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2007年2月21日 (水)

オナニーし過ぎで疲労困憊

6回連続でオナニーしていたら頭が完全にイカレた俺ちゃんですよこんにちは。バレンタインデーには、お気に入りのおまんまんからチョコもらって股間に押し付けましたか?野郎どもよ。チョコでコーティングした包茎ちんちん(ムケちんでも可)をボロリと取り出し、スゥイーティーな僕のおちんちんを舐めてごらんとでも大見得きれば「じゅん…」となるオナゴもおるかもしれん。変態呼ばわりされる確率のほうが高いかもしれないが、そこは参加することに意義があるオリンピック精神で玉砕覚悟でGO!すっこりできるチャンスがあれば、逃さずすかさずファックイン。入れるときは入れる。だすときはだす。そこに人類の大いなる英知が集約されると、デルフォイのオラクルにもあることですし(テキトウ)まあアリストテレスだって同じようなことを言ってるわけですから(嘘)、いざゆかん遥かなる性地へ!やりまくりだよ人生は!よくわからなくなっているのはなにもオナニーやりすぎた(シツコイ)せいではないとは思います。そうだといってロミオ!ああロミオ、アナタはどうして包茎なの?そういうわけで包茎の相談なんて俺にしてくるんじゃねえよ。てめえのきたねえチンポがどうなっているかなんてアタシの知ったことじゃねえっす。包茎でオンナが喜ぶかどうかなんてなんで私の管轄内になるのだ。私は他の女のまんこなんてよく知らないし(当たり前だ)。そういうわけで包茎でオンナが喜ぶかどうかなんて真面目に聞かれても「ママに聞きな」としか今後は答えませんので、ハニーたちにおかれましては、なにとぞご承知おきのほどを。

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2007年2月13日 (火)

これからは「ちょいワルおやじ」ではなく「ちょいカワおやじ」の時代!!!

ミッチェルと昨夜、「新しい発想、柔軟性のある思考とはなにか!?」というテーゼで熱く語り合っていたときに表出したのですが。

「昔はさ、水だのお茶だのっていうのはペットボトルに入れて金払って買うものという発想はなかったでしょ?それと同様に、いまの40代50代のおっさんが若い頃というのは“包茎は悪だ”とズルムケあるいは『ひとつ上の男ブーム』があったわけですよ。その気持ちは分からないでもないが(とオノレが天然ムケティンポであることを自負)。しかしそのままではビジネスチャンスを逃すだけ。そこで!これからはムケてる皮をちょっと戻す、つまり『ちょいカワおやじ』がくるんですよ!! ジローラモがポムチの先をちょっと出して『これぞちょいカワ』とLEONの表紙を飾る。これ最強。しかしわいせつ物陳列罪でつかまる恐れもある。シロウトにはオススメできない」

彼のアイデアを具現化してくれる雑誌はないものか。ボロリもあるよ!

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2007年2月 9日 (金)

私は靖国で自慰したい

『宣戦布告「NET」で発信石原慎太郎』小論文コンテストより引用

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No.61 京都府 革命的危険思想主義者 21歳

 私は靖国で自慰をしたい。靖国で自慰。それは、壮大なる私の人生を掛けた、そして、日本のために死んでいった多くの若者の自由意志のない死の果てにある、壮大なロマンである。
  私のこのロマンを誰が邪魔することが出来ようか。靖国という日本で、いや、アジアで最も神聖なるその土地で自らの快楽を得る。その行為はこの国を一身に感じることであって、否、英霊への冒涜などではないはずだ。
  私のこのロマンを、滑稽で馬鹿でアホな自慰だとする人たちがいる。
  しかし、考えても見て欲しい。何を信じるか、自分が日本民族として何に縋って生きていくかはその人間の全人格的な産物であって他人に依存することはない。
  その点において、私は、この崇高なロマンをいつか就成したいと願って止まない。

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がんばってほしい。としかいえない力強さですね。

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高島俊男「漢字と日本人」より

高島俊男先生のwikipediaより

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日本中国に近いからとは言え、日本人がわざわざ漢字を使用する事自体が不自然で、現に不都合が生じている、和語の成長は、漢語の輸入によって止まってしまい、いまだ日本語は未熟なのだ、と高島は言う。この理論には反発する声も出た。しかし本書の核心は、こういった漢字批判ではなく、いかにその日本語にとりいれるには多分に不都合であるところの漢字と日本人がつきあっていくか(つまり高島自身も、すでに日本語は漢字・漢語なしには生きられないのだ、と考えている)、というところにある。そのひとつに、すべからく漢語は漢字で書くべし、逆に和語はなるべくなら仮名で表記すべしという考えかたがある。このことに関連して、本居宣長新井白石の適度に漢語を使う「和文を基本とし」た文章を「実に明晰」であるとほめ、頼山陽漢文による著作について「漢字しか使わない日本語文」と事実に反する断定をした上で「文化植民地根性丸出し」とこきおろしている。

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センセイ曰く「私は例えば“つかう”という言葉は“使う”と“遣う”とどちらか正しいのですか?という手紙が来るとびりびりに破きたくなる。和語をなぜ漢字で書くのか。日本語として意味がない。くだらない問いである。」そうで、そういう観点から日本語というものを捉えると、ご指摘の件あまり有益とはいえないような。

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2007年2月 8日 (木)

ベッドの上の見知らぬアナタ

 あなたはいつも、私に優しい。

 手を握るときは、大丈夫?つらくない?と気遣ってくれ、必ず歩くときは道路側に、髪がはさまっているよと鞄を持ち上げてくれる。私の体調に気を配り、危ないからこっちへおいでと手を引いていつも歩く。

 そういうあなたがなぜあの場でああなるのか、私は酷く不思議なのだ。

「あしひらいて」

 彼は私を見下ろして低く告げる。私はベッドの上で体を開き、そこを指で広げる。彼がじっと見ているのがわかる。じくじくと潤み始める。みながら、してるからね、してほしいんだよね? 彼の息遣いと私の吐息が重なっていく。ほのぐらい部屋の中で、湿度がじょじょに。肌が汗ばむ。それ以上に冷たい感触が足の間に広がる。まだ、自分ではいじらないでね。

 彼の口調はいつもと変わらず、穏やかで丁寧だ。滑らかな声を聞いていると、私はコーンシロップでコーティングされていくように思える。そういう形での支配もあるのだ、と高まる体温で茫漠とし始めながらうっすら考える。もう、入れちゃうね、と彼はぴったりと押し当て、ねじこむように侵入する。前にアレコレすることなく、差し込まれると道具のように使われている気すらする。内部を押し広げるそれがゆっくりと心地よいところをこすりあげる。知ってからあまり日にちが経ってないのに、と靄がかかった頭で思う。奥に突き入れられ、カラダごと揺す振られる。これが、私はイチバン好きだ。あふれていく。彼の足も濡らしているだろう。自分で弄ってイって。耳元に吹き込まれる声をどこか別の場所で聞きながら、人差し指でそこに触れる。硬くとがってぬるついているのはきっと彼も見ていることだろう。イクまでいかないよ。彼は微笑んでいる。やがて迎える終局のため、私は指を動かす。イッたら、熱いのをいっぱいあげるからね。足の中を暖かな痺れがはしる。締め付けているね。彼のが膨れているのか、私が求めているのか。どちらがどうなのかよくわからなくなって。
 
 彼が引き抜く。まだだしたくなくなっちゃった。上にきて、と体をひきおこされる。定まらない腰をふらつかせて、私は彼の上に跨る。握れきれない彼の重みを感じながら、あて、背中をのけぞらせて受け入れる。おおきい。私がため息を漏らすと彼は低く笑った。いまも気持ちよいけど、と彼は腰をつかむ。繊細で艶やかで骨筋ばった大きな、絵描きの手。こうして、と言葉を切ったところで突き上げる。子宮口を抉られるようだ。こうすると、と腰を回す。すごく俺、気持ちいい。ああ私はただ崩れ落ちる瞬間を待つだけ。中に出すよ、と彼は荒い息の下から踊る私を見つめて。だしたら中のを吸い出してあげる。飲みたいでしょ?無邪気に笑って。飲ませてあげるからね。脈打っている。私は倒れ彼の唇を欲しがってひくつくのだ。

 この間、君の夢を見た、と彼は少し言葉を区切って話し始めた。
「どう考えればいいのか、よくわからない。気を悪くしないで欲しい。」
「夢の中で、君は四肢を切断されていた。でも生きているんだ。団地の階段を君はきょろきょろしながら芋虫のように這い登っていく。僕を探しているのはすぐにわかった。でも」
 と彼はいったんとめて唇を舐めた。ちらと私を見て、また続ける。
「でも僕は、君に見つからないように、息を潜めて、壁に隠れているんだ。その場から動けなかった。なにか君がいっている。僕は動けない。這いずる音がする。僕はその後姿をただ見ているだけだ。あれほど、怖い夢はなかった。」
 多分、君を見捨てる自分がとても嫌なんだな、と彼は話をやめた。私たちは無言で天井を見つめていた。私は彼を見た。彼の横顔は他人というにはあまりにも無防備だった。大丈夫? 彼の横目が一瞬鈍くひかった。
 ベッドの上のアナタを、私は知らない。私は知らないアナタと毎回寝て、見知らぬアナタを体に刻む。知りながら、知らないような顔をして。

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IDはEDにあらず。(ID論は進化論に勝つか)

ミッチェルのblog「わらばー自治区」記事より。

積ん読その12『反☆進化論講座 空飛ぶスパゲッティ・モンスターの福音書』
http://blog.so-net.ne.jp/warabaa/2007-02-08-1

ぽむちぼんの癖にたまにはいいこというなとチョト感動。特に「例えば某新聞社では、歴史教育と道徳教育の観点からIDを好意的に取り上げた記事を書いていた。」というあたりとか。

ID説っつーのは、「生物の複雑さは進化論では説明できず、なんらかの“知的存在”がデザインしたとする説である。それがキリスト教の神であるともないとも明確にはせず、あくまで科学的仮説なのだから、進化論と同様に公教育で教えるべきだ、と主張して教育委員会等に働きかけている。」(前傾記事より引用)というもので、まあキリスト教右派が何らかの形で影響を与えたいんだろうな。勝手な思い込みですが、イトシのヒデジこと八木秀次氏あたりが嬉しそうに「アメリカではこういう考え方がある」とまた我田引水しそうな気がします。そしてアベちゃん教育改革(ブレーンだそうだよ)の目玉に、と御用達の世界日報でぶちあげる、と。

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ペルーフジモリ元大統領が肉を喉に詰まらせたらしいが私の場合

私がブラジルにいたときの話で似たような経験がある。

ブラジルの叔父の家(日本料理店経営)に寄宿していたときは、ほとんどの場合和食(つーかスーシ)を食っていたのだけれども、まれに叔父がブラジル料理を食わせてやるといろいろと作ってくれたり買ってきてくれたことがあった。ちなみにアイスクリームとチョコレートはめちゃくちゃ美味く、いまだにアレをこえるものを食したことがないくらい。閑話休題。

んでもって私がステーキ好きなのを熟知していた叔父は、とりあえずブラジル来たんならこれでも食ってろやと500グラムぐらいありそうな塊肉をテキトウに焼いてだしてくれた。叔父曰くブラジル式らしいけど、本当かどうかはわからん。

一口食べてそれがどうもゴムぞうりみたいな味であることに気づいた。噛んでも噛んでも噛んでも(以下略)食いちぎれずついには飲み込んだ。一時間後、猛烈な腹痛に襲われた。こういうとき現地の薬よりも正露丸が効くらしく、叔父に頼まれて持ち込んだ貴重品であるそいつを服用したが、効果はなくますますひどくなった。ついにはいとこに付き添われ(ポルトゲスは話せないのです。いやスワヒリ語もだけど。つーか英語自体以下略)病院へ連れて行かれた。

医者はちょっとした問診と触診をした後、いとこと深刻そうな顔で話し込んでいる。なんとなく不穏な空気を感じた私はぜえぜえいいながら、なんていってるの?とイトコに尋ねた。イトコは不安そうな顔で「どうやら盲腸みたいよ」。すぐに手術するから入院の手続きをするよ、と私に告げた。

冗談じゃない。盲腸は遠の昔に切除してあるし、手術痕もあるんですけど…目の前が真っ暗になりつつもなんとかイトコに事情を話し、からくも逃げ出した。叔父の家に着いたら祖母が本当に嬉しそうな顔をホッと笑いながら言った。「入院したら、もうでてこられないから」

とりあえず食あたりだったようだ。当時現地では赤痢だかなんだかが流行っていたらしく、帰りの飛行機で正直に問診表を記入したらスチュワーデスから「本当にそうならそのまま入国できないですよ」とボソボソ忠告され、そ知らぬ顔で帰宅した。

とまれ、肉の生焼きには気をつけて欲しい、とフジモリ元大統領には伝えたい。彼の場合私とは違った意味で入院したらでてこられなさそうだし。

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2007年2月 7日 (水)

当blogへお越しの皆様へ

いつもお越しくださりありがとうございます。本当に感謝してます。
コメントへのレスが大変遅れておりますが、なにとぞご容赦を。
少しずつお返ししております。気長にお待ちください。
これからもどうぞよろしくお願いします。

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2007年2月 6日 (火)

コンプレックスを生み出したのもお前なら、あとはてめえでなんとかしやがれ

映画を毎日きっちり見てる割にはそのほかに書くことが多すぎてレビューまで手が回らんですよ。キムギドクの「弓」はよかったとか、いやレビュー以外にも先日もの凄くイイ男と飯を食ったとかいろいろ書きたいのにちくしょうめ。だからこんなことで煩わせんじゃねえよオマエのことだよわかってんだろ。

コンプレックスなんざてめえで生み出したもんじゃねえか。他人がどうこう言おうとも拘泥してしまう自分にとっての課題をコンプレックスというのなら、一人相撲もいいとこだ。コンプレックスへの呪詛はお前がお前に言っている寝言に過ぎないことに気づけ。誰かがお前の欠点を馬鹿にしたからコンプレックスになったなんて人のせいにするな。創造主なら生み出したものに対して責任をもて。不細工だから男にもてない、背が低いから女にもてない。だからどうした、と私は言いたい。もてないからなんだっての?もてたいならそれなりに努力しろよ。顔面に恵まれているやつだって頭脳経歴に恵まれているやつだってそれなりにみんな努力している。いわんや恵まれてないやつなぞ、努力しなきゃどうしようもねえじゃねえか。二言目には俺はこうだ私はこうだと繰言ばかりヌかしているから「理由」にされるんだよコンプレックスを。

例えば、男と別れる、またはフルときだ。

私なら、その後もそいつと友達付き合いしたいとも思わない場合、徹底的に酷いヤツになる。だいいち後腐れなく別れるには、憎まれるのがもっとも効率的かつ有効な方法である。そういうわけで別れる理由としてそいつがコンプレックスに感じている部分をつく。よってそいつが不細工なのを気にしているのなら「顔が悪いから」、背が低いのを気にしてるなら「ちび」だからといえば、二度と連絡をよこしてくることもないだろう。本当はそいつの性格上に問題があるときでも、そんなのを指摘してぐだぐだするのも面倒だし、どうでもいいやつがどうなろうと私の知ったことではない。

そう、だから断られる理由で自分のコンプレックスを相手が指摘したとき、怖いのはそういうことだ。「背が低い」のを理由に断られたとしても、実際は「背が低いことをぐだぐだいう性格」が嫌なのかもしれない。ていうか、そうなんだろうけどな。うざいんだよ。

なぜうざいか。

「俺は背が低いだろう?」っていうとき、否定してもらいたいという気持ちがその裏にあることが透けて見えるからだ。「そうじゃないよね?君はそんなこと気にしないよね?ありのままの僕を受け入れてくれるよね?」ということに対して、毎度毎度「ありのままのアナタがスキよ」みたいにいわなきゃいけないなんてウザい以外の、なにものでもない。確認作業が必要なら音声付ダッチワイフでも買えばいいのだ。

ありのままの自分に価値があるとか意味があるとかよく思えるなって私なんかは感心する。ニーチェ式に「価値のない意味のない人生だからこそ自らで価値を作り出すのだ」っていう風には考えないんだな。だってメンドクサイし。ありのままを認めろっていうのは相手に甘えている行為に過ぎないんだけど、ご本人はそのつもりなく、権利主張だと捉えていたりするからフシギフシギの不思議膏でございます。

さてオノレの身体的特徴にコンプレックスをもつのは、まだ消化しやすい。どうにもでなるのならどうにかすればよいし、どうにもならないのならあきらめて別な側面からアプローチすればよいからだ。それにいつだって歴史を動かすのはルサンチマンであるとカール・マルクスもいっておりますし(嘘)。では、オノレの過去にコンプレックスを抱えている場合はどうしたらよいのだろうか。忘れられるから生きていけるといったのは三島由紀夫だが、忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ、なんて哀願調でまとめられてもねえ。忘れようとしても忘れられない。オノレが異常者であるという烙印は自分では消せない。時が経っても、それはひどくなることはあるにしろ、決して勢いが衰えることはない。なぜならオノレがしたことだから。

私が男と寝る、性的な行為を行ったのは4歳から5歳にかけてのことだ。
お医者さんごっこなんていう生易しいレベルではない。相手の子も同じくらいだったから勃起できなくて挿入まではできなかったけれども。いまでもあのときのことは鮮明に思い出すことができる。

私は被害者ではなく、ある意味加害者だ。なぜなら私が誘ったから。時が経てば経つほど、私は自分のしでかしたことの意味とその重みを十二分に理解させられる羽目になった。私は、たとえ親であれ、男性に無邪気に抱きついたりといったスキンシップをとることができなくなった。自分が異常者であることが周囲にわからないように行動には細心の注意を払うようになった。自分が女性であることを嫌悪した。願えば男性器が生えてくるのではないかと毎日神に祈りながら眠った。自分のした行為がなんであったのか正確に知るため小学校低学年から瀬戸内晴美を読み愛欲を知り、岡本かの子を読みおんなのかなしさを垣間見た。エロ本を買って男女の営みの滑稽さを目の当たりにして絶望し、卑猥語をそれとわからず使っている同級生を羨んだ。そして生理が来て、自分が女である現実からは永遠に逃れられないことをのろった。

中学生になり愛人をもち、そいつが私を自分好みに仕立てたいから選んでいることを鼻で笑いながら貢がれることの楽しさを得たりして、ああもう私は普通のコイビトなんて、と熟知した。私は汚れているのだから、こんな私でも選んでくれたのなら、絶対に拒むのをやめようと。そして16歳で31歳の男によって処女を失い、それでもオノレの性を悩みに悩んでついには精神病院に放り込まれた。家には一年のうち三ヶ月ぐらいしかいないようになり、二極性精神障害という病名が光り輝くわけです。そんな日々が長いこと続いた。死んだやつもいた。死なせたやつもいた。生き残ったのは、この私だ。

どうだ。こんな風に不幸自慢なんて誰だっていくらでもできる。100人いれば100通りの不幸があるだろう。“幸せな家族は似通っているが不幸な家族は様々である”のだから。他人の不幸なんてつまらんだろう?一読してうんざりしただろ?だから無意味なんだ。そして「自分はコレだけ差別を受けてきた」と主張している人が、他人の痛みやらなにやらにまったく無神経だったりする。ちゃんちゃらおかしい。そういう輩に限ってダブルスタンダードだと他者を攻撃したりする。ダブスタ同士仲良くやれってんだよ。相手を差別するのなら、てめえだって差別されて当然じゃねえか。自分が特別視されたいのなら、オノレのキャラを生かせよ。認められたい、ほめられたい。だったらそれなりに努力しろ。自分を変えることで『世界』を変えよ。自分の位置を変えようとせず、その努力を怠っていながら結果だけ望むとはいいとこどりで都合よすぎなのです。これでもまだあれこれ文句たれるなら、こんな話はいかがかしら。

「需要と供給なんじゃないの?」と我らが総帥はコーヒーをちゅーっとすすって淡々と言う。私わからないんだけど、と人差し指をほおにあてて夢見る乙女ポーズ。
「例えば背が小さいオトコノコならチビっこ掲示板にいってみたらどうかしら?若いうちに売らないと高い価値つかないのよあっちも」フケ専門デブ専門は知ってたけど、チビっこ専門もあるのか…なるほどゲイの世界は奥深い。「需要があるところに供給すれば悩まなくてすむのに、不思議なハナシだわ」と総帥はにっこりと。なるほどね、ありのままの君が好きだといってくれるわけだから、悩めるアナタにとってこんなに有難い話はないでしょう?そんなわけで需要のあるところへ供給すれば万事快調。そうでないのを望むならそれなりのことをせよってことでちゃんちゃん。

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2007年2月 5日 (月)

おゲージツ地雷(ごリッパな芸術家気取りがイチバン嫌だ。)

最近、私が撮った画像をmixiアルバムやgooブログへあげるようにしている。

もちろん自分の撮った画像が巧いから載せているわけでもなく、なんとなく批評が欲しいという気持ちと、撮った画像を客体化して見たいという感覚でupしている。それでもほめられたりするとやっぱり嬉しい。うまいですね、といわれるよりも、雰囲気がある(まあ下手をほめるとしたらこれしかないわな)あるいはこのとき撮った感情が分かるというような指摘をされたほうが非常に面映い気持ちになる。なにかを伝えることに成功しているわけだから。

だが、まれに評論家気取りであれこれいってくる輩もいる。実に無粋だ。頼んでもいないのにいう人間に限ってどうでもいい批評をよこしてくる。なんの参考にもならない上に、感情が沈殿していきやがてやる気すら奪う。まさに地雷である。webで発表する以上宿命とはいえ、やりきれない気持ちになる。

今回そんな地雷を踏んでしまったのは、私が好きでよく見に行く人だった。彼の絵につけたそいつのコメントを読めば読むほどその小賢しさにまったく腹がたつ。根本敬先生ではないが「お前は黙ってろ」といいたい。上からものをいう、高い見から見下したコメントを書いたご本人がどれほど「オゲージツ」なのかその絵を見に行ったが、これがまた実にアレで、よく言えば「きれいですね」悪く言えば「ラブホの飾り絵みたいな」、つまり絵葉書にはぴったりというところかなと。

まあそれでもねえ、私のような美術好きとはとてもいえない人間(だって好きな画家はフラゴナールだし)だからそんな感想を抱くのかも、だってゲイダイ卒って書いてあるしぃ~とハニーコミヤマに意見を求めてみた。彼は美系大デザイン科卒なので不見識はお前だ、あの絵の素晴らしさがわからんのかぐらいのことは言われるかなと思ったが、その意見は私と同様というかもっとアレで、あーゲイダイって感じだねえと切り捨ててしまった。この人もさあ、結局その絵が売れてたらそんな批評なんかしないと思うよ、この人の絵みてると技術だよね、だからなに?って思う種類の絵、として更に続けた。

「つまりさこういうのは、“恋人達の甘い囁きを、国語教育の立場から添削する”ようなものだと思う。 なにも恋人達は教育者のために言葉を紡ぎ出すのではないわけで、そこに敢えてしゃしゃり出てくるのならば“無粋”の謗りを免れないよね。言葉も絵も、一度制作者の手を離れた作品は様々な評価に曝される。でもそれが“誰に対して”“どんな場で”発表されたものかを予め理解しないと、正しい評価にはならんと思う。 」ま、なんだね、とちょっと笑って彼はいう。

「『プロの立場から言わせてもらうと…』なんて意見は往々にしてお呼びじゃないもんです」

私も以前ある人に小説を見せて「お友達の瑠璃子ちゃんが一生懸命書いたと思うと頑張ったねえといいたい」とものすごい批評をされたことがあるが、それでもやっぱり書くことが好きでこうして続けている。こういうのはもう好きだったら続けるべきであるとしかいいようのない話なんだろうな。だから「おゲージツ地雷」にヤラレてもめげずに長い年月じっくりと続けて欲しいと、件の被害者には思う。すぐに復活しなくてもいいからさ。なにしろ、私はあなたの絵がとても好きなのだから。

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2007年2月 2日 (金)

男は背が低いほうが良い

私は背の低い男が好きだ。

今までざっと考えてみても、175cm以上ある男と付き合ったことはあまりない。だいたい160cm前後の男のほうが多い。確かに今一緒にいる男は180cm弱で顔がマリーンズ小宮山投手(阿部寛はいってるけどでもチョーさん)というある種非常に嫌な組み合わせなヤツだけれど、そんな彼もぬいぐるみを抱いて寝るという話は内緒にしておいて欲しい。

とまれ、なんで私が小さい男がすきかというと、オノレが小柄であるというのがその理由としてまずあげられる。でかい男だと会話中「え!?」と聞きなおされることも多く、話すだけで一苦労なんてコントじゃないのだから。同じくらいの身長だと途切れることなく会話が続けられて良い。それに身体のサイズとちんぽのサイズは同一ではない。でかくても小さいやつもいれば小さくてもビッグなやつもいる。だいいち、でかけりゃいいのかって話でもあるし。閑話休題。

だから私が男を選ぶときは、顔も身長も、あまり関係はないのだ。もちろんちんちんなんて脱がさなきゃわからんし、また、サイズって小指でさえなければいいんです。愛情があればサイズは気にならない。でかいと痛いし。そんな話はどうでもいいのであって、つまり、背が高くなきゃ絶対にイヤだ、なんつう女はおそらくある種のコンプレックスから来ているんだろうなあと思う。かっこよくなきゃイヤだという女に限って顔か性格がアレだったりするわけだし。

それよりも背が小さいということでコンプレックスに自縄自縛となっているほうがよほど恥ずべきことだ。お前はそれしか売りが無いのかといいたくなる。カワイソがられたがっている男ほどうざくて嫌なものはない。開き直って自信をもって女を口説けば結構うまくいくものじゃないかね。私の、経験上から言って。

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2007年2月 1日 (木)

「和食認証制度」をめぐるTB議論総括

ツボに入る言葉、というのがある。

この間別なところでコメントをやりとりしていた際、「僕が快く思っていないものは『答えが一つしかないもの』に対して『いや、色々な人の意見がありますが...』とお茶を濁す行為と、『答えが沢山あるもの』に『お前、それは間違っているだろう!』 と断罪してしまう行為です。 このどちらも凄く破壊的な事なんだけど、多くの人は、意識的・無意識的に関わらず、これをすりかえてしまう。 」というレスが相手から返ってきた。なるほど、と思う。

またある政治学者と話していて印象に残った言葉もある。「政治学的な問題というのは、知れば知るほど断言ができなくなる」つまり裏を返せば知らなければ知らないほど断定できてしまう、ということになる。

私なぞは自分の知識の無さに絶対の自信をもっているので、相手から知らないことをつきつけられたとき、まずは調べる。そして調べたとしてもその結果について断定など絶対にできない。知らないのに断定するなんてもってのほかだ。なぜなら、一例を出すと朝鮮人従軍慰安婦は政府による強制の元で行われたというテーゼに対して、あったともなかったとも断定はできない。(どちらの立場をとるか、ということは選択可能ではあるが)もしかしたら今後強制された証拠がでてくるかもしれないし、でてこなければ強制がなかった証左となるからだ。オノレの主観に基づく話はいくらでも断定できるが(面白いと思うだとかイヤだとか好きだとか)、そうではない政治的な問題ともなれば断定できなくなるのがセオリーというものだ。

怖いのは断定してしまうことによって積み重ねられるある種の「イメージ」である。ベルグソン的イマージュはどうでもいいので簡略にスパっと述べてしまうとつまりよく言えば「うっかりさん」悪く言えば「知ったかぶり」をする人という風に見られてしまうことである。そういうイマージュの総体として語られるのは避けたいものだ。

避けたい、というのなら「日本人ならこうあるべきだ」と定義してしまう事も避けたい。私は日本語がかなりあやふやな人間なのでそんなことを言おうものならweb上で発表した全ての文章をチェックしてしまいたくなる。例えば「すべからく」を「全て」という風に誤用していたりすると、「日本人ならどうのこうのというくせに、日本語すらまともに使えないのか」と冷笑されかねない。私は見栄っ張りなのでそんな馬鹿者と思われてしまうようなうっかりはなるべく避けたいと小心に考えてしまう。ダブルスタンダードを用いる人というレッテルも、避けるべき命題ではある。

見知らぬ誰かに自分の言説が説得力を持つものに思わせたいのなら、それなりの知識、具体例、数字を提示しなければ、相手の信頼を勝ち得ないのではないだろうか。であるがゆえに、和食認証制度についてもマツオカという大臣がBSE問題のとき、いわゆるドウワ利権の後押しの結果どのように暗躍したか、あるいは当時の武部農水大臣がそのためどれほど大変だったか(だからこそ彼はその突破力を見込まれて幹事長に抜擢されたといわれるわけだが)ということを知らないと「正しい和食文化を伝える」などというお題目に釣られてとびついているとみなされてしまう恐れがある。個人的見解を述べるならば、BSE問題のとき、ドウワ利権のために簡単に国民の食生活安全保障を放り投げたマツオカが「日本の食文化を守れ」などとよく言えたものだ、まさに「おまえがいうか」であると思うが、それもあくまでも私がドウワ利権の真相などという怪しげな本や資料その他により独自に調べた結果であるので、共感する人は少ないかも知れない。

和食認証制度委員会のお歴々や議事録を流し読みする限り、こんな仮説を妄想したがどうだろう。委員会の面子は外食産業の大立者であり、仮に彼らのうちの誰かが経営するドコカがアメリカに出店するとする。そこで政府は認証制度を適用し、そうなると認証制度を大々的に前面に出した広告展開をそのチェーンは行うだろう。チェーン店舗にむけて農産物などを輸出すればそれだけで飽和状態にある国内生産物で利益を出すことができるわけで一挙両得とまではいかないかもしれないが、少なくても赤字農家対策にはなる。農村の堅実な票がきたる参議院選挙で期待できるようになれば、内閣支持率が下がり県知事選挙でも無所属候補にやぶれ打開策が見出せない自民党には心強いだろう。さてこんな三秒ぐらいでデッチあげたようなネタでも、2億3000万の血税を費やすことを考えれば「海外じゃなんでも刺身で食うから和食認証制度を導入せよ」なんてハナシよりも説得力はあると思うがいかがだろう。上記のような推論(サシミじゃないよ)の場合、国益という観点から考えればそれでいいじゃないか、と肯定論として考えることも可能であるわけだし。なんにせよ刺身よりは話として通るだろうと、私は考えている。

先に結論ありきで考えるとどこかの学者モドキのように、相手が書いてもいない文章を書いたと主張したり、あるいはミトコンドリアなどとウサンクサイネタで勝負せざるを得なくなる。(そういや、改訂のたびにこっそりと問題記事を削除したり変更したりするので、初版本と重版本で内容が違うという椿事が起きたジャーナリストモドキもおりましたな)誰かに自分の言説を認めてもらいたいなら、それなりの下調べをした上で主張しないと、単にアレな人といわれて終わってしまうのではないだろうか。私はアレな人ではあるが(是は断言できる)、これ以上処置なしとは思われたくないので、せいぜい小心者は小心者らしくチマチマと調べた上で書いていきたいと考えている。

以上、今回の和食認証制度をめぐるTBの件において私の思う二、三の事柄。以下はこちらの記事に対する反論です。

・まず刺し身うんぬんというのは賛成の、なんら有効打にならない。なぜなら、海外の日本料理屋で寄生虫がいる魚を刺し身にしている店がどれほどの割合であるか具体的な数字がないから。具体的なパーセンテージを提示しない限り、すべては憶測に過ぎない。また実際に摘発された店があったとしてもそれは当事国の衛生法のもとで裁かれるべき事案であり、それと日本食文化が誤解に基づいて調理されているということはイコールにはならない。特殊事例を用いて全部がそうであると断定してしまうのはあまりにも危険である。例えば日本では川魚を刺身に出す店があるからといって、全ての店が川魚を刺身にするわけではないからだ。そして重要なのはこの案が発案されたのは日本料理が(調理法ではなく)味覚として独自解釈されている恐れが有るからであり、認証制度を導入しようという立脚点は、海外で寄生虫のいる魚を刺身にしたからではないのだ。この問題において刺身にようなトンデモを持ち出すのは、ナイフの危険性について語っているときに(アーミーナイフは学校に持ち込める、いや包丁だってみたいな)突然石器や黒曜石をもちだしてくるようなもので、なんら関係ない上に困惑するだけである。

・民間による和食認証制度はフランスで行われている。在留邦人団体が独自にガイドブックを発行している。これは最近報道されたものなので検索すればヒットするでしょう。ヒントは毎日。ゆえに海外で民間団体がそのような認証制度を行ったことはないというのは事実に反する。

・海外の日本料理店を利用してアヤシイ日本食を食べさせられた(とするなら)客が実際にいつどのように日本に対して抗議したのか。具体的に日本政府が対処すべき問題なのか。仮に認証レストランなるものができたとして、本当に(おそらく大半は「正しい」日本食かどうかなんて考えてなくて安くて日本風の食事がしたいだけの)客がそれを目安にして店を選ぶかどうか。本当にできるだけ「正しく安全な」日本食が食べたいというほどの客ならば自分で探すだろうし直接日本を訪れるだろう。(政策としての効果・有効性が低い)。それは単にガイドブック頼りの(海外で日本食を食べたい)日本人観光客のためにしかならないのではないか。日本の「ブランドイメージ」(などというものがあるとして)をそんなに危惧するのなら、「女性は子供を産む機械」と発言するような政府首脳の存在(しかも発言者は国民の健康福祉に携わる省庁のトップ)自体がよっぽど日本のブランドイメージを悪くしていると思われる。

・それから、日本の「ブランドイメージ」を気にするなら変な発言をする自国政府首脳のほうが問題であると述べたが、「国内の不祥事問題を理由にこの制度の是非を絡めるのは論点のスリカエ」という意見もある。しかしこの場合全く同意できない。なぜなら、政府首脳の発言は国内で報道されるのみならず即座に外電で海外に知られることになる。もし日本の「ブランドイメージを守る」、それが日本の国益だと声高に叫ぶのならば、どこぞの海外のアヤシイ日本料理店の刺身を気にするより、自国政府首脳の問題発言がどれだけ日本の「ブランドイメージ」をぶち壊し海外に在住する日本人が恥ずかしい思いをするか気にするほうが、よっぽど国益にかなっている。

【まとめとおことわり】だいたい記事にした後で、どういう概要か農水省の発表を読んでるあたりなんともかんともではある。元ネタにあたって真偽も確かめずに記事にするようじゃ、まるで朝日新聞並みの飛ばしっぷりですな。以後私の記事に反論する場合は、憶測、他者の記事、あるいは一見関係するようで無関係なニュースソースではなく、議事録や団体の背後関係、あるいは日本の農産物の消費量、輸出に伴うメリット等の観点、つまり具体的な数字を上げて反論してください。そうでない場合はどのようなTBであれ無視します。んじゃね。

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