダの実態を追求していく。第二部は、チョムスキーがある歴史修正主義者の「立場」に対して擁護した事件を取り上げ、そのことに対する賛否、当事者である歴史修正学者の意見、また、市民出資型テレビといった多様化する市民参加型メディアを紹介しながら、その可能性に対するチョムスキーの「期待」などを論じている。計3時間あまり。正直途中寝てしまったところもあった。

「マニュファクチャリング・コンセント」とは「偽造の合意」という意味。「合意」を「偽造」しているのは誰か。チョムスキーは、「権力者」が「知識人」には思想注入し、「大衆」にはプロパガンダによって事実を隠蔽、世論を自分達にとって都合の良い方向へ動かそうとしている、という。実際のところ、チョムスキーの述べるような二項対立構造でプロパガンダなり、思想注入が行われているとしたらまだマシかもしれないと私は思う。私が問題だと思っているのは明確な意思表示もなく「空気」で決定されていくことだ。映画の中でニューヨークタイムズの編集長が「忙しくてホワイトハウスの誰かからなにかいわれる前にはもう記事になっている」というが、おそらくそれはまさにそのとおりなんだろう。だが考えてみれば、例えば朝日新聞の記者が「人を殺したヤツは問答無用で死刑にしてしまえばよいのだ」といった論調で記事を書くだろうか。あるいは産経新聞が「アパ壺三」といった揶揄はもちろん、「うつくしい国」になんら具体性がないことに言及したりしない。なぜか?それはそんなのを記事にしたところで責任者のGOサインがでないことが分かりきっているからだと思う。では実際のところどうなのだろうか?編集長は確固たる信念に基づいて「検閲」を行っているのだろうか。それよりはむしろ、その上の局長の許可が下りないことが分かっており、そしてその局長は部長の、部長は支局長の、支局長は支社長の、支社長は取締役の、取締役は社主の、そして社主はだれへの気兼ねから許可しないのではないだろうか? そこには明確な禁忌はなく、いわゆる「空気を読んだ」「大人の判断」が支配しているに過ぎない。問題はその「空気を読んだ」「大人の判断」にあるのだ。世の中の世論を動かしているのはこの行為--長いものには巻かれろ式の--であると私は思う。チョムスキーの主張はいささか陰謀論の範疇に入ってしまっているように思えるがいかがだろうか。私は彼のように大衆に対して期待できない(彼はアナルコ・サンディカリズムの信奉者というのもあるのだろうが)。大衆を啓蒙すべきところにあると位置づけながら大衆と寄り添おうとするのはある種の矛盾をどうしても生じさせてしまうのではないだろうか。そういう意味で「大衆」というコマの奪い合いにも見えてしまう。果たして「大衆」が本当に「真実」を知るための努力をすべきかまたしたいのか、私は疑問である。それよりもただ与えられた情報を信じていたほうがラクだと思うヒトビトで世論は形成されているのではないだろうか。つまり「合意」を「偽造」しているのは他ならない「大衆」の「意思」だと私は思っている。(であるがゆえに、私は「大衆」に絶望していたりするのだが)

おそらくチョムスキーもそのことは熟知しているのだろう。彼が期待する市民参加型メディアなんてもうこのネットの隆盛を見れば衰退は火を見るより明らかだろうし、それよりもこの一人一人が情報を発信するという「誰しもが15秒だけ有名人になれる」社会においては、精査するべき情報であふれかえり、ただ人はその「仕事量」に対して、途方に暮れるだけではないだろうか。勝ち組負け組理論で二分化するならば、今後は情報をどれだけ分析・精査できるかが、その分かれ目になってくることは想像に難くない。皮肉なことに「大衆」に「情報」が行き渡った結果、能力差は拡大する一方だ。「格差社会」というのなら、これほど「過酷な」格差が出現することを真にさすべきではないだろうか。残念ながらこの映画は上記のように1992年製作のため、現在のネット環境その他については触れられていない。だが、だからといって、この高度情報化社会において、昔ながらの陰謀説じみたチョムスキーの主張は黙殺されるべきものなのだろうか。私は、ネット上にあふれかえるプロパガンダと(自分こそは情報通であると思い込んでいる)その信奉者を目の当たりにするにつけ、今こそチョムスキーの言う「プロパガンダを疑え」を実感するべきだ、と思う。

チョムスキーはその主張の普遍性だけではなく、その学者としての「姿勢」に私は共感する。彼はユダヤ人でありながら、ホロコースト主義者を擁護したせいで非難される。チョムスキーは「ホロコーストがあったとかなかったとか口にする時点で人間性の欠如を表している」と書いた自身の論文を引き合いに出した上で、「それでも彼の“発言する権利”は守られるべきだ」と断言する。「私は君の意見に反対だ。しかし君がその意見を発表しようとする自由は死んでも擁護しよう。」という例のヴォルテールの言葉は頻繁に引用されるし、引き合いに出す人は多い。だが、果たして彼らのうちでそれを実行できる人間がどれほどいるのだろうか。もし仮に西尾幹二が韓国の政治団体から発言禁止および出版禁止の仮処分申請を裁判所に申し立てられたとして、本多勝一は彼を擁護するだろうか?そういったチョムスキーの「誠実さ」や彼を突き動かす動機(「鏡の前の自分を直視できるかどうかなんだよ」)に青臭いだの夢想家だのといった言質を浴びせるのはたやすい。だが、右左といった思想性を超えたところで彼の行動や言動が普遍性を獲得しているのもまた事実なのだ。「誠実」さゆえ、彼は「大衆」の中にある情報精査分析力に期待し、呼び覚ますため「啓蒙」しようと、否定されようが愚弄されようが売られた喧嘩は買い続け、講演をし、大衆のために寄り添おうとしているんだと思う。そういう意味で彼はドン・キホーテ的な人物であるような気がする。(日本の某唯一ネ申と共通するものがある)

チョムスキーの努力はある種の観点からすれば徒労としか言いようがなかったりするが、私はこの映画をみてあの言葉を思い出すのだ。「でもやるんだよ」

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2007年3月11日 (日)

ちんこすこう

味としてはかなり上品。

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