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2007年1月31日 (水)

久間防衛大臣の気持ち(そこでもうブチギレですよ)

そんな事より安倍総理よ、ちょいと聞いてくれよ。閣議決定とあんま関係ないけどさ。
このあいだ、閣僚記者会見にいったんです。閣僚記者会見。
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで座れないんです。
で、よく見たらなんか新聞一面に、麻生大臣核兵器容認、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、核兵器容認如きで普段来てない閣僚記者会見に来てんじゃねーよ、ボケが。
核兵器容認だよ、核兵器容認。
なんか朝日新聞とかもいるし。新聞社総出で麻生たたきか。おめでてーな。
よーしパパ特集組んじゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、靖国神社参拝するからその席空けろと。
記者会見ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
Uの字テーブルの向かいに座った奴といつ喧嘩が始まってもおかしくない、刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。
で、やっとインタビューがきたかと思ったら、隣のブッシュが、二万二千人の米軍増派、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、イラク強硬路線なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、二万二千人の米軍増派で、だ。
お前は本当にイラク強硬路線をとりたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、ラムズフェルド言いたいだけちゃうんかと。
防衛大臣の俺から言わせてもらえば今、防衛省の間での最新流行はやっぱり、
米軍再編、これだね。
普天間問題、えらそうに言うな。これが通の米批判。
米軍基地問題ってのは沖縄が多めに入ってる。そん代わり国内批判が少なめ。これ。
で、それに米大統領批判。これ最強。
しかしこれをやると次からゴンドリーザにマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前、安倍総理は、宮崎県産焼き鳥でも食ってなさいってこった。

****

とにかくこんなふうにいろいろありまして柳沢とかもブチ切れまくっているわけです。なんかこう、啓示でもあったんすかね。安倍政権潰せっつー。もしくは沈みつつある船からは早く逃れようとか。 例のいぢわるな人は「宏池会もしくは東大官僚による自爆テロ?」などどいってますがもしかしたら新手の爆弾男たちなのかも。

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2007年1月30日 (火)

そこじゃないでしょ(和食認証制度をめぐるあれこれ)

以前、私は、あるテクストを元にAとA'という風に解釈が別れる場合、その両方に対して理解できるという立場をとることが重要であると記したことがある。

「和食認証制度」という今後どういう運営がされるのか、現在発表されている政府概要だけでは、ハコモノ行政レベルで終わるのか(利権系)、それとも輸出推進路線(行政主導民間委託)でいくのかまだ見えにくい問題に対して、であるがゆえに、利権系となる恐れを指摘することも、輸出拡大につながると肯定する意味もよくわかる。両方の立場を取ることは可能である。論拠として理解できるので、議論として成立するといえる。

だが、例のあのお方のいうような「美しい国」レベルの言説ではどうか。つまり具体性を欠いた形容詞や例えをだされて反対・賛成といわれてもそれでは何の意味もない。伝聞レベルの内容で論拠を立てるのはデマを誘発するだけであるということは、おととしあたりに書いた「民主党沖縄Flash」問題で私は懲りている。

私の「和食認証制度」に対し疑問を呈した記事へTBを頂いたが、その方の記事を読んでそういう意味では少々フシギな感覚を抱いた。上記のような観点から賛成論を唱えるのならわかるが、刺身食べるから、という話しをもちだされてもなあ。日本や中国、東南アジア南米アメリカフランス(このうち「和食認証制度導入問題」になっているのはアメリカではあるけれども)の、いずれの国もそれぞれ食品衛生法というのは存在するとは思うし、違反すれば処罰されるのはその担当者であり、批判されるべきは衛生法を違反した人間であり、その料理を伝えた国、ではない。恐ろしいのは(鳥インフルエンザのように)風評被害であって、正直、具体的論拠に依拠しない話はどんなに優れていたとしても、風評を広めている謗りからは逃れられないと思う。私がブラジルにいたときも、当時流行っていた赤痢の原因が刺身とされたが(その割りに生水がんがん飲んでるから馬鹿だなとは思ったが)、風評はいわゆる「人の噂も七十五日」であって、売り上げ減はむしろその後に乱立することとなった日本料理店によるもののほうが大きかった。いくら「民度」が低くても衛生法にまで首を突っ込むのは筋違いどころか内政干渉にあたる恐れもなきしもあらず。肯定反対ともにそんなところを論拠にはしてはいないと思う。

そういうわけで刺身を食べるから、なんていう論点を持ち出すとかなり変な方向にいってしまうのではないだろうか。そんな「例え」をだすとどこかのいぢわるな人から「日本は賞味期限切れの牛乳を用いる企業があるから、カフェオレはフランスの、カフェラテはイタリアの、ミルクコーヒーはアメリカの、それぞれの国から認証制度を要求される」なんてまぜっかえされて終わるだけと老婆心ながら申し上げる次第。

まあでもこういうことはねえ、皇統系譜問題でもどこぞのアレな学者さんが「ミトコンドリア」だのといった変な話を持ち出して失笑を買ったりしているからなんともかんともなんですけれども。

※元ネタになっている人から上記の「期限切れ牛乳云々」について指摘があったので記すが、これを書いたのはあるいぢわるな人である。元ネタ記事へのコメント欄では誰が言ったか明記しないで記したのだが(迷惑かかるというよりもだれだれがどういう風にいってましたがとコメント欄の中へ書くことにあまり意義をみいだせなかったからだ)どうも私本人の発案と思われているようなので注意書きを記す。このブログ記事はそのいぢわる(だけどステキ★)な人もみているので出展元を記しておいた。でないと著作権もしくは発案料を請求されるかもと被害妄想気味に思ったり思わなかったり。

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彼が生きる小さな世界

彼は日々、小さな世界で生きている。

元々、私が彼を知ったのは、web上で載せている路上観察ネタからであり、出発点がそもそもそんな具合だから、彼の感じる日々の喜びが小さくささやかなものであるというのは当然の帰結かもしれない。

スピードがさ、違うんだよね、とポルコ・ロッソくんはいう。
「面白いのは、ものすごく速い人とものすごく遅い人のコンビだからある意味絶妙といえるんだよ。つまり中途半端にずれていると落差がつくんだけど、一周速いのか一周遅いのかあるいは両方なのか。どちらにしろ結果同じところにいるっていうのがさ、すごいとおもう」

私もそう思う、と同意してみる。ときどきいらいらするよ、と付け加えた。「でも結局そういう風に思ってしまったら“負け”というか、私は彼のその独特の速度が好きになってわけで、そこを否定してしまうことになるでしょ?だからイライラすると自己嫌悪に陥る」

ごちそうさま、と声を上げてポルコくんは笑う。本能なんだよね、と気にせず続ける。

「私もいい加減かなり感覚的な人間だと思ったけど、彼には負ける。彼には感情も無くて、ただ快不快原則、それに従って動いている。だけれども無節操ってわけではなくて、“少年の純情さ”を堅守しつつ、しかもあの年で自覚的に。そこが凄い。私なんてロジックで動く、非常に論理的なツマラン人間であることがよく分かったよ」
それはどこか敗北感に似ていた。勝つ気なんて、元からさらさらないけれど。

この間、俺の髭が枝毛になっている画像送ったでしょ?と彼からメールが来た。メールには小さな毛で白い紙を引っ張っているようなフシギな画像が添付されていた。髭枝毛、面白いからとっておいたんだけど、今日、それがかなり吸着力があるってことに気づいたんだ、こんな風に紙に吸い付いて結構丈夫で容易にはとれないんだ、でね、と彼の文章は続く。
「多分自分は、対不特定多数あるいは対誰かと、対峙したり議論したりというのがすごく苦手で、おそらくできないんじゃないかとすら思う。自分の“星”は、こういう小さな発見を隣にいる誰かと分け合って生きていくことだと、なんとなく啓示を受けたんだ。」文章は、ボクはこんな人間だけどどうかよろしくね、と締めくくられていた。

彼はかそけき音へ絶えず耳を傾けながら生きている。はたから見ればそのちっぽけさは哂う対象にすらならないものだろう。だけれどもそれはあの粘菌の世界のように、ミニマムだが驚くほど芳醇で多様な広がりをみせ、そして深い。私は彼と顔を寄せ合ってその世界を見つめていきたい、とふと考えた。

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2007年1月29日 (月)

その、あと



薄暗い部屋でわたしたちは互いを舐めあっていた。

私の中からは、だしたばかりの彼の体液がゆっくりと滴り落ちる。彼は動きを止めない。私の位置からは彼の顔が見えない。彼の舌は速度を合わせるように、律義な様子で搦めとっていく。「あまいんだよ」といつか彼のいっていたことを思い出した。最初は甘いけど、二度目はとても口にできたものじゃない。そう?私は大好きよ、と微笑んだ後、柔らかく床に押し倒されたのだった、あのときは。

彼の舌でこねまわされ、先が鋭角にたちあがっていくのがわかる。声を出さないように、私は自分のことに集中する。硬くなった彼の先から透明な滴が流れ落ちる。もう口に入りきらないから私の体液と混じりあったそれを舌の先でとらえる。生々しい味に、私は少し、震える。まじってもまじっても、まだ足りないような、私たちは体を合わせる作業に没頭していた。舌を絡ませ、乳首を捻られ、彼のがねじこまれる。私のは広がり、彼を包み受け入れる。「僕にとってセックスは確認作業なんだ」とつぶやいた。

「ここにこうして君がいることがわからないから」

事後のそこは、私たちがまだ唇を寄せ合っているかのような姿勢をとっていた。魂を落とさないように、そっとその部屋を離れた。

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日本人である!と強調するなら

日本語ぐらいちゃんと使おう。 「すべからく 」を誤用している人が多すぎる。

「すべからく」は「全ての」という意味では決してない。

「国政に携わる議員はすべからく公僕意識を持つべし」という風に、「すべからく」ときたら「べし」「べきである」というように締めることばなのだ。

国語辞典にも「すべからく」イコール「すべて」なんて書いてないでしょ?

それで日本人として、日本を大事に、なんていっているのをみるとなんだかなあ…と正直思ってしまいます。まあ「敬愛なるベートーベン」などという言葉が邦題としてまかり通っている国だしもうなにをいってもダメなのかも。(呉智英も同じような理由で「日本語云々」という本を書いている人を怒ってたな。ああその気持ちは分かる気がしますよ)

私?私はそんなこといいませんよ。なにせ日本語もあやふやな人間ですし。

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2007年1月24日 (水)

勝手にアカデミー賞レース予想、受賞はこれだ!

実は未見の作品も多々あるんですが、とりあえず下馬評なんかをwebで見聞し(あとはアカデミー賞特有の力関係ってヤツも妄想しつつ)まとめて俺ちゃん的予測に基づき策定してみた。◎が本命、●が次点。

■作品賞

◎『バベル』
 『ディパーテッド』
●『硫黄島からの手紙』
 『リトル・ミス・サンシャイン』
 『クイーン』

・「硫黄島からの手紙」にはとってほしいが、おそらくはバベルだろうなあ。アカデミー賞はこういう複雑に入り組んだ不寛容ネタ結構好きですからね。「ディパーテッド」は元ネタが香港映画だからアウト。「リトル・ミス・サンシャイン」はコメディだから。(基本的に最近の傾向としてコメディでは作品賞取れないケースが目立つ。伝統的に弱いのかも)「クィーン」は英王室ネタだから保守的なアカデミー賞会員は忌避するでしょうな。どんなに優れていたとしても。

■監督賞

●アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ『バベル』
 マーティン・スコセッシ『ディパーテッド』
◎クリント・イーストウッド『硫黄島からの手紙』
 スティーブン・フリアーズ『クイーン』
 ポール・グリーングラス『ユナイテッド93』

・正直、これはどっちが作品賞をとるかで決まってくるネタという気がします。当然「硫黄島」が作品賞なら、監督賞はイニャリトゥっす。スコセッシは今回も逃すんじゃないかなあ。なにせオリジナルじゃないってとこがアカデミー会員のアメリカ野郎魂に火をつけるんじゃないですかね?香港って日本じゃねえの?(あるいは日本って香港の何州になるの?)などと思っていそうだし。希望的観測はおいといて、おそらくは作品賞バベル、監督賞イーストウッドあたりで手打ちっていう感じじゃねえかなあ。(これでとりあえず太平洋戦争の借りは返したみたいなつもりで)んでまたもや逃したスコセッシはキレて暴れてなんか壊す、と。

■主演男優賞

◎レオナルド・ディカプリオ『ブラッド・ダイヤモンド』
 ライアン・ゴズリング『Half-Nelson』
●ピーター・オトゥール『Venus』
 ウィル・スミス『幸せのちから』
 フォレスト・ウィテカー『ザ・ラスト・キング・オブ・スコットランド』

・ディカプリオは何度か候補になりながらもいっつも逃しているから「ディパーテッド」とのあわせ技一本つーことで。(だから監督賞は略)ピーター・オトゥールは論功行賞みたいな感じですかね。

■主演女優賞

●ペネロペ・クルス『ボルベール 帰郷』
◎ジュディ・デンチ『Notes on a Scandal』
 ヘレン・ミレン『クイーン』
 メリル・ストリープ『プラダを着た悪魔』
 ケイト・ウィンスレット『リトル・チルドレン』

・見てない作品が多くて正直よく分からない中で決めてみた。ペネロペはトムちん結婚しちゃったから慰め代として。まあそれはおいておいて、ジュディ・デンチじゃないかなあ。なんせディムだし。ポイントは年です。年となるとクイーンはどうだよ?って話ですが、王室モノは殿下の結婚問題とかあるんでちょっと今はアレなんじゃないでしょうか。とりあえずメリル・ストリープさえとらなきゃ誰がとろうがどうでもいいんです。もういいよメリル。

■助演男優賞

●アラン・アーキン『リトル・ミス・サンシャイン』
 ジャッキー・アール・ヘイリー『リトル・チルドレン』
 ジャイモン・ハンスゥ『ブラッド・ダイヤモンド』
◎エディ・マーフィ『ドリームガールズ』
 マーク・ウォルバーグ『ディパーテッド』

・ドリームガールズでの熱演つーよりも、いやこれで最初で最後だろうからなあ…という同情票。アカデミーに定着しつつある黒人枠ですが(嘘テキトウっす)、今回はこの人じゃないかと。アラン・アーキンをチョイスしたのは、この人もこれが最後(略)。爺さんは早めにもらっておけ。

■助演女優賞

 アドリアナ・バラッザ『バベル』
 ケイト・ブランシェット『Notes on a Scandal』
 アビゲイル・ブレスリン『リトル・ミス・サンシャイン』
◎ジェニファー・ハドソン『ドリームガールズ』
●菊地凛子『バベル』

・下馬評高いジェニファー・ハドソンが受賞するとみた。菊池凛子には取ってほしいけど、多分難しいのではないでしょうかね。このあたりが妥当じゃないかしらん。サヨナラ以来の受賞には手が届かない気がする。(個人的には早川雪州のときみたいにダブルノミネートを期待したんだがな)アジア人枠は何年かに一度ってことで。(ノミネートさせてやるだけ有難く思え)

さてどうなることやら。

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2007年1月23日 (火)

子供にDQN名付ける親は死んだ方がいいと思う

「DQN名ランキング」
http://dqname.selfip.net/

「亜菜瑠(アナル)」だの「煮物(ニモノ)」だの「しいたけ(シイタケ)」だの「幻の銀侍(マボロシノギンジ)」だの正気とは思えない名前が続く。出展が2ちゃんなんで嘘だとは思いたい。ネタであることを祈るが「ラッキー星」くんは実在するしなあ。こんな改名裁判しなきゃならんような名前つける親は自分がその名前になるかいっぺん死んでみたほうがいいように思える。もはや虐待ですよ。

とはいいつつも私の友達も上記サイトに掲載されている名前を子供に付けてしまった。事前に相談してくれれば全力で阻止したんだが(縁を切られるのは覚悟の上)事後連絡であえなく撃沈。付録の名前辞典にこんなのばっかり載せているたまひよ(たまごクラブひよこクラブ)の編集部は頭おかしいというか日本の伝統文化を破壊するためにどこぞから送り込まれた赤色革命勢力なのでは?まあ南アルプス市なぞとキッカイな市名にして喜んでるくらいだからもうDQN名ぐらいつけなきゃスタンダードじゃねえのかもかもしれんな。もはや伝統的な日本なんてハリウッドインチキ映画の中にしかないのかも。

ちなみに上記サイトにはエ~シィイ~こと公共広告機構はDQN名撲滅キャンペーンやれYO!という提案がされている。秀逸なレスがあったので引用する。

**

106 :名無しの心子知らず :sage :2006/12/12(火) 01:45:14
こんなのはどうだろう・・・ちょっと考えてみた。

幼稚園の入園式で名前を呼ばれて返事をすると、
保護者達からどよめきの声がする。
自分を訝しげに見る大人たちに「?」の顔の子供
小学校に上がり、机に座っていると数人の子供がからかいに来る。
中学生になってもそれは続いていた。
どんなところで名前を呼ばれても、周りの人が皆振り返って自分を見る。
怪訝な顔をしたり、笑っている人もいる。
からかいのつもりで名前を大声で呼ばれ、思わず耳を塞ぐ子供。
涙が頬を伝って流れている。
ナレーション「一生使うものです。名前、大事です。」
大人になった子供が、名刺を画面の前に差し出す。
名刺は真っ白で何も書かれていない。
台詞「名前で傷つく子供が一人でも減りますように。」
コーラス「エーシィィィィー♪」

**

これ、本気でやらないかな。私も名前で苛められた人間なので、変な名前をつけられた人の気持ちが多少分かる。フツーの平凡が一番いいんですよ。だいたい政治家でも有名人でも芸能人でもDQN名ついているヤツみたことねえだろ?自己実現自己表現は人生でやるもの。名前でする必要は無い。とにかく名前付けるときはその子が80ぐらいになって○○おばあちゃん○○おじいさんと呼ばれる姿を想像して付けろ。80まで生きるアナルちゃんなんて想像できないだろ?かわいい~★名前つけるのも結構だが、てめえの腹具合でもちょっとみりゃ、花の命の短さぐらい把握できるだろうにねえ。なんにせよ客観性というのは大事なんですよ。

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2007年1月21日 (日)

塩ちんこラーメン

すみませんつかれてますごめんなさい

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酸っぱいモノが食べたくて

毎週末セックスするような日々というのはものすごく久しぶり(2年ぶりくらい?)なので、どうも身体がついて行かない。ジムで筋トレしてはいるが、使う筋肉が違うしなあという次第。別れた彼は元気に赤坂あたりを散策してるらしく、オトコノコっていいわねえと感嘆してみた。実にうらやましい。(以前はよく毎日セックスできたもんだとあきれる。でもそれもみんな昔の話)目が覚める。今日は友達の家へ遊びに行く予定。出かける準備をと身体を動かした拍子に、したたり落ちるモノあり。いやあねえもう。ただだるい。

疲れがたまると酸っぱいものが食べたくなる。ああでもこれって違うからと思いつつグレープフルーツをもうひとつ。

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丹波リン祭り!「白蝋城の妖鬼」

シネマヴェーラで開催中の丹波哲郎追悼「死んだらこうなった!」。正統的な見所としては「ジャコ萬と鉄」「豚と軍艦」あたりなんだろうけどサイテー映画好きにはあまりにも見逃せないチョイスがモリモリしておりまして、しかもそういうピンとくるのは日に一本ずつ(シネマヴェーラは基本毎日二本立て名画座式興行)という往年のファミコン抱き合わせセット販売公取委から文句が来るわよ☆みたいな感じですな。

そういうわけで個人的には「忘八武士道」(丹波リンは「明日死能」とかいうソテキネームで登場)や「お熱い休暇」(丹波リンが007なみの活躍をする。松岡きっこがボンドガールっぽい役で出演。若い!)、せむし姿がイカス「白蝋城の妖鬼」なんかが漢心をそそるラインナップでございます。(ものすごく見てみたかった「人間革命」が上映されないのは例のアレってことでしょうかねえシナノ)

んで「白蝋城の妖鬼」。製作大蔵貢っていう文字だけでどういう映画かよくわかるという或る意味非常に親切ですな。映画館内は好事家たちが寄り集まっておいヌーヴェル・ヴァーグのときより多いじゃねえか。まあなんだ、だからこそ日本は安泰なのじゃよチミィ。本編が始まる。

伊達藩お家騒動に材をとった内容。江戸時代、伊達藩城下に「白蝋太郎」と名乗る盗賊が跳梁跋扈する。家督を長男に譲ろうとしていた藩主は、江戸おもてに知られたらお取りつぶしに、と頭を悩ませ病に伏せる。お家の一大事に次男である剣の達人「振袖小次郎」が立ち上がる。悪霊を出でよ!やがて「白蝋太郎」の暗躍は、家宝「黄金の鷹」の謎を巡り白魔が美女が入り乱れ謎のせむしの活躍も相まってついに迎える大団円…大まかな流れはこんなところ。詳しく知る必要はないっす。なんせ大蔵貢映画なんで。

この手の映画を愛でるアテクシといたしましてはあからさまな「せむしメイク」で登場する丹波リンの勇姿に胸うたれたり、振袖小次郎(なんで藩主の息子なのに振袖?とか野暮なつっこみはダーメ!考えるな感じろ!というリー御大の言葉を胸にサイテー映画を鑑賞すべし!)のこれ見よがしの時代劇芝居に感動したり、ヒロイン絵草紙屋娘のこれまた記号的お姫様演技(鼻にかかった「若様~!」がマスト)にしびれたり、白塗りで「白子だから嫌われた人間がにくい」と嘆く「白蝋太郎」のチープさに日本映画の衰退を嘆いたり(ああこれが通用するこのころが一番よかった)。丹波リンのせむしがババーンとでてくるあたりと、多羅尾伴内ばりにせむしから一気に若武者姿になるあたりで場内爆笑。姉妹の背中の刺青をあわせると家宝の地図が!といういちばんのクライマックスシーンで「薬つけるとほーれこのとおり」とでてきた地図が子供が落書きしたふすま絵みたいな状態だったりする(ちゃんと矢印まで書いてある丁寧さ)ので脱力失笑。でもせっかくの丹波リンお得意の演説シーンも白蝋太郎の唐突な自害で打ち消されたりまったく大蔵貢わかってるじゃねえかとニヤリにやり。

こういう日の当たらない映画を見て喜んじゃうあたりオノレの業深さを感じたりしますが、それはさておき映画万歳!とテキトウにしめてまた明日。(霊界すごろくタンバ買っておけばよかったなあ合掌)

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2007年1月16日 (火)

馬鹿だ馬鹿だ私は馬鹿だマンコ丸出しなお馬鹿だ

つまり週末ごとにサンパツ抜きあうような状況ってわけ。

怠惰にこもって出し入れ出し入れ。股関節の痛みと精子のにおい漂うナニとともに朝目覚める。覚えてるのは天井だけなんて今過ぎゆくのはそんな日々。

さていいのか悪いのか。こうなってくるとツマラン疑心暗鬼のようなものが生まれてくる。これは女の性(性と書いてサガと読む。範馬刃牙仕様)というかなんというか。いわゆる「私と会っているのはセックスしたいそれだけだからでしょ!」キーキー金切り声上げて無い眉尻をつりあげてみたりみなかったり。

そんなことを男に聞いてもねえアータ「そんなことないよハニー、僕が愛しているのは君の肉体(と書いておマンチョと読む。詠み人知らず)じゃなくてキミの精神だよ心だよ頭脳だよ知性だよ知識だよ」と代替部分を列挙されるごとに、ああなるほどおまんまんだけなのね、と当方納得するわけです。

人間ってカナシイねえ。セックスしなきゃいけないからだよ、とはジョージ秋山御大の言葉だが、まさにその通り。カナシイケド美しいよ、とずるり引き抜かれた後の空洞を晒しながら、今日もアタシは手羽先をバリバリと食らうのであった。

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2007年1月13日 (土)

だからファックとセックスならおまんこしようってことでしょ?

ごく単純な二元論でいうのなら、童貞とセックスなんぞしたくはない。

現在の性行為のおそらく多くが生殖ではなく快楽を至上としていると思うのだが、それに沿っていえば、童貞か、それに近い経験数の殿御になにを期待しろというのだ。私はピグマリオン症候群に陥るほど場数を踏んでいるわけではなく、自分の癖を教えるほどセックスに興味もないので、手取り足取り教えるなどただ面倒なだけだ。おねえさんが教えてあげるっつーかこっちが知りてえぐらいだよ。なにせ当方セックス嫌いの冷感症三十路婦人でございますので。処置なしですな。それはさておき本題について。

童貞とセックスしたくないというのは上記のような快感原則のほかに恐怖がある。相手は全くの初めてである以上、自分の行動あるいは身体が今後彼のスタンダードになる恐れがある。つまり今後彼がインポに近い状態になるのかやりチンになるのかあるいは「愛してるよ」と細川俊之なみの美声で囁きつつえっちらおっちら腰を動かしてご昇天するのか。その進路を決める重要な「一事」、まさに皇国の興廃此の一戦に在りと大音声で叱咤鼓舞せざるをえない状況である。プレッシャーに弱いアテクシといたしましてはそんな重大事に遭遇すりゃおまんまんが乾いてしなびて水気もなくなるってなもんです。もうおねえさんガクブルですよ。いや相手の方も相当ガクブルではあると思いますが。

思い返せば嗚呼あの顔であの声で。そうなんです。昔ですね一度おセックスをともにしたトノガタより「エロ過ぎてひいた」とその後音信不通となってしまった過去が黒々したいなり具合を晒しておったりするマイメモリー。あんまりエロいセックスするからインポになりますた、とかいわれてしまったらアータその手に青少年の未来を握る我が身としてはいかんですばい!!!!逝って花実が咲くものか花も嵐も踏み越えて進めてぃんぽ千年王国!!!と逡巡(錯乱?)し、以来経験の少ない方とのセックスは避けるようになりました。あんなことこんなことがグローバルスタンダードなのね★と無用な誤解を招いてはいけないここは女子の魂婦人の本懐お宝勃て!1000人斬り!まあそういうことでなるべく同衾するならば多少はご経験を重ねた変態気質な方と決めておりましたですホントですマジで。

だもんで今回30歳の童貞男といたしてしまったわけだが、実のところ私は彼が童貞であるとは全く思っていなかった。もちろん本人は一生懸命童貞であると主張していたのだがその手早さ(いろんな意味で)を目の当たりにし、いや嘘だろプゲラまた調子いいのねハニーイヤだわぐらいに考えていた。だがまあ女に触れたことがないというのはその場がくればいやおうなく思い知らされ、自分のおかれている現状に愕然としながらも、ここで負の要素をつきつけてはいけないと三割四割は当たり前の覚悟でコトに望んだ。いつもよりもトーンダウンクールダウン。わかってちょうだい今日もまた!誰にも遠慮はいりません。そんなこんなで当日はクララがたったわ!!!とあれこれ行い、まさかその後、刻々と変化し続ける童貞喪失後の男というものを直視していくことになるとは思いませんでした。閑話休題。

男も女も最初が肝心であると思う。

男女関係がうまくいかない人の話を聞いていて思うのは、最初の性体験の重要さである。(あとは本人のコンプレックスなど)彼らの話の源流をたどるとしばしば最初の性体験がうまくいかなかったとかそういうことにぶちあたることが多い。特に最初のセックスで愛情のないものを経験してしまうと、その後なんらかの「しこり」が残るようだ。女性だとある種の瑕となってしまうこともある。男性はその性が「排出」という側面もあり、性的場面では女性をリードするものだという風潮が(男女同権の世の中であっても)まだまだ隆盛である以上風俗等で童貞を捨てる(イコールやり方を覚える)というのもひとつの手段であると私は思っている。風俗のように金を払えばある程度客であるという自意識とともに割り切れるが、問題は初素人さん、あるいは初恋人初性行為のときで、この際不手際があると後々自己嫌悪として黒歴史となってしまうことも多いようだ。

愛情のないセックスというの気持ちよいときはあるが、それはあくまでも当人が別の何かで満たされているかあるいは愛情を既に保持しているかどちらかの状況でないと楽しめない。セフレはイクナイと私が思うのはそこに由来する。初手からはそんな事態は避けたいものだ。今回、最初からあんなことやこんなことをしてよかったのかアンダーヘアだけが知っているわけだが、それでも本人は満足そうなのでとりあえずよかった。高齢童貞が盛ったら大変とはある人の言葉だが、高齢童貞プラス変態気味っていうのはこりゃあもう手遅れかもしれませんね。彼がどこまで成長するのか先走り汁でぬるぬるしながら生暖かく見守りたい所存でございます。黒いなり化する日も近いのかどうなのか。

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2007年1月12日 (金)

「毒薬と老嬢」浮き世離れしたババアってなんてミリキ的

毒薬と老嬢

毒薬と老嬢

  • 出版社/メーカー: ファーストトレーディング
  • 発売日: 2006/12/14
  • メディア: DVD
フランク・キャプラ1944年製作のブラックコメディ。傑作。

まず脚本がうまい。もともと舞台劇を映画にしたのだが、「カヴァルケード」とは違って、もうこの頃になると既にきちんと「映画」にしたてるノウハウが確立されていた。(当たり前の話だが)ケーリー・グランドの独擅場なのだが、脇の老女やら殺人鬼の兄やら(整形手術によりボリス・カーロフ似になってしまったことに多大なるコンプレックスをもっているという設定。確か舞台版ではボリス・カーロフ本人が演じていて話題になったと思ったが違ったかも知れない)偽医者役のピーター・ローレといい、巧い人間をこれでもかと集め、盤石といった布陣で望んでいる。であるので、面白くないはずが無く、最初から最後まで腹筋を酷使させてくれる。

物語は、劇作評論家の甥っこ(ケーリー・グラント)が数年ぶりにおばのうちへやってくると、おばたちはすっかりアレになっており、自分たちの天命は独居老人を死出の旅へ送り出すこととばかりにせっせと砒素入りワインを飲ませ死体を作っている。結婚報告のはずがこの事態をいかに収拾つけるかへ変化してしまい、彼の孤軍奮闘は脱獄犯の兄の来襲もありどんどん有りえない方向へと突っ走っていく。

劇作評論家という設定だけあって、彼や彼の周りの劇作家モドキが自分が見たあるいは作ったストーリーを話すのだが、それが伏線になっていたり、またシチュエーションコメディになったりとその変幻自在の巧みさにはぐうの音もでませんです。また死体は影になってちょっとだけ写ったりアクションシーンも物音やらで表現するなど、映像的巧さにも凝っている。さすがキャプラ。特に印象的なのは、殺人鬼の兄が偽医者ローレを脅かすシーンで、あえて兄の顔を影処理で表現しつつその顔がどれだけ凄いかをローレのおびえのみで鑑賞者にわからせるシーン。これなんかローレが巧い役者であるからこそできることであり、或る意味役者冥利に尽きるとは思う。 (しかしローレは「M」といい微妙な犯罪者役、草食系犯罪者役がよく似合う)

個人的にはもしこの映画を日本で作るとしたら、監督は三谷幸喜、ケーリー・グラントの役には唐沢寿明、おばの老嬢役には黒柳徹子と故岸田今日子(もしくは『家政婦は見た』こと市原悦子で浮世離れを演出とか)あたりでやって欲しいなと思った。正月早々こんな凄い映画を見てよいのだろうか。今年一年の映画漬けの日々を予感させるにふさわしい傑作でございました。

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2007年1月11日 (木)

体験か想像か--「青学ひめゆり退屈問題」と「硫黄島からの手紙」

「硫黄島からの手紙」を見た後、思い出したのは2005年6月頃起きた青山学院の入試問題だった。かなり旧聞となるが「ひめゆり部隊」の語り部の話す内容が退屈だという読解問題を入試にだして騒がれた、あの一件である。もうそんなの覚えちゃいねえよって感じだろうなあ。以下の記事はそのときに記したものである。

ひめゆりの語り部は無力なのか(1)
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-06-14
青学ひめゆり「退屈」問題、総括すべきはどちらか(2)
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-06-15


特に(2)には問題となった読解の全訳を載せているので、参考いただければ幸い。(ようは「戦争体験なんて語られるだけじゃ実感できないからダーメ。擬似体験したらホーラこんなにわかっちゃった!」ということがいいたかったのではないかと)この問題が持ち上がったとき、あちこちのblogを流し読みした限りでは「沖縄左翼マスコミ陣が騒いでいるだけのことだ」みたいな意見が趨勢を占めていたような記憶があるが違うかもしれない。私なぞはこの入試問題を(言葉の本来の意味での)確信犯で教師が作っていたのなら、ある種の敗北宣言だなと思った。なぜなら教育というのは想像力を養う側面が非常に強いわけで、イチたすイチはニであることをりんごやナスを使って「体験」させることは可能だが、三次元方程式だのになるとそんなことを試みるほうがどうかしている。ましてや徳川家康やら足利尊氏やらを「体験」することなど(当たり前だが)不可能である。だが想像力を駆使すれば「体験」することは可能であり、そのように考えていけば、思考力とは想像力ではないかと私は思っている次第。つまり、“戦争体験は語りではなく疑似体験させなければ理解できない”との主張は、“うちらは想像力を養うような教育ができていないんですよ”という暴露じゃないのか。敗北宣言だなと思ったのはそのあたりを指している。

実際のところ戦争の恐怖を追体験させることに何の意味があるのだろうか。外人部隊かなにかに入らなきゃ分からんというのはある意味事実なんだろうけれども、それは悲劇の再生産であり、あの「痛み」を他の誰かに味わわせないためにひめゆりの語り部は自らの痛みをさらけ出し、つらい思いを吐露しているのではないだろうか。実際に体験しなければ分からないという言葉ほど事実であると共にむなしさを感じさせるものはない。私がスティーブン・スピルバーグ製作の映画「プライベートライアン」をまったく評価しないのもここに由来する。Dデイの激しい戦闘場面を見ているうちに最初は驚き慄くがそのうちに飽きてくる。強い刺激に慣れすぎて同じことの繰り返しに見えてきてしまうのだ。本質的にはこちらのほうが畏怖すべきことだ。このあたりの感覚の喚起は、スピルバーグが意図していたわけじゃないのでよけいにイヤだった。

イーストウッドの描いた「あの戦争」は派手なアクションがあるわけでもなく、無残に人のカラダがはじけるシーンが多発するわけでもなく、ただ地味に彼ら一兵卒の日常と非日常が交差し、その延長線上にある死が(あるいは生が)淡々と絵が描かれるだけだ。だからこそ私は恐ろしい。「あの戦争」は別世界でおきた歴史的事実、記憶の中のイチ風景ではなく、「いまここ」の延長線上にある。沖縄で友人のご両親から戦争体験をお聞きした際も同様の恐怖を感じた。この恐怖は想像力の上に成り立っていることを私は熟知している。

「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」のニ作を通して鑑賞し、感じたのは(何度も書くけれども)クリント・イーストウッドの「意思」--ありのままの戦争を見つめ、あのときなにがあったのかなにが起きたのかを忘れないこと、それ自体が反戦なのだという主張であった。青学入試問題の件と映画製作者、両者のスタンスの違いを思うと暗澹たる気持ちになる。例の(「せんそうはもうにどとおこしてはなりません」「あのひさんなできごとをゆるしてはなりません」式の)思考停止状態がはぐくまれるのもむべなるかな。教える側が既に徹底的に受動的なのだから。(注意したいのはイデオロギーに基づいたアグレッシブさも「ありのままの戦争を見つめよう」というイーストウッドの「意思」とは反する。イデオロギーに絡めとられてしまえば「ありのまま」ではなく「見たいもの」しか見えなくなってしまうからだ。以上は映画「蟻の兵隊」に関する当方のレビューを参照ください)

イーストウッドの訴える「自ら学び取る意思」。青学ひめゆり退屈問題を思い出すとき、私は日本における反戦教育がこの決定的な欠点を保持し続ける以上、演繹的に導き出される解として再びいつの日か(朝日的意味合いではなく)軍靴の音が鳴り響くのではないかと憂えている。邦画において「反軍」映画ではなく「反戦」映画が作られる日がくるのはいつだろうか。そして積極的に「ありのままの戦争」を見つめるような反戦教育が行われる日はくるのだろうか。状況は絶望的だ。なんといっても阪神大震災で「あーまるで温泉のようです」などと当事者意識の欠如もはなはだしい御仁が、いまも沈痛な表情を作って「あのせんそうをにどとくりかえしてはなりません」とのたまっているわけだしねえ。

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2007年1月10日 (水)

振られた

そういうとき、私ならどうするだろうとふと考える。

そんな経験は腐るほどありますので(いってみたいな未経験)黒歴史からひきずりだしてくれば、過去問より傾向と対策を導き出すのは造作ないことだ。そんなこんなで思い返せば、いつだって大事にしているのは、どんな場合でアレ、相手のことを悪くは言わないということだった。

自分へ問題の論点を帰結させるのは、いたずらにだめんずを引き寄せるだけなのかもしれないけれども(嗚呼都合の良い女)、それでも自分のプライドをかけて、私に足りないところがあったからいってしまったんだ、と思うし、そう思いたい。相手の問題をあげつらうのは簡単だし、いくらでも指摘できるけれども、だからこそ、そこは触れずに内省したいのだ。美化する必要もないが罵る必然もない。原因はただ自分の至らなさ、ゆえ。

まあそれも結局は、自虐的なヒロイズムに酔っているだけかもしれない。けれど。

でもやせ我慢だろうがなんだろうが、私は矜持を遵守したい。幸いにして現在は赤黒くひりつく痛みについて考える必要のない状況ではあるけれども、それも実際のところいつまで続くのか分からない(努力はするが)わけで、今この時点で既にある程度の心構えを準備してしまう私は、もう「アイ」という共同幻想の中に埋没してただひたすら惰眠をむさぼり甘受できるほど若くないんだろう。

いってしまったアナタの背中は美しく輝きに満ちている。見とれてしまうから私はいつだって、追うことすらできない。

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2007年1月 9日 (火)

アグレッシブ童貞論(または40歳の童貞と17歳の素人童貞と60歳の疲れマラなら70歳のバイアグラを選択すべきよね)

いつまでが童貞喪失適齢期なのか、愚かな私には皆目見当がつかないが、おそらく25歳~30歳頃までキーピングバージンボーイであると珍しい部類なのかもしれない。そのぐらいになると二種類の童貞に区分されるのではあるまいか。結果としての童貞か目的としての童貞か。このあたりは受動的な童貞か能動的な童貞かにいいかえてもいいかもしれない。まあなんだ見た目がアレだとか雰囲気がアレとか様々な事情によりモテないが故の「童貞」(=結果)か、降りかかるまんこは気合をもって撥ね退ける俺様の息子はそんな女じゃ満足できないんだぜ(I can't get no satisfaction!!!)という類の童貞か。ひとくちにお年を召した童貞といっても二分されると私は思う。まあどっちもアレっちゃアレですが。

「生涯イチ童貞でいいと俺は思ったのね」と30歳の童貞男コミヤマくんは語る。

ヤツはあれだ。認めるのは非常に阿呆らしいし腹立たしいのだが(小宮山投手をヨシとするタイプの人間なら)見た目は問題なく背も高くスタイルも声もいい。そのあたりにいる女をスルッとget(死語)することなど造作もないことだろうに。「まあ俺もね」と彼は続ける。「ルックスいいのは知ってるしわかっているんだけどさ、でも妥協はしたくないわけ」ということらしい。あの顔で「好きな人にささげたかったんです」と言われると対象が女人じゃなくて雄雄しい男子(髭面田亀センセイ仕様)という気がしてくるから人生ってフシギねダーリン。閑話休題。

つまりなにがいいたいのかというと、童貞を守るということは穴に入れる入れないといった瑣末なことではなく、女体には触れずということでもなく、魂の問題なのですよ。童貞魂をいかに守りきるか。童貞魂の対極にあるのは「妥協」。そういう意味では穴にいれないから童貞を自称するといった行為はまず糾弾されるべきで、そんならいっそのことすっぱり風俗でスコスコインアウトするほうが童貞魂的には是とされるのだ。こんなことはいまさら私なぞがいうまでもなく、みうらじゅん先生あたりが何度も言及しているわけだけれども、奇跡的なまでに童貞魂を保持しているレアケースを目の当たりにするとなにかいわざるをえなくなったわけです。有象無象の元童貞どもよ、童貞魂の手入れはしているかね?あの瑞々しい鮮度を失ってジュンイ~チワタナ~ビみたいな愛ルケ状況ぬるま湯ゆるまんにずるずる愛液まみれとなっちゃいねえか?つまらん女とやることで日々流されてないか?どうでもいい女に精子を配給するぐらいなら貯蔵熟成するぐらいの覚悟を見せておくれよマイハニー。テキトウな手打ちするぐらいなら風俗へ行け。そうでないなら罵倒をものともせず謗りを励みとし童貞を恪守固守死守せよ。童貞に殉じろ。妥協を廃し徹底的に求めよ。さすれば与えられん。

んでもってヤツはめでたくつい先日30歳にして童貞喪失という栄誉を勝ち取ったわけだが、彼の童貞魂いささか錆びる気配はなく、この胸の動悸やら時間の観念の自在さはどうしたものか!?と一人もだえていたりする。この童貞魂の不変化具合よ、なンと素ン晴らしいことか。とにかく、一発やったぐらいで100年前から俺のいなりは黒光りみたいな態度をしていてはイカンということなのです。わかったかね民草よ。

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2007年1月 8日 (月)

目で見る黒人差別の実態(または麻原ヲッサン地獄)

「麻原ヲッサン地獄」、こんなタイトルでメール送ってくるなよわらばー@ミッチェルよ。

それはさておき最近見つけたアレな↓もの。

http://www.a-market.jp/item-21457.htm
http://www.a-market.jp/item-21458.htm
http://www.a-market.jp/item-21459.htm

これこそ「黒人差別をなくす会」の方々が立ち上がるべき案件だと思いますがいかがでしょうか。ニグロって…。

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2007年1月 5日 (金)

「硫黄島からの手紙」配達されなかった“手紙”によってとりもどす兵士たちの日常

4日なんで人少ねえだろうと思っておったら大間違い。ものすごい人出。そして年齢層が高い。60歳以上の夫婦率に注目。

だがねえ、これは映画館に通っている経験則で語るけど、こういう場合得てしていびきとか携帯がなったりする。今回もその例外にはもれず、栗林中将のいいシーンで響くイビキ、なる携帯。そんなことも個人的には普段余り映画を見ない層であるが故と思っているのだがどうなんだろう。(例えばマトリックスやらといった映画の場合満員度合いにもかかわらずそういったことはなかった。またマッチポイントみたいな映画好きが集まりそうな映画の場合もその高年齢層にもかかわらずマナーはすこぶる良い)

それはさておき。

「父親たちの星条旗」に続く「硫黄島からの手紙」は、“悪役でも中国人俳優でも合作でも流用でもない”市井の日本人が戦場へと駆り出されていった姿をアメリカ人映画監督が初めて描く画期的な作品である。『日本にあるのは「反戦」映画ではなく「反軍」映画である』とは映画評論家双葉十三郎氏の名言だが、私はこの作品で初めて日本はその「呪縛」から逃れることができるのではないかと期待していた。その期待にそぐうように話自体はよくできている。だがどんなによくできた話でもやっぱり俳優の演技力が物語を左右してしまうんだな。まあなにがいいたいのかというと二宮の演技が本当にダメダメだということです。

言葉遣い自体はだいたい東京の下町なんてあんな言い方だったりしたわけで、そこに対する違和感は正直あまりないのだが、彼の場合、発声そのものがダメなので、演技以前の問題というかなんていうか、なにか喋るたびに“パン屋の無教養だが実直な主人”というよりもチンピラDQN風になってしまう。演劇的発声法(ex.ケンワタナ~ビ)がきっちりしている俳優と競演するとテレビドラマ的演技はまったく通用しないことがよく分かる。リアリティがでるというのは言い換えれば地のままというわけで、ああいう映画のようなある種演劇的空間に放り込まれるとよほどのキャラクターがない限り(ベルモントとか)単なるおバカちんな、どうにもならないDQNにしか見えなくなってしまう。あんまりすごいのでしばらくは彼の真似を持ちネタにしてしのげるなと思ったぐらい。「な~にいってんだよぉ」なんてウンコ座りされていわれたらそれなんて木更津キャッツアイ?てなもんです。彼である必然性がまったく感じられない(ていうかいくらなんでも若手俳優でもっとうまいやついるだろう)のでそのあたりはこうジャニーさんの「YOU、イーストウッドの映画にでちゃいなYO!」っていうなんですが裏のケツ指令っつーんですか?ああいうなにかを感じますな。そんな与太はどうでもいいんですがとにかくケンワタナ~ビにおかれましては演技上はともかく、演技指導ぐらいは栗林中将のような騎士道紳士精神を発揮せずに、ここは悪役鬼軍曹でいくべきだったんでは、と思ってしまいました。他の役者はみないいのになあ。特に獅童。ヤツの役はそのキャラの行方自体がかなりオイシイ上にそれを徹底的に生真面目に演じているからかえっておかしみをかもし出すことに成功している。あれを戯画的に演じたらいやらしいだけだ。そうはいっても獅童なので、計算してやっているのではなく天然なんだろうなあ。だがさすが歌舞伎出身だけあって、演技の基礎力ができているから二宮のような悲惨なことにはなってない。バロン西役の伊原剛志、栗林中将役の渡辺謙も安定感があってよい。ただちょっと渡辺謙は巧すぎて鼻につくきらいがなきにしもあらずだが、それも二宮の演技が下手すぎるが故かもしれない。おそるべし二宮。

このような(本質的かつ根源的な)瑕疵がありながらも、全体を見れば映画としては優れていると思う。(正直アカデミー作品賞は微妙だなと思うが。あわせ技一本なら可能だろう)手紙が全編にわたるテーマとなっており、内的な真実を手紙によって発露させるという方法がとられている。部下を鼓舞し叱咤激励しながら栗林の内面は家族と共にあり、パン屋の主人(に見えない)である一兵卒は妻とまだ見ぬ子供へ「生きて帰りたい」と真情を吐露し、捕らえた敵兵のもっていた母からの手紙を読み、敵味方を超えた普遍的な情緒に思いを馳せたりする。戦場において唯一「日常」との接点であった「手紙」に着目することにより、戦争映画における反戦の描き方に工夫をもたらすことに成功しているのではないか。私はスピルバーグの「プライベードライアン」に対してまったく何の価値も見出せなかった人間なので、逆にこのような大上段に構えない反戦意識ってわからないやつにはわからないだろうなと若干危惧した。バロン西の最期やら集団自決やら栗林の特攻なんぞだけを抽出し、この映画に対して戦意高揚映画なんていうヤツがいたら本当に馬鹿だと思う。

イーストウッドがこの二作を通じて訴えたかったのはおそらく「戦場において“日常”を維持することの難しさとそれを行わずにはいられない個人の弱さ、そして兵士は退役後もそれを続けなければならない、戦場は死ぬまで続くのだ」という冷酷な『事実』だろう。(戦争の「痛み」を観客一人一人に還元・実感させるために、「父親たちの星条旗」では退役後の兵士を「硫黄島からの手紙」では戦場における兵士の“日常”を描きだしている)当たり前のことが当たり前に過ぎていく“日常”を容赦なく断ち切る戦争、その“日常”を維持する唯一の手段であった「手紙」が届けられずに埋められる悲しさ。だが手紙はラストシーンで発掘され“救出”される。掘り起こそうという意思は、前作「父親たちの星条旗」で語られた「ありのままの戦争を見つめよう」というメッセージと呼応する。だからこそこの二つの作品を持って語らねばならなかったイーストウッドの構成力の確かさと「戦争の意味」をもう一度捉えなおそうという意思に感銘を受ける。埋もれていった兵士たちの思いを発掘し、ありのままに見つめる作業こそが、あの60年以上前に起きた出来事を風化させずに「いまここ」に現出させる行為にほかならないのではないだろうか。

ミリオタ(軍オタ)にいわせると一式貨物輸送機さえみられれば随喜の汁ダダモレらしいんだが、そんなこといわれてもなあ。そんな軍オタじゃなくてもこの映画、見て損はない。二宮の演技は華麗にスルーし、映画からのメッセージを受けとり、「あの戦争」をもう一度見つめなおす。その作業を行わずして一方通行な“もうあのせんそうをおこしてはなりません”式の思考停止状態から逃れることはできない。「あの戦争」の意味を私たちの手に取り戻そう。それが「あの戦争」で犠牲になった全ての人達に対しての、我々が行える唯一の鎮魂なのだから。

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2007年1月 1日 (月)

ハッピー・ファッキン・ニュー・イヤー

フェラーリしながらの年越しサイコー!耐久セックスはまだまだ続く。

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