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2006年12月26日 (火)

パンチドランク・ラブ(といっても映画じゃなくて実際にぶん殴られたらどうなるかってお話し)

ハニーたち。昨日今日は無事にクリトリスいじったかしら。それともナニをいじっているタイプの方々も大丈夫よ無問題。大切なのは愛と平和とファックな嘘っぱちですものこんにちは。ご機嫌いかが?

そんな風に「愛」についていささか悲観論者な私でも、一発でもっていかれるタイプの男、というのがいたりする。それはなにかと尋ねられればつまりコンプレックスで自縄自縛となっている“外に快楽を装い内に悩み煩う”といった風情の男よダザイはん。だからそのテの輩が目の前に現れると“地獄の底へ落ちる私を何も言わずに微笑むアナタ”となってしまうわけ。ああハニーあたしだけを見つめて頂戴プリーズミスターポストマン。

クリスマスに奇跡が起きるってホントね。

私にとって「愛」と「シヤワセ」は同居しないというのがここんとこの不文律だったりするんだけど、今回はこの恐るべき世の中にただ一人震えさせておくのも可愛そうだと“あの方”が思ったかどうかはしらねえけど、ちゃんと見つめたら見つめ返してベーゼぐらいちょっとくれるようなヒトを送ってよこしたらしい。この「シヤワセ」がいつまで続くのかは“あの方”のみぞ知るってことだけど、とまれ、このワンダーに満ちた世界はまだ少しだけ私に優しい気がしました。

とにかくせっかくですもの、しばらくおまんこをきれいに洗おうと思ったわ。感謝いたします。冒涜者なんて思っちゃいやん。だって私はいつだって熱烈に愛しておりますですよアナタを。だからお願い。もう少しだけこの「シヤワセ」な気分のままでいさせて。上等のシャンパン飲んで「世界は俺のもの」と酔っ払ったような気持ちのままで。

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2006年12月24日 (日)

クリスマスにはクリトリスを!(みんなセックスしてる?)

しつこいですが繰り返しが重要なんです。つーかさ、みんな昨日のこの時間ぐらいから一斉にセックスタイムなわけですよ。那由他ぐらいのカウントで精子が発射。おそらくは最終目標に到達せず野垂れ死んでティッシュにくるまれサヨウナラまた会う日までキーヨ!既にキリスト教圏とは無関係の「愛を確かめあう日」(別名セックス頑張ろうデー)な本日ですが、みなさまセックスには励まれましたでしょうかこんばんは。

昨日はあんなクソネットに我慢して頑張ってblogを続けている勇士が集まりオフ会。それとblog仲間うずまきさんのマイミクさんも集まってわいわいと。ケーキやらなにやら食しつつ、23日のイブイブ(って阿呆か)を華麗に過ごしたわけ。私が会いたかった人にきっちり会うことができて幸せな夜でした。

幸せな夜はまだまだ続いたりする。二次会としてそのままカラオケへ流れ「復興の唄」だのをフリ付き熱唱した後はなぜか、都庁近くを歩いており、そして夜の新宿中央公園は凍死者が数名出るほど(推測)の寒冷地だったりするんだけど、それでもお熱いのはお好きでしょ?そんなこんなで突然時間はワープしてクソまずいココアをやる気無く出す新宿区役所向かいの24時間営業喫茶店に場所を移して時間が過ぎ、吹きすさぶ寒風をなんとかこらえ帰宅してみれば朝。明け方の透明な空気を胸に吸い込み、来年もよい年であることを柄にもなく願ってしまったりした。

目が覚めて。昨夜から今朝にかけての一件でどうやら本日のクリスマスクリトリスデートはできなくなったなとぼんやり考えた。おわびを伝えると、若い男の子は若いなりに問題を咀嚼しようとしている。でも私にそれ以上なにができるのだろう。とつおいつしつつも今日は総帥宅でクリトリス会(おや?)。総帥秘蔵の録画済み「きょうの料理」をみて、アナウンサーと熟女に前と後ろを攻められ我慢汁ダダ漏れになっている(はず)の素人に、ハイレベルの日本公共放送的イジリを感じ爆笑。または「ウルトラマンメビウス」における仁科姐さんの惚れっぷりに感涙しながらチキンをムサボリ食ってグッバイ今年までの弱気なアタシ。そんな感じでセイハロー。

帰りに書泉グランデよって、今読んでいるドゥルーズ「シネマ2」の参考書として友達から指定されたベルグソン(ベル『グ』ソンなのかベル『ク』ソンなのかどっちなんだろ)「物質と記憶」、それからこれは個人的にとクレア・コールブルック「ジル・ドゥルーズ」、ブレイクの詩集なぞを購入。しかしこのテの本の馬鹿高さはどうよ?専門書だからってぼったくってんじゃねえよと文句をいうと友達に叱られそうなのでやめておく。

そうだからね、みんなに心からメリークリスマスと愛と平和とファックと嘘八百をおくるわ。クリスマスの奇跡がアナタたちにもあればいいわねハニー。

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2006年12月20日 (水)

12/23 オフ会やります

場所は新宿でやります。時間は一応19時から2時間半の予定。スタートは早くなるかも、とは幹事のお言葉。会費は4000円あれば大丈夫で、飲み放題。いってみてもいいぜという方はメッセージかコメントかメールfetish_honey@hotmail.コムまでください。お願いします。

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「恋人のいる時間」「嘘の心」最近見た映画簡易感想

恋人のいる時間

恋人のいる時間

  • 出版社/メーカー: コロムビアミュージックエンタテインメント
  • 発売日: 2003/05/21
  • メディア: DVD


恋人のいる時間

恋人のいる時間

  • 出版社/メーカー: コロムビアミュージックエンタテインメント
  • 発売日: 2005/03/23
  • メディア: DVD


■「恋人のいる時間」

ゴダール。いわゆる“ゴダール”と聞いてイメージする--難解、小難しい、理屈っぽい、わけがわからない--そのままの作品。若奥さんが旦那と愛人との間をいったりきたり。しかもどっちの子を妊娠したかわからない、といったストーリーを実験的に映像化。出演者の演出なのか素なのかわからないインタビューがでてきたり、生活音をそのまま同時録音してせりふが聞き取れなかったり、テキトウな会話を録音して盗み聞き風に仕立てたり、ネガポジ反転映像を使用したり。またゴダール特有の人を食ったようなB.G.Mの使い方はここでも生かされており、人がただ馬鹿笑いする声が録音されたレコードをかけながら夫婦が(冷え切った関係を理解しながらあえて無邪気に)追いかけっこをするシーンが印象的だった。そんなアバンギャルドな展開も、ストーリーがシンプルなのでまだ見ていられる。冒頭、白シーツの上で男女の手が絡み合うシーンで始まり、絡まりを解くシーンで映画は終わり円環は閉じられる。

ゴダールは作品の中で常に相対化、「距離」をテーマに映画作りを行っているように思える。おそらくドゥルーズ先生もそういっているハズ(テケトウ)。それは妻と夫、愛人と妻、といった登場人物の「距離」だけではなく、鑑賞者と出演者、出演者と物語、鑑賞者とゴダール、ゴダールと映画、そういった「距離」についていかに自覚的になるか、そこを繰り返し言及しているのではないだろうか。「恋人のいる時間」では、単純な婚外交渉をテクストに外的世界と内的世界について外的世界を通して映し出されるオノレの内面を炙り出そうとしているようだ。

さまざま雑誌の広告、あるいは標識、街角の看板、その他から主人公の心象風景にそぐう言葉をカメラが捉え、あるときはナレーションされる。そういう意味では内的心象風景を投影したものが目に映ることの証明--人は内的な心象を外的環境に投影し意味を読み取ろうとするものである、というようなことを表しているのだろう。つまり人は見たいものしか見ないし、見えない。

嘘の心

嘘の心

  • 出版社/メーカー: ジェネオン エンタテインメント
  • 発売日: 2000/12/08
  • メディア: DVD


■「嘘の心」
クロード・シャブロルの作品。

絵画教室を開いている画家と医者であるその妻が主人公のサスペンス仕立てだが、謎解きは主眼ではない。あるとき画家の教えている女児が帰りに強姦され殺される。小さな村は猜疑心と噂話で満ち、避暑に来ていたジャーナリストは画家が犯人と当て推量し、情報を得るため妻に近づく。元々精神的に不安定な画家はより均衡を崩し家に閉じこもる。刑事が家を訪れ、あれこれ尋ねるたびに妻へ依存する度合いを深めていく。それを受け止めながらもどこかで負担に思っている彼女は、ジャーナリストと不倫関係に陥る。それを知って苦しむ夫。
結局彼女はジャーナリストの軽薄さに我慢ならず、中途半端な関係のまま断ち切り、夫の元に戻る。ジャーナリストとは何事もなかったように『ご近所付き合い』を続ける二人。ある濃霧の日、絵画の修復依頼にきたジャーナリストを送り届けた画家は、彼に挑発される。その夜遅く帰宅した夫を不審に思う妻。翌朝発見されるジャーナリストの死体。妻は二重の疑いを抱く。
やがて女児殺人事件の犯人がつかまり(噂を流していた花屋の女主人の夫だった)、ジャーナリストの死も心臓発作で片付けられる。だが夫は妻に告白する。彼を殴ったら動かなくなった。そして誰かが彼を訪ねたように偽装した、と。妻は夫をただ受け入れる。自分の犯した不義については語らぬまま。

シャブロルがここでテーマにしているのは疑心そのものであると思う。そういう意味ではタイトルどおり「嘘の心」、嘘をつく、その行為そのものをとりあげている。何故人は嘘をつくのか、そもそも嘘とはどういう行為であり心の作用なのか、そこを解剖学的に掘り下げていこうとしているように思える。小さな池に放り投げた小石は思いもよらぬほど大きな波紋を広げていつまでも静まらない。嘘は一度つけば、隠そうとして更につき続けることになる。妻は一生真実を告白することはないだろう。嘘をつく心、それをめぐる物語。

二作品とも佳作で悪くはない。だがそれ以上の印象を持ちづらい作品だった。星をつけるなら★★★1/2というところ。

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2006年12月19日 (火)

日産ホーミーの悲劇を超えるファッキン村とポムチの木

マンコ公園で写生大会に励む小学生もいれば、臭いマンコに足を突っ込み抜けなくなった人もいるわけで、振り返れば日産ホーミーの悲劇もあり、ボボ・ブラジルの衝撃も記憶に新しい。嗚呼、世界地図を広げてエロマンガ島だのスケベニンゲンだのを見つけて胸を熱くした少年時代よ。そんな中、いま熱いのはオーストリーのファッキン村。堂々として美しい。まさに無意識過剰という風情。すンばらしいのはちゃんと観光の目玉として捉えており、Tシャツまで売ってるというところ。沖縄もマンコ公園Tシャツを売り出すべきである。近畿大学もKink“y” University と書いたTシャツでも売り出せばいいのに。まあ発音が同じならkinkiでもいいのかもしれんが。トルーマン・カポーティにも「日本製バイブは東洋の心を表現している」といわれているわけですし、それになにより近畿日本ツーリストのノボリをたてて世界中をまわる日本人ならなにがあっても大丈夫。

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2006年12月18日 (月)

「大いなる幻影」男の友情は男くさい

世界名作映画全集117 大いなる幻影

世界名作映画全集117 大いなる幻影

  • 出版社/メーカー: GPミュージアムソフト
  • 発売日: 2006/07/25
  • メディア: DVD


ジャン・ルノワール監督作品。出演者はジャン・ギャバンとエーリッヒ・フォン・シュトロハイムなど。

舞台は第一次世界大戦で、職工出身の将校のジャン・ギャバンと貴族階級の将校が一緒に捕虜となる。ドイツ軍に捕らえられるがこちらの将校(エーリッヒ・フォン・シュトロハイムが障害者役でコルセットをつけたまま演じる)も貴族階級なので、非常に紳士的に取り扱ってくれる。彼らは捕虜収容所におくられ、脱走を試みるべく、地下に穴を掘り続けるが、後一歩のところで収容所変えをさせられる。ジャン・ギャバンと貴族と金持ちのユダヤ人は城を改造したような収容所へ送られ、シュトロハイムと再会する。ジャン・ギャバンとユダヤ人は脱走計画を練り、貴族とシュトロハイムは滅び行く貴族階級への愛惜を語りながら杯を傾ける。ある日、一緒に収容されているロシア兵が皇后からの贈り物をあけると本だったことに腹を立て火をつけて燃やす騒ぎを起こす(食べ物じゃねえのかYO!まさに焚書ですよ焚書)。それにヒントを得て、貴族がドイツ兵をひきつけている間に、ユダヤ人とジャン・ギャバンは逃走。貴族はシュトロハイムに撃たれ、友情に感謝しながら死ぬ。
スイスの国境近くでユダヤ人が足を痛めて歩けなくなり、二人は近くの小屋へいく。そこは寡婦の家畜小屋で、二人は憲兵への通報を覚悟するが意外に匿って貰えた。寡婦の家で手伝いしながら、彼女とジャン・ギャバンの間には愛情が芽生える。ギャバンは戦争が終わったら迎えに来ると寡婦に約束し、スイス国境へ。ユダヤ人とギャバンは兵士に撃たれたらバラバラに逃げようと約束しつつ、二人仲良く国境を越えるのだった。

例えば「大脱走」なり「栄光への脱出」なり、ハリウッド製“収容所脱走もの”はいかにして奇想天外な方法で脱走するかというような部分、成功するか否か手に汗握“らせる”ことを主眼においているけれども、この映画はどちらかというとそれはあくまでも結果であって、女装して舞台をやったりといった収容所の生活について丁寧に描き、かなりの時間を割いている。脱走が成功するかしないかを風味付けにしているというあたりに、ルノワールらしさを感じる。スティーブ・マックイーンの美学が通用しないのだ。

この映画が作られたのは1937年。まだフランスは第二次世界大戦を当然潜り抜ける前なので、ドイツ軍に対して戦後あれほどの憎しみを映画にぶつけることになろうとは信じられないほど友好的な作り。同じ貴族だからとシュトロハイムが国境を越えた友情をフランス貴族将校と築き、捕虜として捕らえてもランチを一緒にしたりといった騎士道精神発揮場面を描写する、またスイス国境越えのシーンでも二人を見かけたドイツ兵は撃とうとするけれども「もうだめだ、あそこはスイス国境だ」と制するなど、ドイツ人の紳士っぷりを強調している。そういう意味でかなり面白かった。

シュトロハイムは以前レビューした「グリード」の監督だがあまりにも無茶をやりすぎたので、結果監督できなくなり、俳優をやって糊口をしのいでいた。この「貴族階級のドイツ将校」なんて彼のもっとも得意とする役であるので余裕すら漂うが、でもシュトロハイムだからなんとなく悪巧みしてそうな胡散臭さを感じてしまうのはご愛嬌。ジャン・ギャバンの若さにびっくり。

ラスト、ジャン・ギャバンが「もう戦争はこれっきりにしたい」といい、ユダヤ人が「それは大いなる幻想だよ」とたしなめる。私たちは既にこの後どうなるかわかりすぎるほどわかっているわけで、このきちんとした現実認識こそルノワールの抱く「世界に対する恐れ」だと私はおもう。安直ではない娯楽映画なのだ。

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2006年12月17日 (日)

「5時から7時までのクレオ」久しぶりに眠い映画

5時から7時までのクレオ ~Collector’s Edition~

5時から7時までのクレオ ~Collector’s Edition~

  • 出版社/メーカー: 竹書房
  • 発売日: 2006/06/23
  • メディア: DVD


シネマヴェーラ渋谷で開催中のヌーヴェル・ヴァーグシリーズ。

実は今回の特集で個人的に一番見たかった作品がこれ。高校時代「ATG映画を読む」という本の中で書かれていたあらすじを読んで、以来是非みたいと願っていた。今回そういう意味では“祈りはかなえられた”わけだが、あまりにも長いこと期待していると、いざ見た時あれっというぐらいたいしたことがなかった、ということがあるが(初恋の人に30過ぎて会うとがっくりする感覚。コーガンの美少年ハゲおっさんになっていたりするし)この映画は残念ながらその典型でございました。ジャック・ドゥミ夫人のアニエス・ヴァルダ監督作品。

クレオという新人女性歌手の午後5時から7時までの間にあちこちうろうろしたり歌ったり買い物したりしたりという日常を描く。ただ、彼女は癌ではないか?と疑いを抱いており、冒頭はカラーでタロットカード占いをするシーンから始まる。後はモノクロ。このタイトルバックのセンスがとてもよく(例えばカードを裏にしてその模様をバックに文字を写したりとか)グッと期待させてくれたのだが、そのあとはどうにもいけない。

身体の不調を抱えるクレオは病院で検査を受けた。結果がわかる7時までの間、死の不安を抱えるクレオはパリの街を流離う。(5時から7時というのはここからきている)カード占いの結果はよくなくてうんざりし、街頭の大道芸人たちの、腕に針さしたり帰る飲み込んで吐き出すといったニンゲンポンプといったちょっと気持ち悪いのを見ては「いやーん」と逃げ出したり、街角の店に飾ってあるアフリカの黒い置物を見て「きもーい」とおもったり、カフェで自分の唄をかけてみて「誰も聞いてない」とプンスカしたり、自宅に帰れば、恋人がちょっとだけ尋ねてきたり、専属の作曲家作詞家と打ち合わせしたりといったこまごまとした内容は、確かに構図やら切り取り方お洒落系小道具(部屋の中にブランコあるし…)といった映像センスがよいので見ていて不快におもうことも退屈になることもないし、まあいいんだけど、正直「だからどうした」感はぬぐえない。何度も睡眠の奈落へ落ちそうになる。なお専属の作曲家を演じているのはミッシェル・ルグランで、彼が変な唄を朗々と歌い上げるシーンで目が覚めた。ちなみに音楽も彼が担当していて、映画の中で劇中歌あるいはB.G.Mは立ち上がっている感じがする。さすが。

途中、クレオが歌うシーンを入れてミュージカル風にしたり、彼女が友達の映画館へ遊びにいって映画をのぞくところで、劇中劇のようにあちゃらかなスプラスティック無声映画(主演ゴダール)をあえて写してみたりという実験的なこともやっている。だがそれがどちらかというと風味付けに軽く、というよりも不条理気味にどっしりと挿入してしまっているのでどういう意味があるのか30秒ぐらい真剣に考えてしまった。(まあ多分ゴダールがでてくれるっていうから、とかそれぐらいの理由だろうな)クレオは公園を散歩しているときに自分のファンである休暇中の兵士と出会い、やさしい彼に心のもやを解きほぐされ、共に病院へ行き、医者から確かな返事をもらい、ようやく安心する。このときのほっとした彼女の表情がよい。7時がきたからジ・エンド。

そこここで登場する、アフリカの黒い置物やら得体の知れない大道芸人やらがおそらく死の象徴(クレオの不安の象徴)なんだろうなとはおもうがちょっと安易じゃないかしらん。ストーリーが淡々といえば聞こえが良いが、他愛もない内容であり、なおかつ展開がもっさりしていて粘つく味が良いというわけでもなくパリの風景も特筆すべき「よさ」が底光りするほどでもなかった。サスペンスらしいサスペンスにせず、肩透かし気味にはずすのがヌーヴェル・ヴァーグなのかもしれないけど、これじゃ典型的な「俺みたぜ」映画。期待が大きすぎたのかそれとも映画がアレなのか。さて。

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2006年12月16日 (土)

「グランドホテル」古き良き夢の残り香

シネマクラシック グランド・ホテル

シネマクラシック グランド・ホテル

  • 出版社/メーカー: ビデオメーカー
  • 発売日: 2006/08/29
  • メディア: DVD
グランド・ホテル 特別版

グランド・ホテル 特別版

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • 発売日: 2005/02/25
  • メディア: DVD
アカデミー作品賞シリーズ。以前みた「カヴァルケード」の前の年に受賞。
 
いわゆる場所が主人公で、そこに集う人々の人間模様をオールスターキャストで描く、空間・時間を限定した群像劇という形式をはじめて打ち出した画期的な作品。それにふさわしく出演者もやたら豪華。もうこういう古き良き夢はスターシステム不在の今では不可能なんだろうなとひたすら実感させられる。
 
ストーリーは、ベルリンにあるグランドホテルが舞台。ベルリンいちの高級ホテルゆえ、泊まり客もそれなりの格式を要求される。その服装ゆえ安い部屋をあてがわれたクリゲライン(ライオネル・バリモア)はロビーで「医者からもう長くないといわれたんだ!最後に贅沢したい!」と大立ち回り。おかげで最高級の部屋に泊まれることとなった。クリゲラインの泊まる階には彼を首にした社長プライシング、男爵と名乗る紳士(ジョン・バリモア)、著名なバレリーナ(グレタ・ガルボ)が宿泊していた。プライシングはそこで企業合併をすすめていたが、結果が思わしくなく、美貌の女性速記者(ジョーン・クロフォード)に声をかけ情事で憂さを晴らそうとする。バレリーナはそろそろ年齢的な限界を感じ始め、舞台に立つ気力がなくなってドタキャンを繰り返している。クリゲラインは死を間近にしてようやく人生の楽しみを覚え充実を感じる。速記者とダンスをし、つかの間の至福を得る。男爵は借金返済のためバレリーナの部屋に忍び込むが、彼女と恋に落ち、一緒に公演先へまわるためにプライジングの部屋に忍び込み、殴り殺される。プライジングの部屋にいた速記者はクリゲラインに助けを求め、バレリーナは男爵が彼女を待っていると確信しながら闊達にグランドホテルを後にする。速記者とクリゲラインは新たな人生を得ようとパリへと旅立つ。そしてホテルにはまた新たな客。
 
不勉強をさらすようだが、グレタ・ガルボの演技を初めてみた。確かに美しい。なんというかありきたりな表現を使えばオーラがあるというか、ガルボ的としかいいようのない雰囲気がある。こういう人はほかの女優ではマレーネ・ディートリッヒしかしらない。ただやはり今日の視点からすると演技が非常にオーバーで、あまりにも夢見る少女すぎて鼻につかないこともない。ただ昔の映画にそんなことをいってもしょうがないので、これはこれでよいとは思うけれども。コントラストのあまり強くない、全体的にシャがかかったような柔らかい白黒画面がまた、ガルボの魅惑的かつ夢幻的な雰囲気を高めている。
 
男爵のジョン・バリモア、クリゲラインのライオネル・バリモアというバリモア兄弟の共演もいい。とくにクリゲラインが野暮天のお大尽遊び、肩ひじ張って無理やり笑おうとしているこの悲哀を体現していて、みているうちに胸を引き絞られるような思いがする。(多分クロサワの「生きる」の元ネタだろう)男爵の、非常に流麗な物腰でありながらも、どこか身体の一点に油断ならない怪しげな部分を常に(我知らず)覗かせてしまっているようなところもよい。
 
流れるようなカメラワークとともに、時折特徴的な構図ーーロビーを回遊するように配置されているタワーのような円形の間取りなどがはさみこまれる。上から見下ろすとロビーを無数の輪が取り巻いているように見える。このショットから人物相関図がひとつの輪のようなつながりをみせていることが暗示されている。だが物語は幸福な幕切れへと誰一人円環を結ばない。それでも全体の印象は風が吹き抜けるように颯爽としており、物悲しくも後味がよいのはなぜだろう。それは多分この制作者が人生に対する(諦念としての)肯定的な視点を全編に渡って貫いているからだと私は思う。
 
「カヴァルケード」の前の年に公開されたとはとても思えない(ガルボの演技を除いて)鮮度を保っている映画だった。古典だからといって「俺みたぜ」映画の枠組みにはおさまらない、時代に負けない作品である。見て損はない。いいものはいつだっていいのだ。

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2006年12月15日 (金)

「ウィークエンド」エミリー・ブロンテに火をつけろ!

ウィークエンド

ウィークエンド

  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2004/07/24
  • メディア: DVD

 
「恋人のいる時間」をみてからゴダールはこれ以降難解な時期に突入したんだなと勝手に思っていたら大間違い。確かに難解で政治的なんだけれども、そんな俗人の侮蔑を哄笑で返すようなこんなものすごい作品をつくっていたのね、と感動した「ウィークエンド」。ドゥルーズ先生のいう(ちなみに予想通り「シネマ2」はかなり読解に難があるが、ある程度映画を見ているとなんとなくその映画を頼りに読み進められることがわかった)「登場人物たちが自分の行動に自覚的である」をより推し進めた爆発具合を堪能できる。

ストーリーなんてあってなきが如し。ブルジョア夫婦が妻の親の遺産相続を有利に進めるために田舎に帰る週末の大騒ぎを描いたもの。映画は夫婦が互いの愛人とあいつが死ねばいいのに的な会話をするシーンからはじまる。アパルトマンの下では自動車事故を起こした奴らが殺し合いを始める。妻は眼球譚もどきの性的話をし始める。そして夫婦は遺産相続の話しをするべく一路、妻の田舎へ車を走らせるのだが、途中めちゃくちゃな交通渋滞事故ブルジョア娘とプロレタリアートの階級闘争に遭遇し、救世主を名乗る男と白塗りの娘に車をのっとられそうになり、車は大破、なんとかしようと電話ボックスに行けばシャンソンを歌う男がいて車を奪おうとしたが失敗、二人は「こんな映画に出るんじゃなかった」とぶつくさ歩きながら道々で、演説するサン=ジュスト、石を拾う親指太郎とエミリー・ブロンテに出会う。エミリー・ブロンテがあまりにもわけのわからないことをいうので頭にきた夫は彼女に火をつける。途中ヒッチハイクを試みるが「ジョンソン大統領とローマ法王どっちと寝るか」というような難問を繰り出され撃沈。妻は強姦される。夫は見てるだけ。道の真ん中で妻が足を開きトラックを止めようやく進むが、途中音楽会を開催するため足どめとあいなる。さらにゴミ収集車をヒッチハイクし、アラブ人とアフリカ人の政治闘争に関する認識を拝聴しつつようやく実家へ。とっくに父親は死んでおり遺産はやらねえよとごねる母親を殺害し、ピクニックに行けばゲリラに襲われ夫は『調理」された挙句その肉を美味い美味いと妻が食いFin。まったくなんという物語なのだ。

ゴダールは『イメージの作家』だと(難しいことの分からない馬鹿な)私は思っているが、この映画もひたすら押し捲られることになる。怒涛のごときイメージの乱舞。しかしどこまでもポップな色使いなので(例えば妻の服装がボーダーのマフラーに黄色の上着、ダークグリーンのスカート水色の長靴下など)どんなに奇天烈な内容でもどことなく上品ですらあるから不思議だ。繰り返される黒地に青字の「WEEKEND!」。道端にはごろごろと死体が転がり“まるでそれが宿命ででもあるかのように感じて”人々はやたらめったら事故を起こして人と争いピストルをぶっ放す。−−だいたいどこの誰がエミリー・ブロンテに火をつけるなんて馬鹿馬鹿しいことを考え、それを具象化させるというのだ? (しかもちゃんと親指太郎の紛争をさせた奴に「エミリー・ブロンテ」と紹介させるという芸の細かさというかいい加減さ)BGMも徹底的に「茶化し」の対象となっており、それらしき場面にそれらしき曲(眼球譚もどきの話を妻が語っているときにうるさいぐらいサスペンスチックなバーナード・ハーマン的盛り上げ曲を鳴らすなど)をうるさいぐらいの音量で流したりして、まあやりたい放題。短いカットを何の意味もなく繰り返したり、フラッシュフォワードやらの映像上のお遊びもキマッて、とにかくめっちゃくちゃなんだけれどもやたらスタイリッシュで爆裂した作品となっている。すさまじいな。

もうレビューするのは不可能に近いのでとにかく未見の方は是非みてほしい。個人的には小説ハンニバルのラストはここからパクったんじゃネーノ?と邪推したくなるぐらいのぶっ飛びようでした。愉快痛快怪物くんな、やっぱりゴダールは素晴らしいですよ。(割とナゲヤリ)

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2006年12月14日 (木)

和食認証制度なんてばかばかしい

農水省がまたぞろくだらん制度を考えているようだ。(産経記事参照

またアレな飛ばし記事かと思いきやどうやら農水省のHP見る限りでは本当のようで、お役人さまはどうも暇でいけない。

知ってる人は知ってるが私の家族はブラジルにて日本料理屋をやっている。別に日本で修行したわけではなく、現地で日本人から習った上での開業である。そんな胡散臭い経歴でも、例えばとんかつを作るとして、家族で試行錯誤した挙句、生パンを細切りしたのを使ったりするなど、一応美味いとされている方法に行き着いたりしているから不思議だ。今は衛星放送がむこうでも見られるから日本との情報の共有が簡単だけれども、以前は私の家族からの電話か郵便のみだったりしていたから並大抵の苦労じゃなかったことは容易に察しがつく。

その店では当然スーシを出しているわけだが、人気があるのはいわゆる機械を使ってスーシを作るシーンをお客の前で見せることで、どうやら手で握ることに対しかなりの抵抗があるらしい。機械を使ったほうが高級であると思えるという効果もあって、スシマシーンを使ってのパフォーマンスが売りだったりする。

私が世話になっていたとき、ほとんどの食事を叔父の店ですませていた。感じたことは、寿司といってもまず米が違う。カルフォルニア米がくると大喜びしたものだ。しょうゆもまったく味が違う。そんな中なんとか(記憶の中の)日本料理を再現すべく彼らは頑張っていた。私はだからこそその味に(美味い不味いとは別次元で)感動していた。日本の味ではないが、そこには日本料理が生きている。ちなみに現在記事にあるような日本人以外が経営する日本料理屋が叔父のいる地域でも乱立し、正直経営は苦しいという。だが「あそこは日本人がやっているから」と妙なブランドになったりしている、ともいう。

それはさておき「正しい和食」認証制度なんてばかげていると私は思う。そんなことをするくらいなら、現地に日本料理学校を立ち上げるとか、留学制度を作って学びたい人間には日本国内で修行させる道を作るとか、そういうことをすればいいのに。結果だけを見て判断するなんてあほらしい。いかにも役人が考えそうなことだ。面倒で金のかかることは嫌がる。だけれどもそれでは文化を広げることにはならないのではないか。パスポートを取得したこともないような日本人の作るスパゲッティなんぞを喜んで食ってる奴に、認定制度を作る資格があるんかね?ちゃんとした日本料理食えっていうけど、そもそもお前らアメリカ人が日本人と韓国人と中国人の区別つけられると思っているのか? ていうかお前ら見ただけでフィンランド人かスウェーデン人かスイス人か、アキ・カウリスマキとかニシンとかヨーデルとかコスプレナシでわかるのかよ?ダブルスタンダードはよくねえと思いますだ。

ちなみにうちの近所にフランス人がやっているそば粉クレープの店があるが、彼が店を始めたきっかけは原宿にあるクレープ屋のそれを食したことにあるそうだ。こんなもんはクレープじゃねえホンマモンを俺が教えてやるぜ!みたいな意気込みで始めたそうで、それなりに流行っているし雑誌にも取り上げられている。だがそれで原宿やらあちこちにあるクレープ屋が「クレープ風お菓子」という看板を掲げたわけではない。クレープはクレープなのだ。

おフランスは自国の料理の絶対の自信を持っているようで、世界遺産に、なんて頑張っているようだけれども、日本で出されているアヤシゲなフレンチ懐石なぞというシロモノに対して「おれんとこの料理を変な風にしやがって!エノキ使うなフンギ使え」などといったりはしない。そういう解釈をフランス本国へ持ち込んで成功した例もあるらしいし、本物味わいたきゃフランスへいらっしゃいぐらいの態度であるように見受けられるのだがどうだろう。

日本もアメリカでCMやればいいのだ。「こういう料理を日本料理だと思っていませんか?本物を味わいたければ是非トーキョー、オーサカ、キョートへどうぞ。魅惑のうまみがあなたをお待ちしております」ぐらいやると観光客が増える、かもしれない。

※この制度、どうやら「あの」松岡大臣が「日本フードサービス」を有識者にしてはじめたらしい。はーなるほどねえ。まあ農水省の資料を見ると「正しい和食」推奨なんて耳に心地よいお題目を唱えつつその実は単に輸出品目を増やそうという下心で動いていることがわかりますな。

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2006年12月13日 (水)

「ブロークバック・マウンテン」アン・リー姐さん大いに叫ぶ

ブロークバック・マウンテン プレミアム・エディション

ブロークバック・マウンテン プレミアム・エディション

  • 出版社/メーカー: ジェネオン エンタテインメント
  • 発売日: 2006/09/22
  • メディア: DVD
アカデミー作品賞を「クラッシュ」と争って敗れた「ブロークバック・マウンテン」。個人的に「クラッシュ」を非常に面白く感じていたので妥当なんじゃ?と思っていたが、「ゲイ映画だから差別したんだ」との声があちこちのブログやらで見受けられた。それほど素晴らしい作品だったのかと期待してみたが、これがあんまりだったというわけ。
 
確かに映像はきれいだ。だがその映像には何の意図が込められていたのだろうか。明度と彩度をすみずみまで行き渡らせた結果、綺麗ではあるが画一的な映像になっていたと思うし、風景は風景としてただそこにあるだけで、その中になにか心象風景が組み込まれていたようには、私には見えなかった。「獅子座」のように別に美しくもなんともない汚い川の風景にもかかわらず、水面の煌きが人生の儚さと美しさを圧倒的なまでに表現したことに比べ、この「ハリウッド」映画の「映像美」がいかに作り物めいていることか。「バッドランズ」(邦題「地獄の逃避行」)における、木々の一葉一葉にまで丁寧に気を配られた映像美を思い出せば、ただただCGで洗いをかけたような「人工的な自然美」には食傷気味になるだけだ。
 
映像に関してはこれぐらいにして、では物語はどうか?
 
この映画に関するレビューを読んでいると結構無邪気に「男同士の愛だから純愛だ」と断定してしまっている人(高確率で女性)もいて、私としては考えなしにそういいきってしまうのは、それこそ差別なんじゃねーの?と思ってしまう。そんな神聖視するものなのだろうか。
 
少数派をゲイ、多数派をヘテロという単純な区切りで考えるのならば、男女というのはある意味「両者の合意があるのならばくっついて当たり前」であるのであって、そこに“両者が合意しているにもかかわらずくっつけないのは何故か?”という理由が物語を成立させる--どっちかが既婚者である、身分が違う、本人のメンタル的なところに問題がある等々--とするならば、同性愛というのはまだまだ“くっついている”のが不自然であるという部分は否めない。ゆえに「なぜ恋愛が成立しているのか」という部分を丁寧に書き込まないと、(ヘテロに属する)観客は感情移入しづらかったりする。普遍性を見出せないと共有できない。
 
そういう意味でいえば主人公二人の馴れ初めが、恋には理由はいらないよとはいえ、アン・リーの一人合点という感がする。「いいのよ!アタシがこれでいいって思ってんだから!もうこれよこれ!サイッコー」というアン・リー姐さんのお言葉を受信シマシタ(嘘。テキトウ)。そんなことはどうでもいいんですが、どうして二人が恋に落ちたのかというキモがあまりにも説明不足ではあると私は思う。そしてそのあたりを風景や情景で心象風景を代弁させているわけでもないので、なんだか成り行きと成立具合に唐突な感を覚えてしまう。(性欲から始まった恋愛が普遍的な恋情へ昇華されるのかっていうことをテーマにしたわけでもなさそうだし)そして男二人が無邪気に楽しむ姿を見ているうちに、ブロークバック・マウンテンから追い出され生活の只中に晒される場面へあっという間にうつってしまい、以後はその「永遠の夏」に縛られ、再現しようとして挫折していく男たちの姿を見続けることとなる。観客が二人の「愛」に納得し共感していることを前提に話が進みすぎではないか。
 
大事なところを置き去りにしてしまったがゆえ、ゲイであるとかないとかいう以前に物語としてフツーに面白くないのだ。最後さすがに泣かせるシーンがでてくるが、それは愛という不確かなものを心のよりどころにしてしまった結果縛られ殉じることとなった人間の悲しみ、最も偏見を抱いてのは誰かということに気づいたが既に遅すぎたことを熟知した男の背中にグッとくるのであって、ここにいたって初めて物語は普遍性を獲得したといえる。どちらにしろ「遅すぎた」と思えますが。そういうわけでこの物語を男女間に置き換えたら(不成立条件にどのような理由をつけたとしても)陳腐で退屈な作品に仕上がってしまうのではないだろうか。であるからこそ、普遍性を獲得していないと私は思う。
以上、私としては「アカデミー監督賞」というのは非常に妥当な線だと思えました。わかったわかったアン・リー、みたいなところですかね。悪い作品ではないけれども、傑作とは言いがたい。そういう作品でした。(しかし「クラッシュ」が作品賞で「マグノリア」が無冠っていうのがどうにも納得できないなアカデミー賞ってやつは)

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語りすぎること見せること「ローズ」と「獅子座」にみる大衆と純文学

確かにいい映画だった「ローズ」だがどうにも違和感を覚える部分がある。これはハリウッド映画をみているとたいてい思うことなんだが、どうにもせりふで語りすぎるきらいがあるのだ。

例えば主人公の歌手ローズがツアーツアーツアーの生活で疲れている、という描写でも恋人が「彼女は疲れている」という一言で表現したりするし、それにしてはベット・ミドラーがあまりにも(表裏のなさそうな)元気っぷりなので「いやお前あれはどうみてもフツーに元気だろ」と思えてしまい、酒と男に溺れる彼女がなんだか激しく身勝手な人間に思えて感情移入がかなりしづらかったりする。

(なんども言及するが)「獅子座」の主人公も負けず劣らず身勝手な人物で、ローズとは違い、彼は生産すらしていない。それでも彼が戸惑い迷い鬱屈し屈託する様子を「あの人はお金がなくて困っているんだよ」などと(ハリウッド映画によく登場する)“善意の第三者”に語らせることはせず、ただ彼の目に映る風景や主人公の剃刀をあてられない顔といった『直接話法』を避けた描写で表現しているため、感情移入がしやすいのだ。

ここ何作かヌーヴェル・ヴァーグ作品を見続けて思ったのは、小説、特に純文学を書きたいと思うひとなら、ルノワール的作品群をみるのは非常に勉強になるだろうということ。脚本家を目指すならばヒッチコック的ハリウッド映画が大いに参考になるだろう。以前私はある人に「宿命を宿命と書いてしまえば文学としては終わりだ」といわれたことがあるが、ある事実--世界の多様性をどう相手へ伝えるか、そこをポイントにするのか、それとも物語(整合性といった部分での)の文脈を相手に伝えようとするのかでヒッチコック的なものかルノワール的なものか、立ち位置が変わってくるように思える。語る映画と見る映画、そんなことを考えたりしている。

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「ローズ」ふらふらして

ローズ

ローズ

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • 発売日: 2006/10/27
  • メディア: DVD

くらくらして南部の洗濯女に「性転換してください」と頼み込む訳じゃない。女に特有の、なんつーか不定愁訴ってやつ?間近なアレかしら。アレってもちろんナニですよ。アレルギー性鼻炎です。それはさておき、どうやらどこかで頂きたくないものを頂いた様子。つまり風邪ってことです。いやだねえ。とりあえず早退し、早めに寝る。でもきっちり映画は見ますよノルマですもの。そういうわけで「ローズ」。これが病身間近な半病人にはなかなかに豪快なボディブローを浴びせる映画でございました。

ベット・ミドラーがまんま喋り方、歌い方ジャニス・ジョプリンじゃございませんか。墓場から蘇ったみたいでオラびっくりでごぜえますだ。そんな軽口はどうでもいいんですが、ジャニスの同性愛についても忠実にトレースしていてここまでやるかと少々驚き。それにしてもこれってミュージカルになるのかしらん。違うとは思うけれども、でもねえやっぱり男ぶん殴っちゃいけないよ。昔私もよくやっておりましたが。そんな衝撃の事実を暴露っても仕方ない。歯を折ってしまったんですが、そういうSMは健康のため注意しましょう。とにかくいい映画だったよ「ローズ」。ベット・ミドラー元気すぎという気がしないでもないが。

ちなみに監督が「黄昏」を撮ったマーク・ライデル。「黄昏」でも若干娘と父親の不和についてカキコミ足らんかなと思う部分があったが、今回も駆け足気味でローズの苛立ち疲れがもう少し丁寧に描かれてもよかったのでは。個人的に爆笑だったのが、ローズがゲイバーに飲みに行くシーンで、ショータイムとして「ジェーンになにが起こったか?」のベイビージェーンの扮装で歌い踊るオカマがでてたこと。バーブラとかあの手の過剰さ、オカマちゃん大好きだよね。

ロックスターであるがゆえなのかもしれないけど、相手が自分の言うことをきかないと気が済まない、支配的な性格を痛々しいほど露出しながらも、愛に飢え求め傷つき結局「ブルースを初めて聴いたのはいつ?と聞かれるんだけど、そういうときはこう答えるの。“生まれたときから”って。だって女に生まれたんだから」と答えざるを得ない。その流浪の魂を、清々しいほど強力に表現したベット・ミドラーの演技と歌に圧倒される二時間あまりでございます。「なにもないのと悲しみとがあるとするならば、人はいつだって悲しみを選んでしまうものなんだ」そんな言葉を思い出した。見終わってふらふら。

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2006年12月12日 (火)

私たちは戦争を知っているのか--渡辺謙「日本人は戦争を知らない」より

渡辺謙は「日本人は戦争を知らない」といった。では私たちは本当に戦争を知らないのだろうか。義務教育を含めると10年近く歴史を学んでいるというのに? どちらかというと知る努力を怠っている、という風にわたしには思える。

例えばわたしは以前靖国神社の遊就館に関する批判を書いたことがあった。反論として書き込まれたコメントは「自分はあそこで日本の“正しい”歴史を知った。なんということをいうのだ」というものだった。おいおい、それじゃそこに正反対のことが書いてあったらアンタはそれを信じるのか? 鵜呑みにするのなら紅衛兵だってできるんだ。知る努力というのは自分なりの歴史観を構築するために調べたり読んだり見たり聞いたりすることをいう。1つのテクストを元に、それをどう考えるのか。テクストは与えられるべきだが、解を与えられてしまえば、奪われるのは個々人の思考である。

幸いなことにわたしは沖縄で戦争について直接(いわゆる語り部的な位置づけの人ではなく、普通に暮らすヒトビトに)話を聞くことができた。そこにあったのは、天皇を敬い敬意を顕わにする世代とその子供たちとの断絶であり、戦時と日常の曖昧さ、といった「生活」あるいはある意味「変わることのない日常」であった。だからこそ、沖縄戦は悲惨だったわけだけれども。

先日、報道ステーションで渡辺謙が(宣伝のためか)登場し、高校生たちと歴史について語り合う姿が放映された。事後高校生たちにインタビューするとこれがまあ紋切り型というかなんというか口々に「戦争はもう起こしてはならないと思いました」などという。それは当たり前のことだけれども、暮れの元気なご挨拶じゃないんだから、みながみな同じことを言うのはある種思考停止状態ではないか? わたしはそういう「解」しか誘導できない「教育」にほとんど絶望を覚える。

「父親たちの星条旗」では“ありのままの戦争の姿を見つめよう”と提議されている。ありのままの戦争。それを知る努力を我々は個々人で行うべきではないのか。その上でようやく「戦争を知っている」といえるのではないだろうか。戦争から半世紀以上経過し、経験している世代は少なくなっていく今、戦争を知らないことが当たり前であるからこそ、私たちは、自分たちでテクストを構成するべく「自力で」学ぶ必要があるのだと、私は思う。

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「獅子座」どうしよう俺…(感想2 くだけた感じで親しみやすく)

獅子座

獅子座

  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2007/01/27
  • メディア: DVD


(体調が悪くなにを書いたかよくわからないのであとで訂正するやもしれませぬ)
前にも感想を書いたけれどもこの「獅子座」、あまりにも面白かったのでもうひとつ別クチで思ったことを書いてみたくなった。なんというか久しぶりに身につまされる作品だったので。

先にも書いたんだが、まあつまりこの話はおっさんは馬鹿ですね、というただそれだけの内容であるんだが、どうしたもんかそれが抜群に面白い。おもしろうてやがてかなしき、という言葉を具現化したようだ。

マカロニほうれん荘のクマ先生みたいなおっさんが無意味に見事な身体を揺らして、汗をかきかきひたすらパリを放浪する。そういう意味ではいわゆる物語性もないし、痛快さもカタストロフも一切ないのだが、どうしてもこうも惹きつけられるのだろう。

それは彼が流離うパリ、その風景の残酷なまでの美しさというのもあるし、(美人ほど男には冷たいものだ)彼のよりどころにしている川の水面の懐深さ(気が滅入っているとたいしたことのない風景に過剰な意味づけをしてしまう)、アテにしていた友人知人たちの人情紙風船ぶり(てめえでケツもふけないような奴はそれだけの対応をされてしまうのだ)、些細な要素はいずれも自分の身に覚えがあるものだし、ゆえの親近感と嫌悪感と両方感じて、だから目が離せない。

絶望しているときほど、都市の、見慣れた風景が冷たくて残酷に輝くときはない。私もそうした思いを抱えながら、新宿を彷徨ったことが何度かある。見えない解がこの先にあるような気がしながらも、それは永遠に手に入らないと熟知しているような。それでも歩かずにはいられない。ピエールの「さすらい」はひとごとではない。

まったくねえ。こんなおっさんがパリをうろうろするだけの話をよくぞここまでに仕立てたもんだ。才能といってしまえばそれまでだが、それ以上に彼の中にある切実なもの、「いまここ」で表現しなければもう一生できないのだという見極めがこの作品にはある。人はたいていの場合無自覚に時間を信用してしまうのだが、そこで踏みとどまり自分と世界の関係性ともう一度捉えなおそうと覚悟する、そういう決意が(力みではなく)作品の中で漲っている。だからこそ傑作足りえる。

あのテキトウとしか思えない結末(いや爆笑するしかねえだろ)、とってつけたようなラスト、すべてにおいて完璧である。ピエールのように生を彷徨いながら私はきっと何度でも思い返すんだろうなこの映画を。自らに打たれた刻印のように。

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「獅子座」世界が変容することへの「震え」(感想1小難しくいってみると)

獅子座

獅子座

  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2007/01/27
  • メディア: DVD


先日の中条氏絶賛「絶対見ろ」とのお言葉もあったので期待のロメール長編第一作「獅子座」。渋谷の土日なんてくるもんじゃないね。酷い込みようでそれだけで脳が勝手に震盪してくるようだ。

この映画にでてくる主人公はそんなヒトゴミの中にいることで孤独を感じずにすむような典型的な(そして何の職業なのか得体の知れない)都会人な40間近の自称音楽家のピエール。金持ちの友人にたかって生きているような享楽的で根無し草。6/22、彼は電報を受け取る。金持ちのおばが死んだのだ。遺産が転がり込んでくる!と友達集めてパーティをやるが、そうはいかんざき(死語)とおばは彼へ相続権を渡さないよう手続きをしていた。アパルトマンから追い出され安ホテルに住むが踏み倒しを続けるうちにどこも受け入れてはもらえなくなる。当てにできる友達はみなバカンスへ行き、売れるものは全て売り払った末持金も底をつき、結果、あてどなくパリを放浪し続けるピエール。靴の底ははがれ、ズボンにはしみがつき、ひげだらけのどこからどうみても正しき浮浪者然といった姿になり、その辺で寝るような日々へ。ついにはルンペン(って懐かしい言葉だな)と組んで該当パフォーマンス(という名の物乞い)で日々食いつなぐようになる。この間パリ祭はさんで二ヶ月ほど。
出張から帰ってきたピエールの友人は借金を返してもらおうとあちこち彼の居所探すうちに、実はおばの財産を相続した彼のいとこが頓死して、ピエールが全財産を相続したことを知る。パリ中を探し回るうちにやがて…、というのが大まかなストーリー。

タイトルの「獅子座」というのは叔母死亡祝い(というのは非常に不謹慎だがそうとしか言いようがない)パーティの最中、ピエールが自信満々で言い放つ「俺は獅子座で以前占い師に『40になったら幸運か不運かはっきり分かるだろう』といわれたんだ!俺は強運だった!」という言葉に由来する。で、このピエールという男、「大男総身に知恵が回りかね」を絵に描いたような造形で登場し、クマっぽい。まさに何も考えてなさそうな、人生に直接対峙など一度もしたことがなさそうで非常に良い。そいつが叔母の遺産という頂点からどん底へ一気に蹴落とされることにより初めて「真実」というものの顔を拝むようになる。

先日のトークショーで「世界の変容」ということを中条氏はいっていたが、まさにその通りで、楽しげで明るいパリがピエールが堕ちていくその道程でだんだんに残酷な側面を見せ始める。その過程が非常にスリリングで、下手なサスペンスよりもドラマティックである。劇中、セーヌ河畔が何度か登場するのだが、そのたびごとに水面のきらめきがまったく違った意味で見る側に訴えかけてくる。川に抱かれるように眠る彼は、自分が高級スポーツカーを爆走し、その挙句死んだ夢を見る。このあとルンペンと出会って人生が転換していくのだが、この物語はこんな風にせりふではなく心象風景を投影させたようなセーヌの川の水面、男の夢、パリ祭ではしゃぐヒトビト、そういったもので男の感情やらなにやらを代弁させている。であるがゆえに、男の行動が身勝手で、感情移入がかなり難しいものであったとしても、彼のまなざしを通して見る風景を知ることによって、ピエールの抱える絶望、孤独、そういった彼の内的真実の世界へいつの間にかとらわれていく。私は主人公と共に身体を切り刻まれながら画面を注視していた。

単純極まりない話であるにもかかわらず、これほど自己と世界の変容について迫っている映画はあまりないように思える。そのうすら寒さに震えがくるほどだ。あっけなく爆笑ものの結末も含め、これがデビュー作とは。ロメール、まさに当時末恐ろしいと思われただろうな。傑作。

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2006年12月10日 (日)

評論家中条省平氏トークショー「ヌーヴェル・ヴァーグについて知っている二、三の事柄」(仮題)

昨日行われたシネマヴェーラ渋谷で開催中のヌーヴェル・ヴァーグ映画週間記念のトークショーに参加してきた。話者は映画評論家中条省平氏。(ちなみにこの日記のトークショータイトルは私が適当につけたもの)

17;25から開始なんてアータ早すぎるぜと文句たれつつ17時頃渋谷に到着。人が多くてなかなか思うように前に進めず。クソ不味いホットチョック(ピッコロサイズ)を飲みながらなんとか間に合う。会場は入れ換え制ではないゆえか、ほぼ満員。今日は雨で天気が悪い上かなり寒かったのにもかかわらず皆よく集まるなと自分もその一人ながら感心した。さてトークショー。この日の内容は「俺とヌーベルバーグ」。ドゥルースのシネマ2をテクストにしながらヌーベルバーグを語るといった趣。かなり面白かった。

「みなさんこんばんは。中条です」とスクリーンの前のイスに一人腰掛け開始。以下はだいたいの要約となります。

「今回はヌーヴェル・ヴァーグについて語るということで」と1959年という年がヌーヴェル・ヴァーグにとってどのような意味合いであったかについて言及。「クロード・シャブロルは『美しきセルジュ』を発表し、そしてすぐ『いとこ同士』をも送り出し一躍スターとなり、トリュフォー、アラン・レネがカンヌで賞をとるなど活躍、一気に広がりを見せ、またこの年に『勝手にしやがれ』がクランクイン、ロメールの『獅子座』も同様。ただしロメールは既に王手飛車取りでデビューはしていましたけれども。ヌーヴェル・ヴァーグの年がそこからとすると、今年で47歳、もうすぐ50歳というのはそこからきてます。」
「ヌーヴェル・ヴァーグとは何かというと、『勝手にしやがれ』を例にとりますと、まず第一にオールロケというのが挙げられます。これはカメラが軽量化され手持ちできるようになったこと、フィルムの感度がよくなってスタジオでものすごい光量をあてて撮影しなくてもよくなった。ここにおいて完全にスタジオの閉鎖された空間から解放されたわけです。ロケーション撮影ですね。そしてこれはゴダールだけかも知れないですけれども、即興演出を取り入れた、という点。」ここで中条氏は『勝手にしやがれ』における自由さをジーン・セバーグがフランス語をそんなに話せないにもかかわらず起用したことによって生じる偶然性ーーそれは最後の場面においてベルモンドがつぶやく「俺は最低だ」という言葉、その「最低」という単語がわからなかったため、近くにいた警官に尋ねると「おまえは最低だといっているよ」といわれる。ここにおいて生じる暗いユーモアなどを例に挙げつつ「ヌーヴェル・ヴァーグの大きな特徴としては、ドキュメンタリー性が強いということです。パリの街角でロケを行い即興演出を行うことによって土地のドキュメンタリー性のよさをひきだした、ということがいえます。ただ『勝手にしやがれ』において唯一古いと思うのは、同時録音をしていないということです。その後の映画の流れとはそこが違っているんですけど、とにかく綺麗な言葉、綺麗なフランス語を話して演劇的に聞かせるというのをやめた、ということがいえます。」

続いて中条氏はドゥルーズの「シネマ2 時間イメージ」をテクストにしながらヌーヴェル・ヴァーグの特徴について解体していく。

「ドゥルーズの『シネマ2』がようやく翻訳されましてーーなぜか『シネマ1』ではなく『シネマ2』から刊行されているんですがーーこれは難しいですけれども、かなりよいので是非読んでみてください。『シネマ1 行動イメージ』では古典映画つまりハリウッド映画について語られていて、シネマ2では`時間イメージ`について言及している。この中でドゥルーズは`時間イメージ`とは何か、ロッセリーニに代表されるネオレアリスモを例にとって説明しています」

「ヌーヴェル・ヴァーグとネオレアリスモの特徴としてドゥルーズは分散的であること、人間関係が脆弱であること(今日の関係が明日も続くとは限らない)、主人公のさすらい(本人以外行動形式の意味合いがとれない、観客には説明されない)、世界が陰謀的であること、登場人物たちが自分たちの行動について自覚的であること(自分の行動に対して批判的であったり戯画的であることへの自覚)を指摘しています。(筆者注:ここで『勝手にしやがれ』やその他ヌーヴェル・ヴァーグ作品を例にとって上記5点の説明をした後)これは第二次大戦を経て、世界の解釈の仕方が変わってしまったということが言えると思います。古典映画のように、主人公が自らの行動形式になんの疑問も抱いていないというような世界にはもう戻れなくなってしまった。見取り図が成立しない見取り図というか、これは先ほどいった第二次大戦後の世界の変化と関係してきているわけです。」

「ヌーヴェル・ヴァーグは僕にとってなにかというと、これは世界の再発見にほかならない。映画を根源的に条件付けしてみてください。そうすると上映時間とフレームの二種類が決定的な構成要素となると思います。このフレームですが、ドゥルーズがいうにはヒッチコック型とルノワール型がある。ヒッチコック型というのは先ほど言ったいわゆるハリウッド的な古典映画で、ヒッチコックの映画をみればよくわかると思いますが、すべての要素がぎっちりと詰め込まれており、フレームの中に世界を作っている。まるで教科書のような作品のことです。ルノワール型というのは世界を切り取ってきている、世界は無限大だから俺に切り取れるのはこれだけだよ、ということなんですけれども。それでヌーヴェル・ヴァーグの監督たちはみなルノワールが好きなんですね。ヌーヴェル・ヴァーグは本質的にルノワール的なんです。シャブロルなんて映画をみると実にヒッチコック型だけれども、やはりルノワールが大好きなんですね。そしてブレッソンを馬鹿にしている。彼が言うには、ドアノブに手をかけてあけるところを映したりあるいは登場人物が街頭を歩くコツコツコツという靴音をわざわざ撮ることになんの意味があるんだ、と。また『犬』における犯人が自白するシーンで、カメラがパンしてから告白が始まる。あんなのありえないっていうんですね。そういうことに意味を見いださないのがルノワール的であり、否定するところから始まったのがヌーヴェル・ヴァーグなんです。」

そして齢70を超えるヌーヴェル・ヴァーグの監督たちがいまだに現役でなおかつ若々しい感性を保持していることを驚異的であると褒め称えながらルノワールの映画の一節へと。

「ルノワールの『ゲームの規則』における有名な言葉`僕が本当に恐ろしいのはすべての人の言い分が正しいことだ`に象徴されてますが、ルノワールには世界に対する恐れがある。彼の「ピクニック」には世界でもっとも美しい雨のシーンが登場します。が、もともと彼が欲しかったのはカンカン照りだったんですね。でも雨が降ってきてやみそうもなく、しかもそれがあまりにもすごいのでじゃあ撮ってしまえということで、つまり偶然収めたものが世界で一番美しい雨のシーンになったんですね。これがクロサワなら近くの宿を何ヶ月もおさえて、金がねえなんて嘆くスタッフを`がんばるんだ`とか励ましながら思い通りのシーンを撮る。だいたいどうせ開けもしない薬棚をきちんと開けられるようにした上さらに中にそろえておくといったことになんの意味もないんですよ!」ここで場内から軽い失笑が漏れた。「ここにクロサワファンの方がいたら申し訳ないんですが、あくまでもルノワール的な世界観と比べてということですので」と中条氏も苦笑いする。

「戻りますと、カフカのあの謎めいた言葉`世界とおまえの戦いなら世界の方を支援しろ`にもつながっているのですが、つまりすべての人が正しい、どの人にも言い分があるということを認めあう、そういうことをルノワールは実体化させた。そしてヌーヴェル・ヴァーグは知りあった5人全員が親友でーー後にはゴダールとトリュフォーのように血で血で洗うような憎しみの中別れていったケースも有りますけれどもーーそしてそういう世界の多様性を認めようと5人全員が共有していたわけです。」

中条氏はこの日上映されるゴダール「恋人たちの時間」における、世界に対する断片化とその人間関係の脆弱さゆえの残酷性、また「モンソーのパン屋の女の子/シュザンヌの生き方」を`くだらないことこの上ない話`であるとしながらも、個別の人間の物語ながら、結果すべての人に言い分が有るということを表現しており、また女の子が涙するシーンで窓の外に降り注ぐ圧倒的な雨において宣告される`世界は豊かだ`という象徴に注目して欲しいと語られた。

「リュミエール兄弟の映画に『赤ちゃんの食事』というのがあります。これは赤ちゃんがただ食事をしているシーンをとった元祖ホームムービーというべきものなんですけれども、その赤ちゃんが食事している後ろでうつる木が、今そこにあるように風にそよいでいる、もうその赤ちゃんだって死んじゃっているだろうし、木もないかもしれない。でも映画の中では永遠である。そこに世界の多様性が表されているんですね。」

続いてロメールの「獅子座」を絶対に見ろと推薦。「男の目に映る世界の変容を是非見て欲しい。疲れ切ってパリを放浪するんですが、そこで川の水面にうつる波紋がまさに世界を再発見させるものなんです。だから僕にとってヌーヴェル・ヴァーグとは世界をもう一回再発見させてくれた、友情に満ちた奇跡的な映画運動です。(こんなことは年をとった人間が言うと実に醜いのですが、と前置きした上で)特にこの時期のヌーヴェル・ヴァーグは`若さ`でしか補足しようがない作品なので、是非皆さんもこの時期のヌーヴェル・ヴァーグをみて世界を再発見して欲しい」と中条氏は締めくくった。

話としては氏の「フランス映画史の誘惑」(集英社新書)とも重なる部分が多く、基本的には補足するような内容だった。情報量に圧倒されるとまではいわないが、なにぶんにも早くもあったので、前の方の席では何人か寝ている方もおられた。もったいない。ドゥルーズについてはあまりよく知らないので非常に参考になった。帰宅後早速Amazonにて購入したりして。聞き逃した方は是非「フランス映画史の誘惑」を読んで補完した上でヌーヴェル・ヴァーグの作品に触れて世界を再発見してほしい。有意義な時間でございました。

フランス映画史の誘惑

フランス映画史の誘惑

  • 作者: 中条 省平
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2003/01
  • メディア: 新書

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2006年12月 9日 (土)

「カヴァルケード(大帝国行進曲)」温故知新というわけにはいかないのだ

世界名作映画全集108 カヴァルケード

世界名作映画全集108 カヴァルケード

  • 出版社/メーカー: GPミュージアムソフト
  • 発売日: 2006/07/25
  • メディア: DVD
アカデミー作品賞受賞シリーズ。
第6回の栄冠に輝いた本作はまんま舞台中継だった。役者たちの(どこから声を出しているのか皆目不明な)演劇的発声法は非常に奇異な感じ。昔はこれでも十分ドラマティックだったんだろうけどさ。
 
ストーリーはボーア戦争に出征間近のイギリス貴族が(しかしこいつらってこういう映画だといつも働いている形跡がないけど、なにして食ってるんだろう)大晦日から新年--1900年の新世紀祝い(と字幕に書いてあったが新世紀は1901年からだから訳ミスだと思う)をするところから始まり、ボーア戦争から帰ってきた執事がパブを開くが、駄目人間になって馬車にひかれて死んだり、貴族の二人いる息子のうち一人が新婚旅行でタイタニックを選んで死んだり、執事の娘がダンサーで成功してもう一人の息子がその娘とできちゃうんだが結局第一次世界大戦に従軍して死んだりといった家族の叙事詩をつづるという内容。大晦日で始まり大晦日で終わる。
 
トーキーに移行して結構たつとは思うのだが、どうにも演技が無声映画風と舞台劇風がちゃんぽんになっていて、申し訳ないがところどころ失笑を覚える。(父親が事故で死んだにもかかわらず何も知らない娘は音楽にノッて踊り続けるのだった、みたいなシーンを字面のとおりそのまま橋田壽賀子的子役演技していたりなど)カメラアングルは基本固定なので、登場人物がいちいち説明口調のせりふをカメラに向かって語るなど不自然きわまりないことになっている。パン・フォーカス・カットバックなんて手法の偉大さよ。しかしそれも今日的視点からであって、当時はごくごく当たり前のことだったんだろうなとは推測。結末も(今見れば)かなり陳腐で「昔はよかった」というか「文明社会への痛烈な告発ではないでしょうかbyマイク水野閣下」みたいな〆だし。舞台見ているシーンで「本当に」延々舞台を写しているのには正直マイった。
 
たとえばヒッチコックのように(「下宿人」からして)今見ても十分新しいと思える、時代から生き残っている作品もあれば、古びてどうにもならない時代とともに朽ち果てていくしかない作品もある。この作品は後者の典型だった。そういうわけで感情移入がしづらいかなり退屈な映画である。参加することに意義があるのだ。でもなんのために?

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2006年12月 8日 (金)

「変態村」つまんねーんだよバーカ

変態村

変態村

  • 出版社/メーカー: キングレコード
  • 発売日: 2006/10/04
  • メディア: DVD


「変態村」。まず名前がいいですね。まるで俺ちゃんのような変態包茎好きのために作られたような映画じゃないですか!?とか書くとまたどこぞの阿呆な方から「俺のソーセージ試食してみませんか?うひゃひゃひゃひゃ」なんちゅうステキメールがきてしまうので言及は控えます。まあとにかく「変態村」っていわれたらみるしかないでしょうと劇場まで足を運ぼうかと思っていたのですが、いやしなくてよかったよ。つまらねえんだもん。ここまで看板に偽りアリつーか羊頭狗肉っていうか俺ちゃんの変態マインドを土足で汚すような真似をしてくれた映画ははじめてかも。なんだよ変態マインドって。土足で汚されたほうが喜ぶだろここか?ここか?みたいなベタなイカストーク天国はどうでもいいんです。とにかく「変態村」。

冒頭はかなりよかった。売れない“ちょっといい男”なドサまわり歌手が、老人ホームを慰問している。ババアは股間を押し付けてくるし、施設職員のオールドミス(死語)は裸の写真をおくりつけてくるしでちんぽ受難物語が展開されるのか?と期待させる。男はクリスマスライブのために擦り寄るオールドミスを跳ね除けて一路車を走らせるが、案の定(様式美ともいう)テキサスチェーンソーみたいにいきなりエンコして近くの「ペンソン」の看板が光り輝く。乗り付けてみれば突然キチガイ男が「俺の犬がいなくなった〜〜」と登場。そしてペンションにいってみればオーナー兼シェフ兼雑用係みたいなおっさんが妖しく目を光らせながら主人公に迫ってくる。こんなやおいっぽい話を割りと凝った構図とカメラアングル、奇天烈な登場人物たちで展開させるっていうのが大まかな流れ。

だけどねえ。ケレン味つーのは、ストーリーが定石どおり、またはオーソドックスだったりと骨子がしっかりしてこそ意味があるわけで、そうでないと映像のこけおどしっぷりが光り輝いてしまう。この映画はその点が顕著に現れてしまい、なんともどっちつかずな、映像でも見せられない、ストーリーも面白くないという典型的な駄作(つっこみようもないぐらいの)へ落ち着いている。股間を熱くしてかぶりついた俺の純真な真心を返せよとプラズマ大画面(嘘)にむかって叫んでみても、世界の中心で愛を叫んだことにはならないのでこれにて終了とあいなるのでした。ちゃんちゃん。

あいやしばらく!そこで終わらないのですよ。実はDVDには特典映像として「ワンダフルラブ」という短編映画が収録されている。これが抜群に面白い。どっちがメインだかわからなくなったくらい。まさに一見の価値がある映画だった。まあそのなんだ、あまりにも「変態村」がクソ映画だったからっていうプラシーボ効果(テキトウ)なのかもしれんけどさ。それにしてはそれにしても過ぎるってことで、軽くご紹介。

主人公はキモい系の女子(処女ではなさそうな35歳。以上推定)。こいつがてめえの誕生日ってんで男性ストリッパーを呼んだわけだが、ストリッパーはこの女があまりにもキモいんでさっさと金もらって早く帰ろうとする。女は引き止めておきたいから殺してしまう。以後死体と同居。死体をまるで恋人のように愛撫し、近所の肉屋でご馳走を買い、「最近二人の仲が思わしくないから」と娼婦を呼んでみたりといった日々が凝りに凝った映像で綴られる。

まず主人公のキモダサ姿に共感。始終首を曲げて人と目をあわそうとしない、買ってきた牛タンをタダ焼くだけとか細部にわたって人物造型が丁寧。彼女が通う肉屋にいるアルビノかつちょっと奇形入っているデッチ太郎がまたいい味を出している。丁稚太郎はこの主人公を愛していて、べスパで彼女の家までやってきちゃ、愛の歌なんかをきれいな声で歌っている。そいつに対してなにげにいい感じを持ちながらも死体を捨てることが出来ない主人公の純真さと女の(グロテスクな)可愛らしさ。短編で余計な要素を切り捨ててるからこそ、スタイリッシュな映像とストーリーの切実さに惹かれ、ネクロフィリアな話なんだけど愛すべき作品へと昇華できてしまう。

だから鑑賞者の正しき姿としては、変態村のDVDを借りてきてまず「ワンダフルラブ」を夜中に見てエグさに酔い、そのまま就寝、悪夢にうなされて目が覚めて晴れやかな青空を見て散歩する。散歩する気力がなくて退屈でどうしようもなくて暇すぎたら「変態村」をみる。これじゃよこれ(天狗マークの精力堂より)。

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したたる記憶

「月が白い」

私は窓辺に立っていた。ガラスの冷たさを手のひらに感じながら、足を開き、何も身に着けずに。男の指が私の股間をまさぐる。襞をかきわけ、中へ進入しようとしている。既に潤っているそこは、開かれればゆっくりと蜜を垂らす。太ももに感触。月が窓から消えた。

「なくなっちゃった」
バカだなと抑えた声で喉を鳴らして男。窓ガラスが曇っただけだ。みれば白く薄ぼんやりとしてなにもみえない。遠くのビルの明かりが灯篭のように丸く光っている。指が奥まではいってくる。支える腕から力が抜け、頬にガラス。つめたくて気持ちいい。

「こっちだろ」
指はそれを探し当てる。やわらかくこすりながら蠢いている。目の前がしろくなっているのは、吐息のせいか指のせいか。ああ。小さく漏らした私に、静かにしろよ、ばれるだろ、と興奮を撫で付けたような彼の声。それでも派手な、水溜りを跳ね回るような音はどうしても部屋の中に響いてしまう。体中の水分を集めたように、あとからあとからとめどなくあふれだす。

突然、舌打ちと共に指が引き抜かれた。私は膝を震わせながら崩れ落ちる。月の光が私の身体を嘗め回す。ふとともに鮮やかな色。もうきちゃったんだ。床に倒れこみながら、不思議に満ち足りた思いで、すべてを月に晒していた。

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2006年12月 7日 (木)

「エレクトラ」勘違い日本理解映画の王道

エレクトラ

エレクトラ

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • 発売日: 2006/10/27
  • メディア: DVD


「エレクトラ」といってもクリュタイムネストラがでてくるATGで配給したギリシャのアレではなくてアメコミ馬鹿映画の方。「デアデビル」に登場したヒロインを主人公に映画作ってみたといういわゆる「スピンオフ」映画ですな。最近はいい映画を見た後に馬鹿映画をなるべくみるようにしてバランスをとってます。それはさておき。

勘違い日本映画というジャンルは最近新作が追加されないようになってしまった(トムちんが「ラストサムライ」なんぞを作るから…)が、この作品は昨今の高度情報化社会IT革命はイットじゃないよ森元総理グローバルスタンダードでヒラリーのアへ顔も在宅チェックできる時代だっていうのにものすごいパラレル日本が登場。武士道じゃなくて「キマグレ」道。導師が、おまえはキマグレじゃないからでてけ!などと主人公に宣告したりする。それっていいことなんじゃ?またお約束の忍者軍団がでてくるわけです。個人的には「なにがあたっても頑丈だからダイジョーブ」という大雑把な設定がイカスボブ・サップとか高ポイント設定が続出。まあねえアータ、こういう映画っちゅうもんはですなあ、刺し身食ってるからって馬鹿にすんじゃねーよなどと思いながらポテトチップスを貪り食ってOK牧場。これが正しい鑑賞法です。

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2006年12月 6日 (水)

「マグノリア」アンタすごいよP.T.A

マグノリア

マグノリア

  • 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
  • 発売日: 2006/07/19
  • メディア: DVD

ポール・トーマス・アンダーソンは本当にやってくれる。

ブギーナイツで片鱗を見せた、多数登場するヒトビトを器用にさばききる手腕はここで真価を発揮。練りに練った脚本とともに、見事な作品を作り上げた。「マグノリア」。キリスト教的「救済」をモチーフにしながらも、押し付けがましくも説教臭くもなく、非キリスト教圏の人間にもある意味理解しやすい形でみせてくれる。

大まかなストーリーとしては、子供クイズ番組を軸に、製作者・司会者と家族、その家族とかかわりあう人々、クイズ番組に出演中の天才少年、そして昔出演した(レコードホルダーである)元天才少年(20歳をはるかに過ぎてただのおっさん)の一日をひとひねりしたグランドホテル形式で描いている。

ポール・トーマス・アンダーソン(以下、略してP.T.A)は脚本構成力に定評があるが、本作もまさにそれが結実しており、189分という長尺を飽きさせることなく纏め上げている。この「189分」という数字には意味があり、確かに89分と189分という選択なら、189分しかなかっただろうな、と思う。つまりこの作品は「89」また「82」という数字が裏テーマとなっており、冒頭近くで表示される降水確率82%、クイズ番組収録シーンでひそかにADが掲げる「exodus82」というフリップボード、といったように繰り返し観客の意識へ「82」「89」という数字の存在を訴えかけている。この「82」「89」がどういう意味を持つかというと、ネタバレになるのであまり言及は出来ないが、是非映画を見終わった後で「出エジプト記」の8章2節と9節(exodus82!)を読んで欲しい。モーセとファラオのやりとりを一読されれば、なぜこの作品の中で、死を目の前にした二人の男が片方は救済され、片方は絶望へと堕とされたのか、おわかりいただけるとおもう。そして全ての苦悩を吹っ飛ばす「降り注ぐ救済」の意味も。

練りこまれたプロットかつ丁寧に編集されているとはいえ、さすがに189分は長い。冒頭で紹介される「偶然」にまつわる「不思議だがほんとうだ」なエピソードに目を奪われた後は、なんだなんだとストーリーを追いながらも、途中でだれてしまう部分も無きにしも非ず。しかし中盤以降はぐいぐいと観客を引き込み、あとはあの怒涛のラスト「降り注ぐ救済」まで一気にひっぱっていくその力量はさすがだ。この人の画面構成--画面作りをみているとその左右対称ぶりにキューブリックを彷彿とさせるのだが、もうひとつ独特の色使いというのもキューブリックを連想させる要素だ。ブルーの色調を多様するなど、P.T.Aはタランティーノとは違った意味で「独特」の地位を昨今のアメリカ映画の中で占めている。(タランティーノはこのテの「画面作り」よりも「編集」に重きを置いている気がする。BGMの選曲といった音楽部分はどちらもかなりのマニアだし力を入れているとは思うが)

P.T.A常連組のフィリップ・シーモア・ホフマン(相変わらずホントうまい。今回は本来は立ち入るべきではない受け持ち患者のプライベートにいやおうなく巻き込まれながらも、持ち前の人の良さで最後までかかわり続ける役を好演。つまり癖アリ癖ナシ両方イケる器用さが持ち味なんだな)などはさておき、みなさん劇中「FUCK」が用いられない会話が果たしてあったのかという状況をよくこなしたなと感心。見ているうちになじんではきたが、さすがにジュリアン・ムーアが「俺のちんぽなめやがれ!」と吐き捨てるシーンには驚愕。それでも彼女の腺病質な印象と上品さが損なわれないのはさすがといわざるを得ない。クイズ天才少年いまむかしを演じる二人も、小悧巧さの裏にある病的な自意識が痛々しく感じられ、ジョン・C・ライリーはいつもどおりのマヌケ善人役だがかえって安定感があってよいかも。そしてなんといっても「トムちん」ことトム・クルーズ。彼がインチキ自己啓発(スケコマシのやり方オシエマス)の教祖として登場したときは、いやすごいイキイキしていてハマり過ぎにハマって、ノリにのってこのままいくかと思いきや、ふだんの「目からビーム」演技(「俺はトム、世界はトム」演技ともいう)は影を潜め、繊細に丁寧に「奪われた息子」像をトレースしていた。やればできんじゃんかよ、となんとなくむかついたのは内緒だ。

そんなこんなで「マグノリア」まさに圧巻。とりあえずP.T.A、アタシは一生アンタについていく、と勝手に決めた。いや~んイケズ。ホントすごいよマジで。

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或る夜の会話(親しげな緊密さで)

友達が結婚することになってさ、とわたしは話しかけた。

「ツヴァイとかいうロシアブンガクシャみたいな名前のところでみつけたらしいよ」とカツゼツよく。その冗談はまったく面白くない上に何の意図があるのかわからないな、と不機嫌そうでもなく彼はいう。わたしもはいろうかしら、と少しずらしてみたりすれば「いい人ができるかもしれないし?」と電話の向こうは声を潜めて笑う。まあねえ、とわたしはうける。

「そりゃいるわけないとは思うけどさ。映画文学音楽政治時事とコチラの望む全てにわたってプレイできるようなオールラウンダーなんてさ。嫌なことを言ってみると、多分私って院生院卒レベルじゃないとダメって気がして最近」わからないよ、と彼は明快かつ朗らかに。「キミ、それは差別だよ。コウインだって素晴らしい頭脳を持った人がいるかもしれないし」コウインってアームカバーして金数えないほう?村崎百郎みたいな天才は知らないわ。

贅沢を自覚しろよ、と彼は言う。「そんなやつはいないし、せめて分業制にしたら?」とはいうものの、でもさ、例えばよ、じゃあ政治の話をあの人としてくるから行ってくるねサヨウナラなんて、男にしてみれば最大級の侮辱じゃない?と私が返すと、そりゃあまあねえ、と口ごもってしまう。だからアナタの同僚を紹介してよ、と迫ってみれば「いやキミとは政治的立場を異にする奴ばかりだからさ」と呵呵大笑。アナタ含めて、政治的立場が同一な人と、私おつきあいしたことないのよと含み笑えば、受話器の向こうは少し押し黙る気配がする。

過去か、と彼が呟いた。過去よ、と私も呟いた。

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2006年12月 5日 (火)

読書と筋肉

ウェイトトレーニングをはじめてもう8年になります、と自己紹介で話したところ相手から「読書と筋肉って相容れないと思うんですがどうでしょう?」とたずねられた。実は別に今回だけではなく、結構な割合で聞かれることが多い。しかし私の中では、相容れないどころか両方は問題なく同居するのだが、それは間違っているのだろうか。

ウェイトトレーニングは基本的にはスポーツに属するとは思うので、いわゆる「体育会系」とみなすことも出来る。脳みそよりも筋肉の比重が高そうなイメージ。だが、本質的にはスポーツの求道者的側面を特化させた運動であり、記録といった数字にはでにくくまた評価しづらいものである。体脂肪率が下がればいいってものじゃないし、奇形的な造形美を追求するようなものである。これはウェイトレーニングが本来的には「下ごしらえ」としての意味合い--筋トレをして鍛えてさてどのスポーツに生かすかというものであるからだと思う。野菜を切っただけでは料理として成立しない(煮るなり焼くなりあるいは刺身として使うなりしないと「料理」とは認められない)のと同様である。

そういうわけで私はこの運動をスポーツとは認識してない。単純に自分自身を練成するツールとして行っている。そういう意味では読書も映画も好きだから続けられるという部分もあるが、基本的にはオノレを鍛えるツールなのだ。そしてそれを行うからこそ自分自身を安定させることが出来るのであって、「やらなきゃいけない」というよりも「やらずにはいられない」のである。強迫神経症的?大いに結構。

だから私にはいずれも必要なのだ。私が私としてあるためには欠かすことが出来ない。そして今日も仕事で疲れた身体を引きずり、ウェイトを上げ下げし、本を読み、疲れきって妙に冴える頭を映画に集中させ、ゆえに安堵して眠りにつける。男を精神安定剤にするよりもよほど健康的ではないか。しかも「彼ら」はやればやっただけ、私にこたえてくれるわけだし。愛してやまない、永遠のわが「恋人」。

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2006年12月 4日 (月)

「キャンディ」大のオトナがバカをやる。是最高

キャンディ

キャンディ

  • 出版社/メーカー: アスミック
  • 発売日: 2003/12/21
  • メディア: DVD

まさにまれに見る馬鹿映画。大馬鹿映画、としか言いようのない作品である。だからこそ素晴らしいというかなんというか。ケッ作。

 とりあえずアレだ。ストーリーもあってなきが如し。ぢょし高生キャンディちゃんがうろちょろするたびに周りにいる男がムラムラして襲い掛かる。それだけの話をよくぞこれだけの豪華面子をそろえた挙句バカなことばっかりやらせたな。キャンディ扮するエヴァ・オーリン嬢が定石どおりのブロンドでおっぱいたっぷり脳みそ極少キャラを地なのか演技なのか分からん境界線で淡々と演じて素晴らしい。だからこそ余計に豪華キャストのバカ演技ぶりが際立つわけではあるのだが。

 だいたい始まってすぐ広大な宇宙の映像を見せられた途端観客は「ああこれはバカ映画だな」と安心できる親切さ。散々こねくり回した挙句「バカ映画かよフザケンナ」と泣きたくなる昨今のハリウッド映画とは大違いっすね。ヒッピーのやさしさマインドを感じます。フラワームーブメントってこと?(テキトウ)それはさておき、常にぼーとしてるボンクラ夢見るキャンディちゃんなわけですが、彼女の前に現れるのは“ギョエテとは俺のことかとゲーテいい”みたいな扮装の詩人のマクフィスト先生。(しかも運転手役に「伝説のボクサー」シュガー・レイ・ロビンソンが。あんたファイトマネーだけじゃやっていけなかったのかよ)演じるはあのリチャード・バートン。大真面目にアル中役をやってくれてます。マクフィストは変な詩を朗読してロックスター気取り。だがしかしキャンディを一目見るとムラムラと下半身に熱い欲望がボッキリと。「家まで送ろう」と送り狼にならんと欲すが、そのとき二人を乗せた車は彼女の家に到着しあえなく断念。酒びたしになってしまったマクフィスト先生をみたキャンディちゃんは「あ~らたいへん。おようふくかわかしましょうねぇ」と家の中に引っ張り込むが、それをみていたメキシコ人の庭師(あのリンゴ・スターお前も印税だけじゃ以下略)がキャンディちゃんピンチ☆とばかりに自分も駆けつけるが逆にムラムラして襲っちゃう。しかもそれをキャンディちゃんのパパに見られてびっくり。パパもびっくりしちゃってもうキャンディをこんな環境においとけんわいと親子でニューヨークに。飛行場でリンゴ・スターの家族に襲われてからくも逃げ込んだ先が極秘任務に従軍中の空軍ジェット。パパは昏倒し意識不明。よよよと嘆くキャンディに准将(ウォルター・マッソーがオトコ悲哀全開で演技)が「わしの子供をうめー」と襲い掛かった勢いでそのまま飛行機より降下。一家はパパを抱えて病院へ。執刀医がショー仕立てで手術するのを眺めつつまたお医者様に襲われちゃうのよ困っちゃう。ちなみに医師は“あの”ジェームス・コバーン、理事にジョン・ヒューストン、看護婦に(もう何度書けばいいのやら)“あの”アニタ・パレンバーグ。めちゃくちゃもいいとこ。ビョーキな患者さんにこれまたビョーキな病院職員医師にコリゴリよーとばかりに逃げ出せば変なカメラマンにつかまるし。せむしのおっさん(シャルル・アズナーブル…)に洋服を恵んでもらったらこれが泥棒でピアノの中でセックスしつつ警察に突入され逃げ出し街をさすらうキャンディちゃんはとうとう導師(グル)とともにさらば物質文明さらば資本主義社会とばかりにトラックの荷台にのって遁走する。(グル役のマーロン・ブランドが恥やらなにやら非常に大事なものを捨て去った演技で興味深い。彼に何が起こったのかドラッグ以下略)最後にたどり着いた砂漠で本当の導師に出会って即おまんこずっぽりしてみたらアラびっくりパパさんじゃないの~ってことで、突然崩れ落ちる伽藍のスペクタクルでちょっと予算を消費しつつ、出演者全員に出迎えられたカーテンコールの後、静かに彼女は歩み去る。どこへゆくのかキャンディよ。

とにかくこんなストーリーでなにかを期待しろってのが無理ってもんだ。個人的に面白かったのが何もかも捨て去った潔さの中で凍死まで演じきったマーロン・ブランドのグル扮装が特殊漫画の大統領根本敬先生そっくりだった、ということ。いやあこれには驚きました。まあ大事なものを捨て去っているのは彼だけではないんですけれども。もうね、地位も名誉も名声もあるいいオトナがなにもかも捨て去った巨大な地平線の姿にフルチンで仁王立ちしているがごときサマはなんというか、人生をいかに生きるべきかというイデアを与えてくれますよ。このデルフォイのオラクルをどうキミは捉えるのか?つまりやりチンやりマンなキミたちはどう生きるのかフリーなセックスをまんこキツキツでいいのかどうなのかという現代社会に対する強烈なアンチテーゼではないでしょうか(水野晴郎の映画がいっぱいより。嘘)

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「デアデビル」王道は重要

デアデビル

デアデビル

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • 発売日: 2005/07/07
  • メディア: DVD

いい映画ばかり見ていたので、ここらでひとつ馬鹿映画でもみるかと。つーわけで2作ほど馬鹿シリーズでいきます。でも駄作じゃないよってことで。(駄作はワタナ~ベズンイチにまかせるです)

アメコミの映画化って昔は本当にアレだったけど(しょぼさのあまり情けなくて涙もちょちょぎれるみたいな)、CGのおかげかようやく実写できっちりと表現できるようになりました。(そのばかばかしさを含め)特に今回のデアデビルのレーダーセンスなんて現在のCG技術じゃなきゃ表現できなかっただろうなとは思う。要はニンゲンレーダーっつーかびっくり人間大集合なわけです。基本的には超人やら身体がゴムな人やら手の先から爪がびよーんと飛び出せ性春!な人なんかは登場しない。悪役もやたらでかい黒人とか投げれば百発百中小僧とかそんなのを相手に一生懸命身体を鍛えたレーダーお兄さんが地味に暗躍するアメリカ版必殺仕事人みたいな話ですって紹介する気ゼロですがだってバカ映画なんだもん。

だいたいやねえ話なんてアータ、そんなものをアメコミ原作に期待するほうが間違っている。基本的にストーリーの整合性なんてあってなきが如し。細部は結構きっちりしているような気もするが(騒音に弱い主人公がゆえに風呂にはいったまま寝て、睡眠時は音を遮断するようにしているとか)でも良く考えると悪役がそろいもそろって正体を隠す気がさらさらなかったり(でもその割に逮捕はされない)警察がホント無能だったり、ヌーヨークってこんなおそろしかところですか!?ぶるぶるといった犯罪都市クライムシティー新宿(ってあれ?)の過剰な描写とかあれとかそれとか。

まあねえ、とはいえ、ストーリーなんてどうでもいいんだよ、つええ筋肉ムキムキマッスルミュージアムなヒロインが登場して主人公と殴りあいしつつラブロマンスが生まれんだよあたりめえじゃねえかそれ以外なにみるってんだよというスタン・リーの声が私には聞こえます。(テキトウ)まあそんな感じでベン・アフレックの躍動する肉体でも眺めてCGってすんげえなあとかキングピン役の黒人ってグリーンマイルで「おれそんなことしてねえです」とかいってたんじゃなかったっけ?みたいな不条理を感じていればよい。いろんな物事を「極限まで身体を鍛えました」の一点突破の潔さ。これぞ王道アメコミ映画。オゲージツばかりが映画じゃない。疲れなくていいのよ、ホント。

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「パプリカ」我が悪夢よ幻出せよ千年王国を築きたまえ

悪夢の、忠実なる具現化。

「パプリカ」の印象を一言で表すなら、私ならこれしかない。しかし躍動し暴発し絶笑するこの悪夢の、なんと美しく魅惑的なことか。

パプリカ」は筒井康隆原作のアニメーション作品。精神科医である千葉敦子は研究所にて勤務する傍ら、サイコセラピーマシンを使って患者の「夢」に侵入、パプリカという少女として夢分析やカウンセリングを行っている。魅惑的な「夢の女」に夢の中とはいえ接した患者は虜になってしまう。だがそのことは所長島と開発者時田、同僚の小山内以外秘密になっている。ある日、敦子は開発者時田から新開発のDCミニが盗難されたことを知らされる。未完成のそのシステムは制御装置がついてない上、時田ですら未知の可能性があるという。善後策を講じる話し合いの最中、島が突然意味不明な演説を始める。パプリカとして島の「夢」にハッキングした敦子はそこで島がDCミニの侵入をうけていることを知る。その犯人は?DCミニを盗んだ理由は?

大まかなストーリーはこんな感じでサイバーパンクなミステリー仕立てではあるが、一筋縄ではいかないのはその「夢」を具象化した映像美ゆえ。話の内容自体はすっきりとまとめられており、患者である刑事粉川のトラウマからの脱出話とDCミニを巡る謎が平行して描かれ、縦軸に意識と無意識をつなぐ「夢」というドグマ、横軸に「パプリカ」という「自由な意識の象徴」をおき、それらが「夢」の具体的なイメージ、脈絡なく展開する映像をうまくとりまとめている。ファーストシーン(粉川の「夢」)からまさに「夢」そのままの無意味に連続していくのを目の当たりにするうちに引きずり込まれ、あとは怒涛のラストまで観客はひきずりまわされることになる。見ているうちに脳内麻薬エンドルフィンだかアドレナリンだかが噴きあがり多幸感に包まれた挙句ハッピーエンドにノックアウト。心地よい疲れを味わい帰宅し、あとはテーマソングの「白虎野の娘」に洗脳されればいっちょあがり。サントラ買う羽目になるかも。

そういうわけでかなり面白い映画でした。意識と無意識の薄皮を丁寧にはぎとり、脳髄が美しく混乱し酩酊するさまを写し取ったケレン味あふれる映像もさることながら、起承転結テンポよくダレることなく織り交ぜつつ見事な結末まで、よくぞ破綻なくあの時間にまとめあげたとその脚本編集力に脱帽。やたらダラダラとジジイのオナニー並みに長ければ大作ケッ作と思い込んでいる日本映画のバカどもに必殺の一撃を食らわす作品でした。適度な「お遊び」も盛り込まれ余裕すら感じる作り。筒井ファンも今敏監督ファンも楽しめるゆえ、恐るべし。そんなこんなでマインドコントロールも無事終了し、サントラも原作も購入。悪夢を忠実に具象化した映像は疾走し我が第七識以下に飛び込むなり。アメリカにP.K.ディックがいるなら、日本には筒井康隆がいるじゃないか。もちろん両者は作風などぜんぜん違うし、例えばP.K.ディックが脳髄をそのまま自身の裂け目へ引きずり込んでいくような印象なら、筒井康隆は脳髄を破裂させ割けた脊髄そのままに哄笑しながら疾走するようなイメージだけれども、なぜかそんなことを思った。スキャナーダークリーのつまらなそうな予告編みたからじゃないよ。

パプリカ オリジナルサウンドトラック

パプリカ オリジナルサウンドトラック

  • アーティスト: サントラ
  • 出版社/メーカー: インディペンデントレーベル
  • 発売日: 2006/11/23
  • メディア: CD

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2006年12月 3日 (日)

「母子叙情」

岡本かの子全集 (3)

岡本かの子全集 (3)

  • 作者: 岡本 かの子
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1993/06
  • メディア: 文庫


新たな発見をする本、というのがある。歳月を経てもう一度読み返すと今まで気づかなかったことがわかるというやつだ。ダロウェイ夫人のような数少ない例外を除くと、頻繁に読み返す本なんてそうはない。岡本かの子のある種の本は、年をとってから読もうと熟成させる高級酒のようにとっておいたが、とうとう我慢しきれずに読んでしまった。あとはまた10年後のお楽しみである。

で、そのある種の本の中の代表格がこの「母子叙情」である。

この小説は明らかに作者本人と分かる「かの女」がパリ外遊を経て、かの地に残してきた息子「一郎」(これまた実子太郎であることが明確である)を思い、その焦がれを同じ年の男に転嫁させる、といったストーリーを耽美華麗な文体でナルシスティックに描いた作品である。濃厚な脂滴るステーキ、かくの如し。

なぜ封印していたのかというと、実に単純な話で自分に子供を持ったときに再び読もうと思っていたからだ。この「かの女」が一途に感情を奔流させる息子という存在が、やはり実際子供を持たねば理解できないと考えていた。だが、この小説はもっと奥深いところへ切り込んでいたのだ、と今日読み直してよくわかった。自分の読み込みの浅さを痛感する。

それは例えば以下の引用を読めば容易に納得できるはずだ。

『そう云えば、むす子の女性に対する「怖いもの知らず」の振舞いの中には、女性の何もかもを呑み込んでいて、それをいたわる心と、諦(あきら)め果てた白々しさがある。そして、この白々しさこそ、母なるかの女が半生を嘆きつくして知り得た白々しさである。その白々しさは、世の中の女という女が、率直に突き進めば進むほど、きっと行き当る人情の外れに垂れている幕である。冷く素気なく寂しさ身に沁(し)みる幕である。死よりも意識があるだけに、なお寂しい肌触りの幕である。女は、いやしくも女に生れ合せたものは、愛をいのちとするものは、本能的に知っている。いつか一度は、世界のどこかで、めぐり合う幕である。』

岡本かの子の小説に棲むこの魔−−「女のなげき」「人生に対する不如意」「白々しさ」−−それらは「普遍的」であるがゆえに、彼女の小説はどの年齢でも読まれるべきである。かの子の嘆きに身を埋め、女の嘆きと喜びは一体であると、私は知る。

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2006年12月 1日 (金)

「郵便配達は二度ベルを鳴らす」ヴィスコンティが生んだネオレアリスモ

郵便配達は二度ベルを鳴らす デジタル・リマスター 完全版

郵便配達は二度ベルを鳴らす デジタル・リマスター 完全版

  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2006/02/25
  • メディア: DVD
おそるべきヴィスコンティのデビュー作。後年の絢爛豪華な画面からすると隔世の感が有る白黒リアリズムだが、ドラマティックな展開、男女の愛憎の機微、悲劇的な結末と重厚に織り込まれた物語は既にヴィスコンティとして屹立している。初めて手がけた作品とはとても思えない。
 
夏の暑さは情痴を殺意にまで膨れ上がらせ、閉塞した男女関係は、初めて外へと向かったとき、終局が訪れる。途中ホモっぽい描写もありつつヴィスコンティ、男女の愛憎を描き切る。ネオレアリスモは同時多発的に産声を上げたが、この作品はその端緒となった。
 
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は都合いままでに3作、映画化されているが、このヴィスコンティのものがいちばん最初である。ハリウッド版は未見のため(そして原作も未読)、どうちがうのかはよくわからないが、ここではサスペンス要素をばっさりときりすて、どちらかというとそれは感情の襞を映し出すひとつの「道具」もしくは「スパイス」として機能させているくらいだ。
 
ストーリーは流れ者の男が、ガソリンスタンド兼食堂へ立ち寄るところから始まる。ジーノはトラックの荷台に勝手に乗り込んでは行き当たりばったりに整備の仕事をしている男で、そのとき金はなかったが、食堂で飯を食って逃げてしまう。店主のブラガーナは連れ戻し、車の整備やら店の手伝いをさせる。店にはほかに彼の一回り以上若い妻ジョヴァンノがいた。ジョヴァンノとジーノは一目で惹かれあい、亭主の目を盗んで情愛を重ねる。愛もなくただ安定した生活のために結婚したジョヴァンナをジーノは駆け落ちに誘うが、いったん駅まで来たところで、彼女は戻ってしまう。「流れ者の生活には耐えられない」
ジーノはそのまま列車に無賃乗車を決め込むが駅員に見つかる。窮地の彼を旅芸人のイスパーニャが救う。彼は旅費までだしてくれた上、一緒に旅をしようと誘いかける。ジーノはイスパーニャとともに旅の生活を続けるが、あるとき興行先で偶然ブラガーナ夫妻と出会う。ジョヴァンナを忘れられないジーノはそのまま夫妻の車に乗り込み、酔っ払ったブラガーナを事故に見せかけ殺してしまう。
厳しい警察の追及を逃れ、やっと二人の生活が始まると期待するジョヴァンナだったが、ジーノは罪悪感にさいなまれる。そこへイスパーニャが現れ、旅の生活へ再び誘うが、激しく拒絶する。傷ついたイスパーニャは警察へ密告。ジーノは街でであったアニータという女と情事を交わすが、ジョヴァンナに知られてしまう。警察に指名手配されたジーノはジョヴァンナの密告と思い込み、彼女の元へ怒鳴り込むが、変わらぬ愛とおなかの子供を告白され、逃亡を決意。だが、運命は彼らを見捨てず、さらなる悲劇へ追い込むのだった。
 
これが初めてとは思えないほど、ヴィスコンティの演出は磐石で迷いがない。夏の暑さは人を狂わせる。その情痴の密度を乾いたタッチで魅せてくれる。ブラガーナ殺害を決意するシーンなぞ、特に相談するわけでもなく、お互いの身体の中に膨れ上がった殺意が、目と目を合わせたことをきっかけに決壊するなど、実に小憎らしいぐらいリアリスティックだ。編集もうまい。例えば通常、特にハリウッド映画ならば、ブラガーナの殺害場面を微にいり細にいり、パン、フォーカス、角度クローズアップなどを多様しながら迫力を出すように演出するだろうが、ヴィスコンティはジーノが運転を変わったシーンのあと、事情聴取を受けるジーノとジョヴァンナにすぐ切り替えてしまう。ここで観客はサスペンスが主題ではなく、監督が原題どおり「妄執」を映し出すことに専念していることを思い知らされるのだ。
 
その「妄執」は(後年の作品に比べればかなり薄味だが)旅芸人イスパーニャがジーノに抱く男色描写にも波及している。イスパーニャにジョヴァンヌとの生活を罵られ思わずカッとなって殴り倒す。それはまるで痴話げんかのように見えるし、イスパーニャの表情に浮かぶ嫉妬の感情が雄弁に語りだす。ブラガーナのジョヴァンヌへの妄執、イスパーニャのジーノへの妄執、そして主役二人の微妙に食い違う妄執、それぞれのベクトルが複雑に交錯する中で、悲劇が織り成される。殺した男の家に平然と住み続ける女の図太さ(そして殺した男のベッドで夜な夜な繰り返される痴態)。罪障感にいたたまれなくなった男は手伝いの少女に尋ねる「俺って悪人に見えるか?」この救いようのなさをネオレアリスモとするならば、確かにここで産声をあげていると私は思う。うだるような暑さ、猫のわめき声、男と女。それらが愛憎と情痴を伴いくっきりした輪郭で浮かび上がる。
 
正直、途中でかったるく中だるみする箇所もあるが(特にモノローグが続くところなど)展開、編集いうことなし。原作からサスペンス要素をそぎ落とし、絵空事ではない人間の生身の姿を叩きつけたような作品。原作に忠実な(そしてモデルとなったルースとジャドの事件が起こった)ハリウッド版(ジャック・ニコルソンのじゃなくてラナ・ターナーの肢体が魅惑的なほうね)がどう差異をつけているのか、そちらも楽しみだ。

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