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2006年11月29日 (水)

メガネを忘れて渋谷にいって

渋谷は嫌いな街ではないが、一人では歩きたくない。

私は高校があのあたりだったので、学校帰りにはよくよったし、授業をサボって映画にいくとしたら渋谷だった。そういう意味では行きなれているのだが、どうも一人で歩くことには抵抗がある。それは別に彼氏とじゃなきゃいやンなどという甘い世迷言ではなく、渋谷という街と私のベクトルの差のようなものである。

これが新宿なら、私はいつの季節であろうと夜ほっつき歩くのは大好きだし、たいした用がなくてもホロホロと放浪してしまうのである。裸のラリーズかストーンズか、お気に入りの曲と共に夜を謳歌するのは至福の瞬間である。夜の底を浮かび上がらせるネオンが私の上にやわらかく落ち、何かが起こるという期待と高揚、夜の先の先へ歩けるようなあの感覚。特に夏だとより楽しい。誰かと一緒にいるのをわずらわしいとすら、思ってしまうほどに。

同じ繁華街でも、多様性を認知しつつも取捨選択を行い排除しているのが渋谷のような気がする。どうにも好きになれない「コムサデモード」のマネキン群のように、ある種の文化を強制しているような、価値観の提示を受け入れさせられているような気すらする。これが原宿となると「元気いいねえ」と諦観の中で肯定できたりするのだが、やたらに前向きな20代半ば女のように、渋谷のそれはなんとなく疲れてしまうのだ。年増の寛容さ(放置という名の拒絶)に満ちている新宿、わけても歌舞伎町の雑然さが恋しく思える。新宿の女とはいうが、渋谷ではなんとなくそぐわないのは、「渋谷は少女」という印象が強いからだろうか。

酔っ払ってメガネを置き忘れた。とりおいてくれているユーロスペースへむかう坂道をのぼりながら、そんなことをなんとなく考えた。ラブホのネオンはまぶしい。

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2006年11月28日 (火)

「モンパルナスの灯」

エコール・ド・パリを彩る伝説の画家モディリアーニをこれまた1950年代のフランスを代表する伝説の美男俳優ジェラール“ファンファン”フィリップ(岡田真澄のファンファンは彼に由来する。パクったのはあっちだ)が演じるというまるで一挙両得といわんばかりの布陣。

物語はモディリアーニの晩年に焦点をあてている。酒ばかり飲んで絵を描き女にたかりぶん殴るという典型的なダメ男であるが、いい男がそんな「バカヤロウ」だとどうしても女性のいわゆる『母性本能』を刺激されるわけで、彼には世話をしようという女が後を絶たない。(しかも肺病病みなんていうとダザイっぽいな)そんな彼の前にエゲリアとしてジャンヌという清純な乙女が現れる。二人はジャンヌの両親に反対されながらも結婚し、彼女はモディリアーニを必死に支えるが、貧困と病苦の中、酒におぼれ、絵にひたすら淫し、彼は死んでいく。

ジャンヌを演じるアヌーク・エーメがそのしっかりした顎で芯の強い耐える妻を好演している。ジェラール・フィリップは、モディリアーニの実像からすると繊細と知性が勝ちすぎている感もあるが(『モディ』本人はどちらかというとイタリア系の野性的な顔立ちである)いわゆる“美男鑑賞映画”という枠を大きく超え、鬼気迫るほどの迫力で演じきっている。特にアメリカの富豪に(本当は彼の絵を商標に用いろうとして)絵の購入を持ちかけられ、彼のホテルに行き、出国間際のばたばたした豪華な広間に静かに座り、自己の芸術、自分の絵について語る場面など圧巻である。無から有を生み出すその労苦、そして自らの生み出した「芸術」が、生活のためには否応なく価値がつき金銭へと変わっていく悲哀を全身から漂わせ、ゴッホについて話し、商標化を拒否する。自己の絵に対する絶対の自信と世間との評価の落差、妻との生活を背負うことの痛み。絵画であれ彫刻であれ文章であれ、同じように「無から有を生み出す」ことの苦しみを少しでも知っている人間なら、その悲痛さに身体を打ち砕かれざるをえないだろう。青春の痛みに満ちた作品である。

ジェラール・フィリップはこの作品の一年後に『モディ』と同じ36歳で亡くなっている。彼の繊細な知性は、輪郭のはっきりとした白黒の画面の中で美麗なまま、永遠に息づいている。

モンパルナスの灯

モンパルナスの灯

  • 出版社/メーカー: ビデオメーカー
  • 発売日: 2003/12/19
  • メディア: DVD

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2006年11月27日 (月)

「父親たちの星条旗」

まず、クリント・イーストウッドのアイデアに称賛を送りたい。もしこれが日本側の物語が「遺族、戦争の英雄たちの戦後」を描き、アメリカ側が「激戦の地で我々はどう戦い抜いたのか」を訴えるものなら、凡百の「9・11後のアメリカ国威高揚映画」の片隅へ小奇麗に収まる作品となっていただろう。アメリカ人にとって見たくない部分ーー英雄は英雄足り得ず、ジャップという名の黄色い猿にも家族があり、勇猛に戦って悲壮に死ぬーーを描き出すことによって、日米双方にとって納得のいく作品とすることができたと、私は思っている。「納得」の行き着く先はもちろん「戦争」に対する「戦後のわたしたち」の意識である。戦後はいつ終わっていたのだろうか、ということへの問い掛けである。

注意しておかなければならないのは、この作品が決して「アメリカ人」に対して第二次世界大戦の認識を改めるように迫るだけではなく、勿論「敗戦国」日本人の溜飲を下げるだけの物語ではないことだ。映画はそんな安易な落としどころを超えて、もっと普遍的な部分に立脚している。

「父親たちの星条旗」で描かれるのは、「アメリカの銃後」である。不勉強な私はこの作品で初めて知ったのだが、当時アメリカの国力は疲弊しており、厭戦気分が蔓延していて米財務省は国債購入に四苦八苦し、戦争を続けることが難しくなっていた。そこで財務省はこの「硫黄島の英雄」に目をつけ、彼らを国債購入のマスコットとして全国行脚のツアーにだす。旗を立てたのは6人だが、生き残ったのはそのうち3人だけだった。衛生兵と伝令兵とアメリカ先住民族出身の兵士。3人はそれぞれの「戦後」を抱えながら、「英雄」としての立場をまっとうしようとする。戦地でなくなった戦友のために。

(既知の人にとってはなにをいまさらだろうが)硫黄島の激戦は日米双方にとって大変重要な意味があった。日本側にしてみれば、ここを落とせば本土空襲が容易になり、アメリカ側にしてみれば補給地点が出来るので本土攻撃を成し遂げるためにも是が非でも落とさねばならないまさに天王山であった。そうなると、通常の映画なら(プライベートライアンという「駄作」の場合など特にそうだったが)ここぞとばかりに「アメリカ側から見た」戦闘場面に力を入れるのだとは思うが、今回、そういったシーンは3人が花火をみたり、なにか連想するものに遭遇したときのフラッシュバックとして想起される「記憶」の中だけであり、その構成が見るものにまるで不意打ちのような鮮烈な印象を与える。このあたりポール・ハギスの脚本は見事としか言いようがない。彼は「クラッシュ」でも多民族国家における多重構造の差別について描いていたが、その視点は今作でも生かされており、あの有名な硫黄島に星条旗を掲げる6人のうち一人だけアメリカ先住民族出身の兵士がおり、彼は硫黄島攻略の英雄に祭り上げられながらも、決して「名誉白人」にはなりえない現実を突きつけられることになる。では残りの二人の「英雄」はその後「順調な」人生を歩んだかというとそうではない。結局戦後を生き抜くためには戦歴よりも兵士になる以前どうであったかが重要となってくるという事実が厳然と聳えていた。そのため一人は安泰な人生を送れたが、あとのふたりは。そこで「われわれは君たちを見捨てない」という軍上層部のかけた言葉の残酷さが問われてくる。もっともその言葉の意味は繰り返し映画の中で問われてくる。硫黄島に向かう船団の上を戦闘機がすれすれに通り過ぎていく、これから行われる戦いの高揚もあり興奮した兵士たちは艦隊のへさきだのによじ登り歓声をあげるが中の一人が海中へ落ちてしまう。すぐに浮き輪を投げるが届かず、周りの兵士は「船が止まるだろ」と悠長に構えているのだが、速度が落とされることはない。そのまま戦艦は進み「兵士を見捨てないっていうのは」と新兵がポツリと呟く。残酷な現実が口をあけて彼らを待ち受けている。

しかし戦争の真実とはそれだけではない。私がプライベートライアンを見て感じた違和感はなにも黒澤からの引用が多すぎるとか最後がまるっきり西部劇の騎兵隊だ、とかそういうことではなく、ある一面からの真実しか描かれていないことに由来する。つまり「戦争ってこんなに残酷なんだよ」という側面のみ見せ付ける点である。「父親たちの星条旗」がそういった紋切り型映画と決定的に違う点は、そこを一歩踏み込んで、死ぬことも生き残ることも、本人と家族へ多大な傷と悲しみを背負わせることであり、そこに対する大衆の無理解さ、不寛容を表現したことにあると私は思う。いままで「一兵卒」の観点から描いた戦争映画は数多いが(プラトーンしかりフルメタルジャケットしかり)、「英雄」の観点からみた映画は本作が初めてだろう。畏怖すべき(そして忌むべき)彼らの観点から語られた「語られない戦争」の真実。国は兵士を見捨てるが戦友は見捨てない。映画の中で語られるこの言葉の意味は大きい。では見捨てたのは軍上層部だけなのだろうか。

忘れてはならないのは、彼らは望んで戦地へ赴き、そして人殺しをしたわけではない。私たちのために、国のために、正義のために、他国の人間を殺したのだ。彼らを戦争へ駆り立てたのは私たちなのだ。国はそれ自体単独で成り立っているのではなく、わたしたちの共同幻想によって作り上げられている。そのことを忘れたとき、また国旗が掲げられるのだろう。傷ついて荒廃した新たな「摺鉢山」の上に。

おそらくこの映画のシーンで「硫黄島からの手紙」とクロスするのは二つ。一つは、主人公の一人である衛生兵が洞窟で自決した日本兵を発見する場面。かなりグロ画像のような状態になっているのだが、ひとりなにか手紙のようなものをかたわらにして拳銃自殺している。あれが栗林中将ではないかと思うのだがどうだろうか。(史実とは異なってしまうのでバロン西か別な日本側の登場人物かもしれない)もうひとつは衛生兵が壕の中に残してきた(チームを組んでいた)新兵が、そのまま日本兵の潜む洞穴へ引きずり込まれかなり残虐な殺され方をしている場面(死体そのものは映し出されずただ悲痛な衛生兵の顔立ちによってどれくらい悲惨な状況か伺えるようになっている)。ここが「硫黄島からの手紙」で日本側の視点として描かれると思う。とまれ「硫黄島からの手紙」が非常に楽しみである。二つの作品まとめてでいいから是非アカデミー作品賞を受賞して欲しいと私は思う。

私の叔父は北支(北部中国)で従軍していた。かの地で衛生兵と戦友となり、自分の妹と結婚させた。映画でも伝令兵が衛生兵に結婚式の介添えを頼む場面が出てくる。「故郷の友達とかいないのか?」と尋ねる衛生兵に対し、「いや…もう彼らとは何か違うんだ」と答えるくだりをみて、私は叔父たちを思い出した。彼らの絆は幼い私がみても何か別のものを感じさせた。父はその叔父から捕虜を斬首した写真を見せられたそうだ。それは彼が自分で撮ったものなので、対日工作用のプロパガンダ画像ではない。そういう現実はある。だが彼らも「誰かを守るために」戦っていたのだ。ありのままの戦争を見つめよう。最後に映画が語りかける言葉の意味を、われわれはもう一度見つめなおすべきだ。語られない戦争に目をむけ、私たちの「戦後」を終わらせるために。

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官能と筋肉痛(なんてセクシー)

二日酔いになった。

最近酒を飲む楽しみ(とはいうもののごくわずかでグッとくる低燃費を誇らしく思ってしまうわけではあるが)を覚え、なんのかんのと飲んでしまう。昨日は「興味深い映画」をみたおかげで(だいたいそういう映画は、映画好きと見に行き、あーでもないこーでもないと語ることが目的だったりするのだ)いい感じで飲みながら映画について私の知っている二、三の事柄を開陳(チンは開かないの)することとなり、そんでもって今日はあてどない二日酔いをつらつらと漂う羽目となった。特に忙殺されるほどの仕事量ではなかったので、助かってはいる。しかし筋肉痛も抱えてたりして。

走力のために用いられる筋肉は当然、普段鍛えている筋肉とは別種であり、ゆえに全身にわたって筋肉痛を呼び起こされる。時折鈍い痛みが自己主張するが筋肉は微熱を帯び、全身は甘いダルさに包まれている。これはなかなかに官能的である。行為の後のようだ。しかしなんの行為だ? とまれ、筋肉痛の熱っぽさと二日酔いの倦怠感。ベッドに静かに横たわり、足を開いて誰かを見つめることととんと縁遠くなってしまった私にしてみれば、絶好のエロ文書きのチャンスではあるのだが、イマイチそういう気にもなれない。そういうときは向かえ酒ならぬ向かえトレーニングをするに限る。そうして私はナニならぬウェイトを握って上下にするのであった。たまらんねえどうも。二日酔いと筋肉痛。官能はこんなところにも潜んでいるのです。足の間だけではないのよハニー。

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「サラバンド」

「サラバンド」

イングマール・ベルイマン、齢85にしてデジタル映像への挑戦。現在のところ、彼の最後の作品、といえる。横軸として家族間の愛憎(父と息子、その息子と娘、父と後妻、後妻とその娘)を置きながら、縦軸として貫いているのが「死と和解(もしくは理解)」であると私は思う。

物語はプロローグとエピローグ、それから10章の章立てで構成されている。プロローグでマリアンがたくさんの写真を机の上に並べ、自分とその元夫であるヨハンについて語る。マリアンは観客であるわれわれに語りかけるが、デジタル映像特有の奥行きのない、細部にまで明度と彩度がいきわたった画面で見ているとまるで舞台劇のようである。(ベルイマンの映画が舞台的であるというのは別にこの作品が初めてではないが)マリアンはプロローグのあと、ヨハンを尋ねる。ここでフシギなのは、マリアンがヨハンの家の中へ入っていくと、入ったとたんに扉が音をたててしまり、柱時計はなり響き、あけてあった部屋の扉もまた、ひとりでに閉まっていく。個人的にはここでマリアン=死の象徴(とそれに伴う和解の象徴かなにか、人と人をつなぐ超自然的な存在)とも思ったのだが、以降特にそのあたりを匂わせる場面はなかった。ベルイマン自身を投影させたと思しきヨハンは86歳という設定で(これはベルイマンの製作当時の年齢でもある)、ベルイマンの長年の愛人であったリブ・ウルマン演じるマリアンもやはりほぼ実年齢どおりで演じ、現実と虚構がないまぜになったまま物語は進んでいく。

近くのコテージに住むヨハンの息子ヘンリックとカリーンの父娘は、チェロ奏者であるヘンリックが、カリーンの音大受験のため、厳しい指導を続けていた。父娘の濃密な関係は、ゆえに、激しくぶつかりあう。カリーンはある日泣きながらマリアンを尋ねてくる。父への憎しみを叫ぶように語れば語るほど、見ている側としてはその裏側にある愛着へと思いを馳せずにいられない。それは、より具体的な近親相姦関係を想起させるように、この後父娘の休戦協定が行われるときも、二人が同衾する(といっても文字通りで特に性的なニュアンスはない)ベッドの上で話し合われたり、また口論をしながら思わずキスして舌を絡めあうシーンなどで暗示されたりする。

なぜ父がそのように娘を(ヨハン曰く)「ねばつく愛」で縛り付けるているのかといえば、妻アンナを二年前に亡くし、その喪失感から娘を代用品にしてしまっているからで、またカリーン自身もその依存関係に陥ることによって、喪失の痛みに耐えていた。喪失の痛みに耐えているのは「自分と似ていることに気づいてから憎むようになった」とヘンリックに対し容赦ない攻撃を加えるヨハンも同様である。あらかじめ失われた世界は閉じ環の中で成立していたのだが、マリアンという「闖入者」の存在が、彼らの関係に波紋を作り、それはヨハンとヘンリック、ヨハンとカリーン、そしてその背後に横たわる「アンナ」へも波及し、それぞれにある決断を促すこととなる。

縦軸と横軸が交差するところに「愛」が存在するとするならば、その中心にいるのが亡き「母アンナ」である。アンナはカーリンの母だけではなく、ヘンリックの、そしてヨハンの母としても存在している。(死ぬ間際にヘンリックへ送った手紙などがまさにその象徴ともいえる)引き起こされる「悲劇」は、一見救済がないように思えるが、最後、マリアンとその娘の間で行われる「交歓」によって、ひとつの救いの予感が提示される。ベルイマンが自身の老いと死を画面に投射させ色濃い晩秋の景色と喪失の痛みが作品を支配しながらも、その中から静かに響く旋律は、和解は容易ではないが、わかりあおうとすることはできる、そう「決意」することによって、人は少し歩を進めることができるのではいか、という「対話する行為それ自体の意味」ではないだろうか。

章ごとに淡々と、ほとんど登場人物のモノローグで進んでいく展開は安心して眠気を呼び込んでしまうのだが(事実、父娘の休戦シーンで音高らかにいびきをかいて安らぎの心地へと旅立っている人がいた。一緒にいった人も何度か意識を失っていたし。私は、人が意識を失うと隣にいる側もなんとなく気づくということを知った)、だからといって決して退屈な話というわけではなく(とはいえハリウッド的面白さともフランス映画的洒脱とも無縁なわけではあるが)実に興味深い内容であり、画面に漲る緊張感はさすがである。そして眠気がピークに達する頃わざわざヨハンが号泣して素っ裸となりマリアンと眠るシーンなどが用意されているなど、ベルイマンの「意地悪さ」を若干見る思いがした。(おそらく映画史上最高齢ヌードではあるまいか?しかもきっちり丁寧に「全部」うつすし)あるいはヨハンがマリアンに「あいつ(ヘンリック)は忠犬そのものだ。みてると腹を蹴り上げたくなる。これは比喩だよ」などといったりして、東欧的硬質ジョークというか面白みにかけるところが面白いというところなぞ、いかにもベルイマンという感じがする。映画として高評価!傑作!と評することは残念ながら難しいが、老いてなお自己との対話をもとめる、ベルイマンはベルイマン、ここにあり。

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2006年11月26日 (日)

「さすらい」

さすらい

さすらい

  • 出版社/メーカー: アイ・ヴィー・シー
  • 発売日: 2004/04/25
  • メディア: DVD

ミケランジェロ・アントニオーニ「愛の不毛4部作」のうちの第一作。1957年につくられたこの作品は、前夫人が「あなたをもう愛してない」と一言残して出ていったことに対するアントニオーニの回答だそうだ。物語は、その心情を反映するかのように、陰鬱に展開し、救いがない。

7年内縁関係にあったイルマに、ある日突然、彼女の夫の死をきっかけに「ほかに好きな男ができたから別れてくれ」といわれたアルド。彼は喪失を抱え、娘を連れて村から村へ放浪する。旅先で幾人かの女と出会い、肌をすり合わせることになっても、イルマへの追慕を断ち切ることはできない。村に戻った彼はイルマが別れた後に生まれた赤ん坊をあやしている姿を見、絶望し、元の職場である製糖工場の鉄塔に登り、イルマの目前で落ちる。

イルマから追い立てられた彼は、元の恋人の家へ向かう。安堵しながらも、その妹に誘惑されたことでイルマへの感情をかき立てられてしまう。そしてそこを後にし、また流れていく。このあたりの感覚が、身につまされるというか、私も同じようなことをしたことがあったので、他人事ではない。そのとき、その男は「戻ってこれるものなのか?おれは新しい子と新しい人生を始めたいんだ」と泣いた。後で聞けば、彼は新しい人を作ることも無く過ごしたようだった。ナット・キング・コールの「ルッキングバック」ではないが、振り返れば見えてきたものがあったとしても、そこにはもう戻れない。イタリアの寒村の様子を背景に、旅は続く。
続いてアルドが流れついたのは、父娘二人で経営しているガソリンスタンドで、なんとなく働き始める。女は生活力あふれるたくましい娘で、アル中の父親に苦悩しつつも、それなりに快活に過ごしている。アルドの娘は女の父を祖父のように慕い、疑似家族のようなものが形成されつつあるが、女は母であるよりも主体的な女であることを選択し、父親を施設に入れ、幼い娘を故郷に帰し、放逐してしまう。そうなってくるとアルドの胸に去来するのはイルマが「女」でありつつも「母」であったことで、必然的に彼はそこを去っていく。
最後に出会ったのはまだ若い娼婦。身体を壊し、流産経験のある彼女は、アルドとの落ち着いた生活を望むが、生活苦から元の道へ戻ってしまう。アルドは絶望し、故郷へと足を向ける。

ストーリーは煽ることも無く、出来事が淡々と羅列されていくだけで、説明も無く、映し出されるのはイタリアの寒村の風景と、男の絶望だけだ。娘は黙々と父親の放浪に従事し、学校で遊ぶ同年代の子供たちを見たときにも、泣くことしかできない。父親はそれどころではなく、内心の空虚さ、喪失感を持て余し、ただ自己と対峙し続ける。まさに不毛としか言い様のない光景である。冒頭、イルマは工場で働くアルドに声をかけるが、それは結末でも繰り返され、物語は円環となって終了する。

ネオレアリズムの影響か、もしくは自身の社会主義的な感覚からか、今日的視点からすると奇妙に思える箇所も有る。たとえば、ガソリンスタンドで働いているとき、アル中のおやじはアルドの娘に唄を教えるのだがそれが「ブルジョアを殺せ」という酷く物騒な内容だし、クライマックスは空港建設をめぐる争議の真っ最中であるなど。そのあたり、イデオロギー喧伝とも思ったりもするが、特に作品としての質を落としているほどではない。

アルドはなにを求めてさまよっていたのか。イルマとの決別ではないと思う。おそらくは自分自身に対しての決別で、赤ん坊云々はあくまでも「欲しかったきっかけ」に過ぎないのだろう。アントニオーニの身代わりとして死んだアルドは、だからこそ永遠の命を得たと私は思う。

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2006年11月25日 (土)

「ドッグヴィル」ラース・フォン・トリアーの無意味な悪意

ドッグヴィル スタンダード・エディション

ドッグヴィル スタンダード・エディション

  • 出版社/メーカー: ジェネオン エンタテインメント
  • 発売日: 2006/03/24
  • メディア: DVD


ドッグヴィルという嫌な映画を見た、と知人にその大まかなストーリーを話したところ、「それは君が好きな小説の主人公たち、そのものじゃないか」と言われてしまった。違うと思うな、と私は返した。「フラナリー・オコナーなんて、“善人”いわゆる“フツーのヒトビト”がそのフツーさゆえに選択する出来事によって不幸な目にあうっていうのはあるけれども、そこにあるのは神の視点で、ある種の救済としての不幸なんだよね。でも『ドッグヴィル』には神の視点が“不在”であるがゆえに、ひたすら嫌な感情しか残らない」

ラース・フォン・トリアーの作品は、「奇跡の海」でその悪意の照射をまともに食らって以来、見ないようにしていたのだが、今回、友人から「いろんな意味ですごい映画」と紹介され、もう一度見てみようと思った。ハリウッド俳優を使って彼がナニをやったのか見てみたかった。でもそこにあったのは変わらない「自分視点」からの「悪意」の照射であった。

舞台は山の中のド田舎にあるドッグヴィルという人口15人程度の村。そこに都会からグレースという女(ニコール・キッドマン)がギャングに追われ迷い込んでくる。村の指導者的立場である作家志望の青年は彼女に惹かれ、かくまおうと提案するが、それはやがて村を巻き込んだ狂気へと発展していく、というのが大まかなストーリー展開。

匿ってもらう代わりに村の人々の労働を肩代わりしてみたら?と作家志望の青年に提案され(そしてそれは彼の“傲慢”な実験的意味合いも含んでいた)グレースはこまごまとした雑務に終われる日々をおくる。村人は感謝し両者の関係は良好に思えた。だが、ギャングが懸賞金をかけるなど執拗にグレースを探し始めると、村人たちの中にある種の権力的意識が芽生える。かくまってやっているんだから、通報されたくなければいうことを聞け、とグレースは挙句『奴隷』の立場にまで身を落とす。ついには村に混乱をもたらしたとしてギャングに通報されてしまうが、はたしてグレースはマフィアの娘だった。彼女は村人に裁きを下し、焼き払って立ち去る。

人間不信と悪意に満ち満ちたこの寓話は、プライバシーなんてないことを表現する、ドイツ表現主義の稚拙な再現のように個々の家は単に線で表現され、まるで舞台のように展開していく。要所要所でナレーションにより人物の心象が説明され、丁寧に綴られていく。

耐えられないほど嫌な話ではあるのだが、最後まで見てしまうほど、物語の磁力は強い。確かに単調で画面構成が絵としての魅力には絶対的に欠けている為、途中飽きてしまったりはするのだが、それでも目を離すことはできない。安手のホラーよりも断然恐ろしい話であることは間違いない。個人的にはこの映画を見て徹底的に人間不信に陥った時期の梶原一騎の作品を連想した。まさに「人間の性悪なり!!」と大書しているようだ。

だが、私はこの物語を「嫌な話ではあるが傑作だ」と評することは出来ない。なぜなら、前述したとおり、この話には「神の視点」が「不在」であり、俯瞰して物語を眺めるというよりは、登場人物たちの目線どおりをたどらざるをえないからだ。ラース・フォン・トリアーが宗教者であるのかどうかは私は知らないが、神による救済のないこの物語はだからこそ決定的に破綻しているがゆえに、私には受け入れられない。

確かに既に神は「死んで」しまっているし、そもそもそうした「不在」をテーマにした「人間の観念」による「行為」の愚かしさを描いた映画であることは十分に理解しているのだが、どうも突き放し方が中途半端である気がしてしまう。

このあたりの感じ方は、もしかしたら私が「性悪説」ではなく「性マヌケ説」を選択しているからだろうか。悪意よりもひどいのは軽蔑である。実のところ、私のほうがラース・フォン・トリアーよりも酷いカタチで人間不信なのかもしれない。

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2006年11月24日 (金)

「頭がいいね」

「頭がいいね」と社交辞令を言われて素直に喜んで得心するほど愚か者でない私は、いつもはあどうもと言葉を濁してあいまいな顔を作ることしかできない。

そもそも女にとっての頭のよさとはなんだろうか、と思ってしまう。当意即妙の受け答えか、はたまた新聞並にナニを聞いても有る程度答えられる知識なのか、それとも場の空気をそれとなく読み、相手へ気を配れる能力か。まあなんだ、もし仮に私がそういうものの総称としての「本質的に」頭の良い女だったら、こんなところで日々シコシコとなにかを書き連ねることなどしないで、23歳ぐらいでさっさと結婚して旦那様と幸せな家庭生活でも営んでいるわけで、そうできてないということは「生物学上」の観点からすれば「頭が悪い」としかいいようがないのではないか、と思っている。フェミニズムなんてファックです。

こういうふうに考えていると、形而上学的なことが必要な女の不幸についてつらつらと思いをはせてしまうのだが、女性週刊誌的な女の幸せに恵まれているのであればそんなものは不要で、そのあたりを考えれば考えるほどため息しか出ない女の秋のかなしさよ。つまりこんなことをぐだぐだ書いている時点で女としては「終わっている」ということ。

身体的顔面的コンプレックスを抱え、男のかわりに知識を喰らい、一人でも生きていけるわ健気な私と牙城を形成し、閉じこもってしまうことだけは避けようと思っているのだが、最近の己の情勢を見る限りでは、どうやらその「象牙の塔」へ引きこもらざるを得ないようである。

そういうわけで、私は頭の悪い女なんです。かわいげだけで生きていける女に来世では生まれ変わりたい、と淡い希望を胸に、手のダンベルダコを見つめウェイトをあげさげし、子宮にナニを詰め込む替わりに、今日も知識に食らいつくのです。「頭が良いね」と私にお世辞をいう君よ、それは皮肉か嫌みかあてこすりかと考えてしまう我を許したまえ。哀れなる哉、汝の名は女。なむさん。

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